投稿日:2019-09-30 Mon
昨日は軽便鉄道模型祭にお越しいただいた皆様ありがとうございました。
お陰様で「小坂森林鉄道 上巻 ~飛騨最大の森の鉄路~」は66冊販売と好成績でスタートすることができました。
小坂森林鉄道研究会として初参加、初出版で至らないところ、気付いたところもあり来年の下巻発売につなげたいと思います。
「小坂」というとやはり秋田の「こさか」・・・小坂精練、小坂鉄道が軽便、保存鉄道としてあまりに有名なため我々「おさか」はよく取り違えられてしまうことが多いですね~。
これを機会に飛騨の小坂も知って頂けると嬉しいです。
また来年の「小坂森林鉄道 下巻」の発売をお楽しみに!
上巻では車両を紹介したので下巻では個性的な各路線ごとの歴史や線路設備をご紹介する予定です。
会場では上部軌道跡に残っていた木橋群をはたちゅうさんが記録した美しい写真の展示や祭後半に放映していた濁河線の記録映像が大変好評で販売の要望も頂きました。
軽便鉄道模型祭ですからモデラーにとって貴重な資料に違いないです。これは商品化に向け動きたいと思います。
上巻を買いそびれた方もAmazon↓以下リンク先で販売しておりますのでご利用ください。
小坂森林鉄道 上巻 ~飛騨最大の森の鉄路~
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投稿日:2019-09-26 Thu
近江鉄道の無蓋貨車ト50形は1948(昭和23)~1949(昭和24)年頃に国鉄より46台という大量譲受した国鉄初代ト1形(内3台はト4500、ト4700、ト4900形)が前身。10年ほど前までト60、61の2台がレール工臨の控車として現役。ト59が高宮留置でしたがいずれも解体されたようです。

彦根で入換中のト60かト61。現役車両でしたが番号標記が見えずどちらか不明(- -;)
アオリ戸が撤去され、レールを置く枕が追加されていました。
ト60、61は元国鉄ト1形が多い近江ト50形の中で珍しく別形式の車でしたが途中で別の車両と番号がすり替わっている可能性も無きにしも非ずです。
一応ト60は元国鉄ト4700形ト4842、ト61は元国鉄ト4900形ト5120。
いずれも1948(昭和23)年3月20日に近江鉄道から竣工届が出されています。
2002(平成14)年10月31日 彦根

高宮留置のト59。セキ1と一緒に止められておりこちらもアオリ戸がありませんでした。
こちらは旧国鉄ト1形ト16787。近江での竣工届はト60、61と同じく1948(昭和23)年3月20日です。
ト1形は側面アオリ戸が1枚開きとなっており、木材輸送では隙間が開き過ぎず狭すぎずで良いこと降ろす時はアオリ戸を開けるだけで良いので重宝されていたそうです。
2003(平成15)年11月12日 高宮

ト59の米原側の車輪回り。
シュー式軸受で松葉スポークと古典的なタイプ。貴生川側はスポークでなくプレート車輪でした。
2002(平成14)年10月19日 高宮

解体待ちのト59。横のセキは番号不明。この後すぐに解体されたものと思われます。
2012(平成24)年12月18日 高宮

国鉄、近江の番号対照表。
国立公文書館所蔵の近江鉄道・免許書類からまとめました。
投稿日:2019-09-24 Tue
道法寺の出光興産専用線2回目。
ホーム末端から野町方を見た様子。
乗って来た7100系7102Fを後打ち。石川線(かつては能美線、金名線でも)では後ろの方向幕を非表示とするのがデフォ。
ここにもシングルアームパンタが導入されたんですね。
7102F左に専用線の路盤が少し残っており、その延長線上の住宅の奥に油槽所(ガス倉庫?)がありました。

専用線分岐部跡。以前は複線分架線柱が残って側線が延びていた雰囲気が多少あったものの建て替えられてかつての専用線ど真ん中に電柱が建っています。

専用線跡から道法寺駅方を見た様子。
宅地化されているので面影はなし。

何もないかと思ったらNTTの電話線に「出光」の文字発見。
他に何もないので出光があったことから出光分線と名付けていたのでしょうか。

道法寺から鶴来へ戻る電車は1編成のみ存在の7700系。
同じ元京王井の頭線3000系の浅野川線8900系と見た目の印象は変わらないのですが架線電圧が浅野川線は直流1500Vに昇圧されたのに対し、石川線は直流600Vのまま。
こちらもシングルアーム化されています。
投稿日:2019-09-22 Sun


