投稿日:2020-08-30 Sun
京都大学芦生演習林軌道ラスト。灰野集落跡に至ります。

薄暗い森の中の軌道。
奥へ行くほどレール踏面は錆びていますが現役軌道なので草はほとんど生えておらず管理が行き届いてます。

林内のS字カーブを抜けると・・・。

赤いIビーム桁の橋があります。木橋から架け替えられたようです。

木漏れ日の下の木橋。小さな桁橋ですが超貴重な現役軌道木橋。

木橋から間もなく灰野の側線分岐。
とは言え転轍機は失われて側線を使用している様子は無し。

軌道の周囲が灰野集落跡。
家屋の跡も植林されているため特に変わらない森の中ですが石積みや平地があることから何かあったことは伺えます。
江戸時代初期1638(寛永15)年頃より下流の集落から山番が派遣され定住し300年ほど後の1960(昭和35)年に廃村になったとのこと。最盛期には住宅8軒、旅人宿まであったとのこと。
戦前の1/5万地形図を見ると軌道沿いには灰野谷を挟んで2軒ずつ、由良川の対岸にも4軒の家屋が描かれています。
軌道以前の古道は軌道の通る由良川左岸ではなく右岸を通っていたようで集落の中心は右岸だったようですね。

灰野谷を渡り奥へも軌道が延びていますが現役なのはこの辺までだそう。
帰省途中で家族を待たせてたのでここで引き返しました。
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投稿日:2020-08-26 Wed
京都大学芦生演習林軌道由良川橋梁の続き。
郵便屋さんとすれ違ったことからもわかるようにまだ奥に民家があるため軌道敷に街灯も設置されています。

最後の民家の近くには田んぼがあり。軌道敷はその脇の暗がりを進みます。
日当たりの良い平地は農地、暗い山際が軌道敷という里の林鉄の典型的な図式はここでも成り立っています。

由良川最上流部へ続く軌道敷。

S字カーブ。
枕木は腐りやすい木製ではなくコンクリート枕木が使用されています。と言ってもPC枕木ではなくただ型にセメントを流し込んで作ったコンクリートの直方体という感じ。
かつて蒸気機関車の滞泊位置で火室から落ちる高温の灰で枕木が焦げないようにコンクリート枕木が使われていましたがそれに近いのかな?

途中には側線もあったようでクロッシング部と撤去した側線のものと思しきレールが転がされていました。

左下に由良川を望みさらに杉林の奥へと続く鉄路。
投稿日:2020-08-23 Sun
昨年上梓した「小坂森林鉄道 上巻」に続き下巻を軽便鉄道模型祭で発刊します。
上巻の1~3章に続き下巻では路線や運材設備・事業、現在の保存車両についても扱っています。
第4章 路線
4-1.小坂森林鉄道(小坂線)
4-2.小黒川線
4-3.若栃線
4-4.鹿山線
4-5.椹谷線
4-6.濁河線・濁河索道
4-7.兵衛谷線
4-8.唐谷線
第5章 運材設備・事業
5-1.貯木場
5-2.修理工場
5-3.飛騨小坂駅と専用線
5-3-1.貯木場のデリック、専用線の機関車
5-3-2.国鉄貨車
5-4.橋梁
5-5.通信
5-6.踏切
5-7.土木・保線
5-8.集材機・鉄索
5-9.森林鉄道の民間輸送
5-10.赤沼田パルプ工場
第6章 保存車両
6-1.車両
6-1-1.帝室林野局No.41→長野営林局No.33→王滝木材工業機
6-1-2.長野営林局No.118
6-1-3.B型客車王営No.7とモノコックタイプ運材貨車
6-1-4.豆トロリー
6-2.ペルトン水車
資料集




今年はコロナ禍の影響で軽便鉄道模型祭での販売が通信販売、10月中旬以降はAmazonでも販売する予定です。
軽便鉄道模型祭の通信販売でのご購入方法はまた後日お知らせ致します。
投稿日:2020-08-20 Thu
京都大学芦生演習林軌道の本線を灰野まで~。
事務所前を車両たちに送られて出発~。

出発早々クラリと来そうな未舗装の併用軌道。
砂煙を上げて走るるボンネットトラックと軽便列車が行違ったら似合いそう。
なお演習林内には数件民家があり前方に見えるのもその内の1軒で玄関の前を軽便軌道が掠めています。

