■プロフィール

にしみやうしろ

Author:にしみやうしろ
小田急沿線で生まれ、金沢で北陸鉄道にはまり、愛知では名鉄に臨海鉄道さらに森林鉄道、今ではすっかり私鉄・貨物ファンに・・・。
鉄道に由来していろんなものに興味を持つようになってしまいました。

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ
■カテゴリー
■閲覧数(2014/8/12~)

閲覧数(2014/8/12~)

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
座間の砂利軌道~その2~
座間の砂利軌道や国鉄、私鉄、側線の変遷を簡略図にして見ました。
駅名、路線の変遷が激しく土地勘のある人間でもややこしくて描き始めてから若干ウンザリしたほどです(自爆)

1934(昭和9)年頃
ebina-map1934.png
1933(昭和8)年に昭和砂利の四ツ谷軌道(赤)、1934(昭和9)年に小田急砂利の新磯、新田宿軌道(オレンジ)が開設されています。
相模厚木から相模、中津、小鮎川合流点へも軌道がありますがこちらは業者などは一切不明。
ホイットコムMO型らしい機関車の写真を見たことがあるので昭和一桁開設の路線と思われます。
現在の海老名駅の位置には何もなく厚木駅周辺がターミナル駅の役割を果たしています。
それも小田急の駅は地名の河原口、相模鉄道と神中鉄道の駅は相模川対岸の町名です。
神中は小田急との接続を重視して河原口駅により近いところに厚木中新田口乗降場(現在のJR相模線厚木駅旅客ホームの辺り)を置いています。何ともややこしい話です。
因みにこの図の中で現在までに駅名も位置も一切変わらずに続いてる駅は1つもありません。何て恐ろしい・・・(^ ^;)

1938(昭和13)年頃
ebina-map1938.png
1937(昭和12)年に座間へ陸軍士官学校が移転して来ます。
新磯軌道は士官学校の構内を横切ることになってしまいます。
また新磯、新田宿や四ツ谷軌道とも小田急の駅までが遠く、コストの問題もあってより近くの相模鉄道へ接続するように変更されます。新磯軌道は1942(昭和17)~1943(昭和18)年頃まで士官学校敷地内を切通しで抜けて相武台前まで運行されてたとも言われよく分かりません。
また四ツ谷軌道を使用していた昭和砂利は会社自体も相模鉄道の傘下に入ったようです。
四ツ谷軌道(軌間610㎜)と新田宿軌道(軌間762㎜)は入谷貨物駅に乗り入れますが途中で軌間の違う線路同士が合流し共用区間は3線軌道になっていました。
(座間新戸→)陸士前駅からは相模鉄道新戸採取所と思われる辺りまでは構外側線も敷かれました。
また(新座間→)座間遊園駅は小田急が向ケ丘遊園に続く2つ目の遊園地建設を目論んで駅名を変えていますが遊園地建設は実現しませんでした。

1942(昭和17)年頃
ebina-map1942.png
砂利軌道の見た目に変化はありませんが相模鉄道の倉見や入谷(四ツ谷)、新戸の砂利採取業務の下請け会社として1940(昭和15)年7月1日に相模興業が設立され、相模鉄道から砂利採取船やガソリン機関車、ナベトロなどの施設を貸与され砂利採取業務を行うようになります。
また小田急、相模、神中の各鉄道の連絡が激変。
貨物では小田急と相模鉄道の間に短絡線が敷かれ小田急砂利の貨物が中新田から短絡線経由で東北沢へ送れるようになりました。
この短絡線ができる前は小田急砂利の貨物がどういうルートで輸送されていたのか気になるところですがよく分かっていません。
旅客では1941(昭和16)年11月25日に小田急、神中が接続駅を新設の海老名駅に移します。
神中のガソリンカー(実際は代燃車か?)が小田急線上を海老名~相模厚木で乗入れも行いました。
神中の相模国分~厚木は貨物専用線となり、不要となった接続駅も整理されて廃止、または貨物駅化されます。