軽便鉄道模型祭まであと1週間となりました。
小坂森林鉄道研究会としては本とポストカードを販売します。

①小坂森林鉄道 上巻 ~飛騨最大の森の鉄路~
濁河線がレールの残る廃線跡として知る人ぞ知る小坂森林鉄道、その現役時の姿に迫ります。
販売価格:\2,500

②酒井5tディーゼル機関車No.118野辺山SLランド~ひめしゃがの湯 移設作業ポストカード
今春4月22日に野辺山SLランドより岐阜県下呂市小坂町のひめしゃがの湯へ搬入した酒井5t機No.118。
野辺山での搬出、小坂での搬入に立ち会った際の記録写真を厳選し6枚組ポストカードにしました。
販売価格:\500
と言うわけで準備もほぼ済んで積込み待ち商品が自宅に山積み中~(^ ^;)
投稿日:2019-09-22 Sun
北陸鉄道石川線が金沢近郊の住宅街から田園地帯に入り山も近付きローカルムードが出て来る辺りにある交換駅。昭和30年代に出光興産の専用線が出来ています。
1957(昭和32)年以降に新設されたようで専用線一覧表では1964(昭和39)年版~1970(昭和45)年版で確認。
石川線の貨物廃止は1976(昭和51)年なのでそれまでに廃止されたものと思われます。
作業方法:社機
作業キロ:0.4km
子供の頃住んでた時(90年代前半)はまだ油槽所(というよりガス倉庫?)があったような覚えがありますが今では新しい住宅が建っています。
ということは結構最近まで油槽所が残ってたのかも?

道法寺駅入り口。
貨物扱いがあった頃は駅舎があり有人駅だった様子。
90年代時点ですでに駅舎は無くこんな風でした。最近整備されたらしい駅前広場が出来ていました。

島式ホームは狭いながら待合室もあります。
北陸鉄道は旧型電車が使われていた時代から近代化された駅が多く渋い木造駅舎などはあまり残っていませんでした。
電車は新型車を入れて駅舎は古かった富山地方鉄道とは対照的です。

道法寺駅を西側から見た様子。
バックには獅子吼高原へ連なる山並みが近付き風景はローカルムード。

鶴来方から見た様子。
専用線は左の線(野町方面上り線)から分岐していた様子。

ホームから見た野町方。
専用線は左の上り線が本線へ合流するのに対し直進して油槽所に入っていました。
投稿日:2019-09-20 Fri
なかよし鉄道キハ3運転の一方で反対の終点側に留置されていたDC121。
1952(昭和27)年10月協三工業製の12t機。
エアブレーキ搭載機ですが引き通し管はなく自車にのみ利くタイプ。
末期は前面向かって右の窓2枚がHゴム支持の1枚窓に交換されていましたが元の3枚窓に復元されています。

扉の向きからするとこちら側が元の新小松方だったようです。

センターキャブ機でエンジンがどちら側に積まれているのかはよくわかりません。
ロッド式の足回りは1917(大正6)年大日本軌道鉄工部製12t機を利用したとも言いますが軸距が全然違うので可能性は薄そう。

元の尾小屋方前面。
こちらは向かって左の前面窓2枚がHゴム支持1枚窓化されていましたが3枚窓に復元されています。

起点のじどうかんまえに展示されているエンジン。

銘板を見ると真ん中に穴が開いており形式が読めませんが三菱重工業製で最大出力140HP 1300rpm、定格出力115HP 1000rpm、1952(昭和27)年7月製造ということからDC121の初代エンジンDF2L型と思われます。
動態保存後現在のエンジンへ換装した際に展示することになったのでしょうか。

エンジンを後ろから。
左に接続されている機器は五光製作所製の変速機。

五光製作所はかつて国鉄向けに貨車移動機も製造していました。
現在は列車やバスの車内トイレを製造しており鉄道に関わり続けている企業です。
投稿日:2019-09-18 Wed
なかよし鉄道出張時の旧・尾小屋キハ3の2回目
尾小屋方の附随台車。動台車と見た目は大差ありません。