軌道が右に曲がると由良川のコンクリート橋。

高い欄干が付いてちょっと過保護なレベル?と思っていたら前方の森からエンジン音が接近してきます。
機関車はさっき起点にいたはずだが??橋梁上に待避所がないので一旦戻る必要があるかな?と思っていたら郵便屋さんがスーパーカブで現れました。
郵便屋さんが「先に渡っといで」と手招きしてくれたので由良川橋梁山側でスーパーカブと交換。
緑の中軌道橋を渡っていくスーパーカブの後ろ姿を一枚~。
まだ歩き始めて数分も経ってないのに立て続けに絵になる光景ばかり現れ実に美味しいところです。
投稿日:2020-08-17 Mon
京都大学芦生演習林軌道の車両。メーカー製の機関車などは存在しません
1927(昭和2)年の開設当初は手押しか畜力だったのでしょうか。

事務所前の留置車両群を灰野側から見た様子。
屋台機関車は手前の平トロと連結されており推進運転で上っていくようです。

機関車というよりはモーターカー?
農耕機のエンジンからベルトで変速機に動力を伝達。
変速機の上にあるレバーは左(灰野側)がシフトレバー、右は逆転器レバーかな?
奥の水色の箱から突き出ているのはブレーキハンドルでしょうね。酒井の機関車の手ブレーキもこんなタイプです。

資材、人員輸送用の平トロ。

その後ろには山トロ(豆トロ)がいました。
チルド車輪の径が大きいタイプですがブレーキ装置が見当たらないので乗下げはできませんね。
木材輸送用と見られますがかつてはこんな山トロが多く存在したのでしょうかね。
投稿日:2020-08-15 Sat
2008(平成20)年8月に訪ねた京都北部の京都大学芦生演習林の森林鉄道。秩父の東京大学演習林軌道のように出材業者が機関車や運材貨車を持ち込んで木材搬出を行うということもなく研究活動で細々と使用してきた軌道のようです。

彦根から湖岸道路で琵琶湖沿いに来て国道477号線で琵琶湖大橋→大原→百井別れ経由。
酷道巡りも好きだったので取ったルートですが百井別れの写真を何故か撮っていないです。

花背峠のバス停。ここから京都の繁華街で京阪電車、叡山電車ターミナルの出町柳まで出られるというのが嘘みたいなところ。

いよいよ芦生演習林のある由良川の谷に出てきました。
子供のころから宮津線の由良川橋梁に慣れ親しんでましたが源流部に来たのは初めて。
京都府内ですがこの辺はむしろ近江の里山のような風情。

演習林入口。
褪せた安全+第一の木造倉庫がとても良い雰囲気。
この建物の奥側は機関庫でもあるようレールが引き込まれています。
道を挟んで向かいの建物にも線路が引き込まれていたのですが踏切部分が撤去されてレールはつながっていませんでした。

山小屋風の演習林事務所。
2008(平成22)年当時は事務所に入山届を用紙に記入して提出(当日は夏休みだったので事務所前のポストに投函)すればOKというレベルでさほど立入規制がきつい感じでは無かったのですがゴミ問題、盗難、林地の踏み固め、遭難事故の頻発などで本来の演習林としての研究活動に支障があるという理由で入山の許可条件が厳しくなっているようです。

車両たちは事務所前の車庫外に並べられていました。
左から平トロ+屋台機関車、平トロ、山トロが並んでます。
この4両以外にもトロは存在するのかな?
投稿日:2020-08-14 Fri
戦時中非電化でガソリンカーを使用していた三岐鉄道もガソリンの入手難から燃料節約のため代燃装置を取り付けています。いわゆる木炭車で木炭を不完全燃焼させて発生する代燃ガス(水性ガス・・・一酸化炭素と水素の混合ガス)をガソリンを気化させたガスの代わりにガソリンエンジンで燃焼させて動力を得ていました。
ガソリンエンジンをそのまま利用できるのでガソリンと木炭のハイブリッド車と言えるものです。
しかし代燃装置で発生する代燃ガスはガソリンを使うのに比べて出力が落ちること、煤など不純物がエンジンに入りやすくエンジンを傷め易いという欠点がありました。
三岐ではまずはキハ4、5号に木炭及コーライト瓦斯発生装置取り付けが行われます。
コーライトは石炭を低温で乾留(蒸し焼き)した半コークスでこれも木炭と同じくガス発生装置で燃焼させる燃料です。

最初に代燃装置が取り付けられた三岐キハ5。後に別府鉄道へ譲渡されてキハ2となった。
別府鉄道野口線円長寺駅跡 2004(平成16)年8月16日撮影
1942(昭和17)年2月16日にキハ4、5号の竣工届が出され3月5日の鉄道省による監査では富田(JR富田)~西藤原で往復試運転が行われています。その結果は・・・。