1950(昭和25)年頃
ebina-map1950.png
砂利軌道の見た目に変化はありませんが業務請負により戦時中に相模川左岸の各砂利軌道が相模興業により運行されるようになりました。
砂利の需要先としては敗戦により大口顧客の帝国陸海軍が消えた代わりに進駐軍からの注文や復興需要が入るようになります。
なお戦中から戦後にかけ私鉄各線、砂利軌道の経営主も戦時統合で激変していました。
以下年表でまとめます。

1942(昭和17)年5月1日 東京横浜電鉄、小田急電鉄、京浜電気鉄道合併、東京急行電鉄(東急)となる
1943(昭和18)年4月1日 相模鉄道が神中鉄道を吸収合併
1943(昭和18)年12月1日 相模興業、東急より元小田急の新磯、新田宿での砂利採取請負
1944(昭和19)年6月1日 相模鉄道相模線国有化
1945(昭和20)年6月1日 相模鉄道、東急へ経営委託
1947(昭和22)年5月1日 相模鉄道、東急への経営委託解消、自主経営に戻る
1948(昭和23)年6月1日 小田急、東急から分離独立

テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

ナローゲージ | 21:44:01 | Trackback(0) | Comments(0)
座間の砂利軌道~その1~
本厚木に住んでいた頃調査してましたがそのままとなっていた相模川の砂利軌道。
相模鉄道(現・JR相模線、母体となった相模線は国有化されましたが企業自体は合併した旧・神中鉄道線の相鉄本線やいずみの線を営業して続いてます)、小田急が持っていたナロー軌道と言うことで数回に分けてアップします。

①相模鉄道の砂利輸送
相模川では地元の住民による手篩による砂利採取が細々とおこなわれていましたが1923(大正12)年9月1日の関東大震災後コンクリート建築の普及が一気に進み、骨材としての砂利需要が高まりました。
当時茅ヶ崎から相模川に沿い橋本へ線路を延ばしていた相模鉄道(現在のJR相模線)は砂利輸送に力を入れ、1930年代の世界恐慌下に中小砂利採取業者が経営不振に陥っていた時でも自社に砂利部を作って直営砂利生産事業を行っていました。
相模鉄道砂利部は相模川の倉見(倉見駅付近)、入谷(入谷駅付近1935(昭和10)年6月23日貨物駅として開業)、新戸(相武台下駅付近)に砂利採取所を開設し茅ヶ崎から省線経由で汐留駅の自社砂利専用側線まで首都圏への貨車輸送、販売を行いました。
IMG_1506.jpg
旧・相模鉄道入谷採取所があったと思われる付近の相模川。
昭和30年代に相模川の川砂利採取が規制、禁止されるまでこの川砂利を土木工事やコンクリート骨材に利用していた。


倉見にはナベトロ軌道(軌間610㎜?)が設けられガソリン機関車が倉見駅構内まで砂利を輸送して桟橋上から相模鉄道の無蓋貨車に砂利を落として積替えていました。
IMG_0775.jpg
ナベトロ軌道が接続していた倉見駅。
相模鉄道が1926(大正15)年の開業時にお得意のコンクリートで作った駅舎が健在。
アーチ型デザインの入口が可愛らしい印象に仕上がっている。2駅橋本寄りの社家駅も同デザイン。
写真は後方に圏央道の高架ができる前の撮影。


②小田急の砂利輸送
小田原急行電気鉄道・・・現在の小田急小田原線新宿~小田原全線が1927(昭和2)年4月に複線電化で一気に開通します。
訂正:新宿~稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)は単線で開業、小田原までの全線複線化は同年10月。
非電化で蒸機、ガソリンカーが走るローカル私鉄に過ぎない相模鉄道と違い首都圏と直結する高速電気鉄道として建設されましたが、運悪く開業が昭和金融恐慌の時期に当たってしまい、沿線への住宅開発による乗客増加を目論んでいたのが外れてしまいました。
旅客営業が低迷する一方で1929(昭和4)年11月14日より始まった貨物列車による砂利輸送は想定以上の伸びを見せます。
小田急も部内に砂利課を置き1934(昭和9)年に相模川の新磯、新田宿に砂利採取所を開設します。
新磯鉱区は面積991,700㎡、砂利採取船3隻、ガソリン機関車6台(4t機4台、10t機2台)、900㎥のホッパーを設備し新磯~座間駅(現・相武台前駅)には4㎞以上のナベトロ軌道(軌間762㎜)が敷かれガソリン機関車がナベトロを牽引しました。
相武台前駅の新宿方ではナベトロ線の木橋が小田急線をオーバークロスするという今からでは信じ難いような光景が見られたとか。
こちらの路線は相模原市立博物館研究報告「相模川新磯鉱区から相武台地区に至るナベトロ軌道 ~小田急砂利軌道運搬についての協働調査から~」で大変詳しく調査、報告されているのでナロー、産業鉄道ファン必見です。
DSC_0260.jpg
当時は農村地帯だが線路自体は都市型鉄道として開業した小田急線。この奥の線路が登った先が当時の座間駅(現・相武台前駅)で新磯からのナベトロ線がオーバークロスしていた。