キハ3の車内を新小松側より見た様子。
ロングシートな上に中央運転台で3枚窓の真ん中が大窓なので市内電車然としています。

エンジンが床下だけでは収まらず床上に飛び出している点は軽便気動車らしいです。
なお遠州鉄道時代のエンジンは90HPのいすゞDA45でしたが尾小屋ではキハ1、2と共通化のためか110HPの日産UD3に換装しています。

新小松方運転席。
当然尾小屋方と同じですが計器を取り換えた時に配置が換わったのか微妙に違いが出て来ています。
左のシフトレバーがありませんが運転する時には尾小屋方のレバ-を引っこ抜いてこちらに持ってきて使います。
着脱式のブレーキハンドルと同じ発想。

じどうかんまえを出発するキハ3。
指差し喚呼の瞬間を捉えることができました。中央の大型窓様々ですね。

遠州鉄道時代のキハ1803の切り抜き番号の内尾小屋時代は3だけを白塗りしてキハ3としてましたが現在のところ元新小松方前面は180も白塗りしています。
投稿日:2019-09-16 Mon
尾小屋鉄道キハ3が粟津公園(石川県小松市)のなかよし鉄道で出張運転されている時に行ってきました。部品入手困難などの理由でキハ3の動態運転は後3年、粟津での運転は今回で最後のようで、昨日・・・9月15日に尾小屋鉱山資料館の展示線へ帰還したそうです。

ホームに停車中のキハ3。
1954(昭和29)年汽車会社製の元・遠州鉄道奥山線キハ1803。
遠鉄仕様に復元された時は撮影に行けず仕舞いでした。

協力金カンパで停車中は構内からの撮影もさせて頂けるとのことで。床下観察。
現役時代の写真を見るとこの画像手前側(動台車側)が新小松方を向いていたようです。

新小松方の動台車。
エンジンは右に付いておりプロペラシャフトで右の車輪を駆動、左の車輪へはチェーンを介して動力が伝達されていました。
枕バネのつくりは国鉄DT17、21などに通じる雰囲気。

エンジンは尾小屋廃止後交換されていないとしたら日産UD3のはず。
当時のUDトラックやバスと同じエンジンです。

運転席。
機械式変速のためクラッチペダルやシフトレバーが見えます。

旧・尾小屋方前面。
投稿日:2019-09-14 Sat
白石工業桑名工場(?)専用線(三岐鉄道伊勢治田駅)の続き。今回は主に現役使用箇所です。

旅客ホーム寄りの4本は富田方の接続部分が撤去され架線も無くなっています。
右の2本は富田方の線路は撤去されているものの架線がそのまま残っているので線形が追える状態。

富田方を見た様子。
左から貨物上り線、旅客上り線、旅客下り線が並び他の側線は撤去済み。
旅客下り線に西武赤電色の801系803Fが入線中。

貨物上り線にED456+ED457牽引のセメント貨物が入線。

旅客下り線にED453+ED451牽引のフライアッシュ貨物が入線し交換。

上り貨物でも旅客上り線に入るものもあってパターンはよくわかっていません。
有効長の問題??

富田方を見た様子。配線変更された時に旅客線と貨物線の分岐が伊勢治田駅中心寄り(手前)に移設されており、右に旧旅客線の線路跡が残っています。

富田方の踏切から伊勢治田駅中心方向を見た様子。
45km/hの速度制限標の位置が以前の旅客線跡。右の空きスペースは引上げ線の跡。
引上げ線の内踏切より伊勢治田寄りは配線変更で撤去された様子。

本線は青川橋梁、丹生川へ18‰の勾配で下って行くため平坦な引上げ線跡の路盤と勾配の差がよく分かる状態。
引上げ線は踏切より伊勢治田駅中心寄りはつい最近まで残っていましたがこちら側はもっと以前に撤去されており路盤だけになっていました。
投稿日:2019-09-12 Thu
伊勢治田駅の専用線、貨物扱い跡2回目
西藤原方を見た様子。
左の2本が旅客線で手前の線が貨物線。

