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にしみやうしろ

Author:にしみやうしろ
小田急沿線で生まれ、金沢で北陸鉄道にはまり、愛知では名鉄に臨海鉄道さらに森林鉄道、今ではすっかり私鉄・貨物ファンに・・・。
鉄道に由来していろんなものに興味を持つようになってしまいました。

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岐阜セメント富秋工場専用線(谷汲鉄道北野畑駅)~その1~
住友大阪セメント岐阜工場へ石灰石を供給する鉱山の一つは工場から根尾川を隔て右岸にあります。
鉱山の前には2001(平成13)年10月1日に廃止された名鉄谷汲線北野畑駅がありました。
img058.jpg
北野畑駅の駅舎 2000(平成12)年5月撮影

img056.jpg
谷汲線は1927(昭和2)年製のモ750形が2001(平成13)年9月30日の最終運行日まで使われ、毎月18日の谷汲山命日など電車が増発されるときには北野畑駅で列車交換が行われ駅員さんによるタブレット(正確にはスタフ)扱いが見られました。
この谷汲線が石灰石輸送に使われたことはあまり知られていません。

●谷汲鉄道と石灰輸送
1926(大正15)年4月6日に谷汲山華厳寺への参詣鉄道として黒野~谷汲が開業しており、貨物輸送の比重は微々たるものでしたが北野畑駅そばへ1936(昭和11)年岐阜セメント富秋工場ができたことで貨物輸送量が急に延びます。
工場名の富秋は当時の自治体名で岐阜県揖斐郡富秋村(1954(昭和29)年4月1日に町村合併で大野町となる)から来ています。
1937(昭和12)年には工場に支障する北野畑駅付近の線路、駅を移設、新駅には専用線も敷設されました。
これらの工事費は岐阜セメントが負担したそうです。

tanigumi-freight.png
当時は美濃電気軌道北方線を介して岐阜市街と長良川を挟んで北の忠節までレールがつながっていましたが市内線とは線路がつながっておらず離れ小島の路線でしたがこれだけの短距離でも道路がしょぼかったため貨物輸送が延びたのでしょう。

●岐阜セメント工場の撤退
工場が置かれてまだ間もない1939(昭和14)年、岐阜セメントは南満州鉄道系列の満州軽金属工業に売却され、富秋工場の設備は満州の安東(現在の中華人民共和国遼寧省丹東市)へ移されてしまい北野畑駅専用側線も撤去されます。
その後は助六石灰工業の手で採掘が再開、側線も敷き直されたそうですが輸送量は岐阜セメント時代と比べれば少ないものでした。
専用線がいつ頃まで使用されたかはわかりませんが戦後助六石灰工業は磐城セメントと合併、本格的な開発は1960(昭和35)年川崎セメント大垣工場→磐城セメント岐阜工場ができてからとなります。
その時には貨物は本巣からの専用線、樽見線経由となっており名鉄谷汲線経由の輸送はなかったはずです。

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旧・北野畑駅黒野寄りで谷汲線の下をくぐり根尾川をトラス橋で渡り住友大阪セメント岐阜工場へ延びるベルトコンベア。

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路盤にはキロポスト(黒野起点5.5km)が残ってます。
鉱山ができる前の旧線はこの左側に並行して延びていたようです。

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新線と旧線(いまとなってはどちらも線路跡ですが- -;)を挟んで鉱山の砕石散布塔と砂利山が見えます。

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踏切跡から見た北野畑駅構内。専用線は左に分岐していたようですが正確な線路配置は不明。

DSC_1389.jpg
北野畑駅の駅舎と旅客ホーム跡。1枚目の駅現役時画像とほぼ同じ位置から撮影。
2000(平成12)年には青々と茂っていた坪庭の木は枯れてしまいました。

参考文献
谷汲線 その歴史とレール―ローカル線からかいま見る激動の日本と世界(大島 一朗/著 岐阜新聞社)
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テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

専用線跡 | 23:17:03 | Trackback(0) | Comments(0)
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