新田宿鉱区は面積330,600㎡、砂利採取船2隻、ガソリン機関車2台、ナベトロ20台を設備。
当初のナベトロ軌道(軌間762㎜)は河中の採取所から河原を川岸付近まで敷かれて、そこでトラックに積み替え新座間駅(現・座間駅)まで輸送していました。特に路線名などの記述がないので以下「小田急砂利新田宿軌道」または「新田宿軌道」と呼びます。
小田急の各駅に集められた砂利は相模厚木(現・本厚木)~東北沢で運転されていた砂利線用貨物列車で東北沢の砂利側線まで輸送され都内で販売されました。

③昭和砂利興業のナベトロ軌道
小田急直営の砂利輸送が始まる直前の1933(昭和8)年に昭和砂利興業が相模川の四ツ谷~新座間のナベトロ線(軌間610㎜)を敷いて砂利輸送を行っています。
この軌道は現在の座間高校の付近から相模川の河岸段丘上に上がるためインクラインを挟んで下部軌道、上部軌道に分かれた大規模なものでした。
この軌道については以下「四ツ谷軌道」と呼びます。
DSC_0275_20170610223212c8f.jpg
座間高校東側斜面のインクラ軌道跡付近に残る軽レール。
6kgレールよりも細いようでインクラ軌道用のレールと思われる。


テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

ナローゲージ | 23:45:11 | Trackback(0) | Comments(0)
日本鉱業峰之沢鉱山インクライン跡~その3~
その先には杉林に佇むインクラの高架橋が待ち受けます。
DSC_0044_20170410235927718.jpg
北側から。手前の柱上部には架線柱の台座のようなものが。
ケーブルカーのような架線は張って無かったようなので架線柱とは別目的のものかも知れません。

DSC_0048_20170410235929674.jpg
南側。傾斜地でカメラも広角なしなので全景が撮れてません(_ _)

DSC_0053_20170410235930160.jpg
ナローゲージに分類してますが実際のところゲージは不明。路盤は薄くて幅広です。

DSC_0042_2017041023595996f.jpg
線路の周りに碍子が散らばっています。
高架橋に取り付けられた状態のものもあります。

DSC_0059_20170410235932631.jpg
林の中に転がる丸太・・・と思ったらクレオソートが付いてるので木製電柱だったようです。
探せばまだ色々ありそうですが斜面上で足場が悪いのでほどほどに。

テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

ナローゲージ | 00:46:11 | Trackback(0) | Comments(0)
日本鉱業峰之沢鉱山インクライン跡~その2~
船舶用ホッパー(?)から道路を挟んで反対側の斜面上がインクラ下の停車場跡と思われます。
実際の停車場名は分かってません。
DSC_0029_2017040823191208e.jpg
ここだけ擁壁がごつくなっているのも停車場や積み替え施設があったためでしょう。
鉱石を移送するベルコンなどがこの道路上を跨いでいたのでしょうか。

DSC_0023_2017040622550357a.jpg
インクラ乗り場(・・・人を乗せる場合はケーブルカーですが貨客混合の場合は何て言うんでしょう?)へ上がっていた通路跡。

DSC_0028.jpg
見上げると手すりがあちこちにあります。それなりの施設があった証拠。

DSC_0064_201704102359331b5.jpg
インクラ跡を直登することは出来ないので道路でヘアピンカーブを3段登ると製材所がありますが、この製材所の施設は選鉱場をそのまま利用なさっているようです。
その横に古い階段の跡とインクラの掘割があります。