西藤原方から構内を見た様子。
左端に架線柱が線路1本分余分に広がってますがそこが貨物ホーム跡と見られます。

貨物ホーム跡は駐車場や保線資材のバラスト置き場になっています。
専用線と貨物ホームがイコールの存在なのかあくまで一般貨物扱い用のホームだったのかはわかりません。
白石工業は鉱業所からトラックで炭カルや石灰石持ち込みだったと思われるので構内配線や道路の便を考えると積込み場所は貨物ホームと同じこちら側にあったものと思われます。

伊勢治田駅北側には小さな古いアパートがありますが銘板によると小野田セメント(現・太平洋セメント)治田共同住宅で1960(昭和35)年7月起工、12月竣工。設計は日本住宅公団(現・都市再生機構)とのこと・・・。
住んでいた社員さんは東藤原の工場まで1駅通勤していたのでしょうか。

小野田セメント社宅から伊勢治田駅構内の線路へ上がる階段が付いているのが謎・・・ここに白石工業専用線の施設があって西藤原へ移転後空き地に社宅が建ったとも考えられそうですが。

旧小野田セメント社宅の富田方。
ヤードでまともな状態の線路は貨物本線のみで他の線路は寸断されていたり架線が撤去されていたりで様相が変わりつつあります。
投稿日:2019-09-10 Tue
西藤原駅の白石工業専用線は以前取り上げましたが西藤原以前には伊勢治田駅に専用線があったことになっています。恐らく西藤原の石原産業海運四日市工場採石場→四日市採石専用線が使用されなくなったことで空きが出たことから白石工業三重工場により近い西藤原へ専用線を引っ越したものと思われます。
伊勢治田に専用線があった時代に付いては時代が古いせいか地元や三岐鉄道の古株の方でもご存知ないようで推測するしかない状態です。
作業方法:社機
作業キロ:0.1km

広大な伊勢治田駅のヤード。現在はガランとしていますが以前は余剰のホキ10000や解体待ちの電車や機関車が留置されていた時代もありました。

伊勢治田側線に留置されていたホキ10000形群の1両ホキ10016。
1つ山側の東藤原に留置仕切れない貨車を置くための副ヤードとも言える存在でしたが今ではそこまで必要とするほどの貨車が無いのか。
2006(平成18)年2月11日撮影

旅客列車は島式ホームを通りますが貨物列車は旅客ホーム側でなくヤード内の線路を通るものがあります。

西藤原方を見た様子。
貨物ホームは既に残っていませんがこの画像右端の位置にありました。

上とほぼ同じ位置から1961(昭和36)年2月19日に撮影された画像を「はーさんの鉄道・旅・よしなし草 (別館)40年前の鉄道風景」管理人様よりお借りしました。
モハ120+クハ210が入線する右側に貨物ホームが見えています。ホーム横には木材が積まれていますが出荷品なのか到着品なのかは不明。

伊勢治田駅舎。員弁川の河岸段丘上の集落中心にある駅。
員弁川を挟んで北にある北勢線阿下喜駅まで歩いても1.5km程度の距離でく30分もあれば乗り換えることも可能。

外は酷暑でしたが駅舎の待合室前では床面が冷たくて気持ち良いのかお昼寝ニャンコが1匹。何とも長閑です。
投稿日:2019-09-08 Sun
1回間が開きましたが美濃大久保駅側線跡2回目。

古田石灰工業所線(現在は上田石灰工業が入居)分岐付近から見た様子。
左が美濃赤坂方で右に曲がって行くと昼飯です。

同じ場所から古田石灰工業所線(現在は上田石灰工業が入居)が道路を渡って右の鉄道門へ入っていたと思われる方向を見た様子。

2番線のホーム上にある石灰倉庫。
配線図によるとマルアイ石灰工業のホームとなっていますが現在はそれを示すような表記は全くないので現在も同社の倉庫なのかは不明。

倉庫の裏から末端方面を見た様子。

レールは無くなっても線路終端標は残されていました。

線路終端の壁の上から見た様子。
左から2番線、本線、1番線の順に並んでいます。
現役当時の入換作業を想像するに美濃赤坂、昼飯からワフを先頭に推進運転でやって来た列車は本線に到着してワフを解放。
1・2番線に貨車を置いたり回収したりして組成作業を行い本線のワフを拾って今度は機関車先頭の牽引運転で昼飯、美濃赤坂へ向け発車していたのでしょうね。
投稿日:2019-09-06 Fri
君津製鉄所の機関車~日車80t機~の記事でD.8013、8014を紹介しましたがその内のD.8014について甲種回送の写真が出てきたので緊急アップ~当時は中国の宝山製鋼向けDLの甲種回送が多かったですがそう言えば1回だけ国内向けがあったなと思ってましたがまさかまさかの大当たりでした。(^ ^;)
撮影日は2007(平成19)年1月30日、場所は名鉄築港線東名古屋港。