運転時分、平均速度(表定速度)の「認可」はガソリンカーのものと見られます。
ガソリンカーの運転時分が現代の三岐線電車と変わり無いのも結構意外(・ ・)
赤字の試運転が代燃車の運転成績となります。
西藤原発富田行の上り列車はまだいいものの下り列車はとんでもなく鈍足、伊勢治田~東藤原や西野尻~西藤原など勾配がきつい区間はもう自転車並み。
省の技手からは「現行の旅客列車ダイヤで営業用に使用するには無理があるので代燃動車用のダイヤを作成して再提出すること」という条件で一応代燃車の旅客使用が認められました。
この半年後にはキハ1、2、3号も代燃併用に改造することになり1942(昭和17)年9月20日付で改造竣工届が出されています。
戦時中の代燃車時代は運転速度が遅いだけでなくその非力さに現場は泣かされたようです。
代燃装置に音を上げたのかガソリンエンジンを傷めてしまったのか戦後1948(昭和23)年12月21日にはディーゼルエンジンへ変更する車両設計変更認可を申請していますがこの時は占領軍のCTS(民間運輸局)により認められませんでした。
結局ディーゼルエンジンへ載せ替えられたのは3年後の1951(昭和26)年12月のことでした。
この年の9月に日本はサンフランシスコ平和条約に調印。
占領下の時代が終わりを迎えることで気動車改造にも制限が無くなったということでしょうか。
投稿日:2020-08-09 Sun
山の日ということで飛騨小坂の元王滝・小川森林鉄道No.118改装状況報告。
フードカバーと乗務員扉外側はケレン&下塗り済み。
ラジエターグリルやフード上部の手摺りは取り外してケレン&下塗り中。

フードカバーからは以前塗られていた塗装が出てきました。
①エンジ
②ライトグリーン
③オレンジ
①のエンジは恐らく古い錆止め塗装。
②のライトグリーンは1966(昭和41)年頃~1975(昭和50)年4月廃車の上松運輸営林署所属時に塗られていた上回りグリーン+下回りマルーン時代の塗装。
③のオレンジは滋賀県のドライブインで保存されていた頃の色のようです。
この他1957(昭和32)~1966(昭和41)年頃の上松営林署時代のクリーム色と見られる色がラジエターグリルから出てきています。

上松営林署所属時 1957(昭和32)~1966(昭和41)年頃
2020(令和2)年現在この色へ復元中。
この時代のNo.118の写真は見付かっていないため実際にこの色に塗られていたのかはよくわかっていませんが下地から僅かにこのクリームと思われる色が出て来ました。イラストでは赤沢の機関車を参考にラジエターグリルを茶色塗装としましたがNo.118の場合クリーム色が正解な様子。

上松運輸営林署所属時 1966(昭和41)年頃~1975(昭和50)年4月廃車時
小川森林鉄道系統が廃止になって上運転属後の姿。王滝色っぽいですが細帯が塗分けられていない簡略塗装。
投稿日:2020-08-07 Fri
ちょっと前にfacebookに上げるためスキャンした29年前の新潟旅行の時の写真。白山前~東関屋の併用軌道区間、月潟~燕が廃止になる直前に新潟市内の区間だけ乗車。
その後残った東関屋~月潟に乗ることもなく最初で最後の乗車となってしまいました。

新潟市内の併用軌道区間白山前~東関屋だけ乗りました。
白山前にいたのはモハ18。元は1925(大正14)年蒲田車両製の宮城電気鉄道(現仙石線)モハ220らしいですが日車標準車体に載せ替えられているので面影なし。
車体左右に反射板が付いてますがその時は「何で電車にウィンカーが付いてるんだろう?」と思ってました。
1991(平成3)年11月4日 白山前

側線にモハ16+モワ51が留置中。
もっと近くで撮りなさい(^ ^;)と思いますが子供がホーム上走り回られては親としては気掛かりだからと放してもらえなかったのでしょう(笑)
モハ16は元伊那電ですが車体が元小田急デハ1409のものに載せ替えられています。
無骨な鉄箱という感じで今日の小田急どころか次のモハ2229ともまるで違うイメージ。
1991(平成3)年11月4日 東関屋

モハ25と元小田急モハ2229。
小田急沿線育ちには嬉しかった2220形、僕が生まれた頃はまだ小田急にいたはずですが物心ついたころには片開扉の電車は覚えがないですね。
小田急で乗った覚えがあるのは2400形以降。
1991(平成3)年11月4日 東関屋

東関屋に到着するモハ21。西日でモハ21が白飛びしてたので画像処理で暗くしてみました。
この後白山前まで乗った電車がモハ何号だったのか写真にも記憶にもないです。
1991(平成3)年11月4日 東関屋
この次に新潟交通へ行く機会は廃線後の月潟駅までお預けでした。
新潟交通月潟駅の「電鉄」~その1~
新潟交通月潟駅の「電鉄」~その2~
新潟交通月潟駅の「電鉄」~その3~
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