DSC_0039_20170408231913f30.jpg
南からインクラ跡、階段、選鉱場跡の順で並んでいます。
選鉱場の施設を見ると杉の落ち葉に覆われているもののちらりとIビーム桁が見えます。その隙間からは漆黒の闇・・・近付いたら貯鉱場に落ちるのでしょうかこれは。
選鉱所側には絶対近寄らないことです。

DSC_0040_201704110013023e1.jpg
一方のインクラ側には地面から突き出た6kgレール。
最も小型のレールで、戦後は労基法で機関車入線禁止になったレールです。
インクラで使われたレールでしょうか?鉱山のレールは重量物輸送のためナローでも重軌条のイメージですがこのレールは林鉄でも最も小型のものです。

テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

ナローゲージ | 19:49:42 | Trackback(0) | Comments(0)
日本鉱業峰之沢鉱山インクライン跡~その1~
天竜川ほとりの旧・峰之沢鉱山。
1969(昭和44)年まで日本鉱業(現・JX金属)が銅鉱石を採掘していました。
現在は浜松市に合併して天竜区龍山町ですが以前は静岡県磐田郡龍山村でした。
1907(明治40)年に日鉱の前身・久原鉱業が当鉱区を買い取ってから本格的な開発が始まったと言います。
天竜川から急傾斜で切り立った斜面上にある鉱山からインクラインで川港に降ろされた鉱石は川船に載せられ、東海道本線天竜川橋梁の川下まで運ばれて貨車へ積み替え、天竜川駅から河原まで延びた貨物側線を経由し発送されていました。

河原の天竜川貨物駅の明治、大正期は中部(なかっぺ・・・飯田線中部天竜駅そばの発電所に新聞紙の製紙工場があった)や気田にあった王子製紙からの紙輸送、木材輸送、久根・峰之沢鉱山からの鉱石輸送など水陸連絡で大いに賑わっていたようです。

峰之沢~天竜川駅の鉱石船舶輸送は電源開発(現・J-POWER)秋葉ダム(1954(昭和29)年着工、1958(昭和33)年完成)が建設され天竜川本流が締め切られたため、その後は東海道本線より近くを走る二俣線(現・天竜浜名湖鉄道天浜線)天竜二俣駅までトラック輸送し貨車へ積替えるようになったようです。
DSC_0016_20170406225457bf8.jpg
峰之沢鉱山下流の秋葉ダム

山の中腹に鉱山住宅が残っており廃墟ファンに有名なようですがそっちは立入禁止です。
それより下のインクラインは斜面に跡が見られます。
インクラは鉱石輸送だけでなく鉱山町から住民が舟やバスに乗るため川と行き来するのにも使われていたようです。

DSC_0017_20170406225458463.jpg
国道152号線を秋葉ダムから遡り以前乗った遠州鉄道バス北遠本線龍山青谷バス停の真ん前まで。
バス停併設で青谷ポケットパークと言う休憩施設やトイレもあり2,3台程度止められる小駐車場もあります。
そこから対岸を見ると山林に急斜面を直登するインクラのラインがくっきり。

DSC_0020_201704062255005db.jpg
峰之沢橋で対岸(左岸)へ。上流側は村の中心だった瀬尻地区。
この辺は山が川に急角度で落ち込むため集落や茶畑が斜面に立体的に存在します。
近くの東京営林局水窪営林署瀬尻森林鉄道も川からインクラで上ったところから機関車運材を行う平坦線が始まっていたようです。

DSC_0022_20170406225501eb8.jpg
峰之沢橋で左岸に近付くとインクラ下でまず目に付くのが川舟に鉱石を積み込んでいた施設の跡らしいです。
ホッパーと言うことでしょうか。

DSC_0024_20170408231909176.jpg
上の道路から見た船舶ホッパー(?)
ダムができる前はこの真下に舟が入っていたのか横付けされていたのか・・・現役時はどんな姿だったのでしょうね。

テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

ナローゲージ | 23:22:26 | Trackback(0) | Comments(0)
前のページ 次のページ

FC2Ad

まとめ