日本車両豊川製作所から豊川~豊橋~笠寺~東港~名電築港~東名古屋港のルートで回送されてきたD.8014。
1067mm軌間のJR、名古屋臨海、名鉄線上を走るため仮台車を履いての回送です。
名鉄築港線東名古屋港駅構内から埠頭へ向け名古屋臨海機がD.8014を推進運転。

当初は水色塗装でした。
機械室の窓も開閉不可能なもので前照灯も長方形のライト2灯と細々とした仕様が変わっているのがわかります。

比較対象として12年後の姿を再録。

埠頭までD.8014を押し込んだ名古屋臨海ND552 10。

ND552 10が引き揚げてこの門が閉まったらもうこれっきり見ることもあるまいと思っていましたがまさか元気にトーピードカーの入換を行っているところまで見れるとは幸せ者です。
続きを読む >>
投稿日:2019-09-04 Wed
スイッチバック駅の美濃大久保駅。昼飯駅との駅間距離は0.8kmとありますが美濃大久保駅を出てすぐに昼飯駅構内扱いの側線が分岐しており実質一つの構内と言っても差し支えないレベル。

機回し線はあるものの有効長が短く、美濃赤坂から来て美濃大久保駅着の貨車を置くためにはどうしても機関車を前にして来るわけには行きません。
従って美濃赤坂→美濃大久保の列車の先頭にはワフを連結して推進運転するため前方監視、非常ブレーキ扱いを行う乗務員が乗車していました。

昼飯線で使用されていたワフ21000形ワフ21120。
1934(昭和9)年汽車会社製で国鉄から1977(昭和52)年に西濃鉄道へ払い下げられ休止後も長らく美濃赤坂駅構内に留置されていました。現在は貨物鉄道博物館で保存しており修復作業中。私も関係者の1人です~(爆)
西濃時代は左に見えるエアタンクを車内に据え付けて非常ブレーキ、汽笛動作用として使っていたとか。

デッキにはホイッスルの台座が残っています。
同僚にワフ21016がいたのですがダンプと接触事故を起こして廃車されています。
ところが実際にはこのワフ21016がワフ21120とすり替わっている可能性もあるとかで謎を秘めています。

レールが撤去されて草っ原と化した構内を美濃赤坂方から見た様子。

レールがあった頃の同じ場所。
かつて右に分岐して古田石灰工業所(現在は上田石灰工業が入居)へ入る側線(上の図の点線)があったという話も聞いたのですが当時既にそれらしき分岐は有りませんでした。
2002(平成14)年2月25日撮影

かつての古田石灰工業線分岐部と思しき辺り。線路用地の膨らみ方、右前方の門がいかにも線路が入っていそうな向きで建っているのも気になります。
ここに最近まで鉄骨組みの上屋(上の写真にも小さく写っている)があったのですがレールと一緒に撤去されています。
投稿日:2019-09-02 Mon
昼飯駅から隣の美濃大久保駅へ向かいますがずっと側線が続いて美濃大久保駅の傍まで行ってようやく本線と1番線が合流するところ。
市橋線の乙女坂、猿岩、市橋駅が1駅のように側線がずっと連なっているのと一緒で美濃大久保、昼飯も駅間と言えそうな区間がほとんどありません。

昼飯駅構内から東へカーブしながら延びる本線(左)と1番線(右)。
右には河合石灰工業のプラントと積込みホームが点々と続いてました。
線路にユンボが入ってますがこれは線路撤去中ではなく線路脇のプラント工事だったようです。
2002(平成14)年2月25日撮影

夏草に埋もれた昼飯線。河合石灰工業のプラットホームや上屋は健在。

河合石灰工業のプラットホーム、上屋前に線路があった頃。
右に見える貨物上屋の形状が一枚前の写真と一致しています。

線路と中山道(撮影位置)の間に建っていた建物も一緒に取り壊され草地と化しています。
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