投稿日:2019-05-21 Tue
半日だけ空いたのでちょっとだけ三岐赤電801系803F(クモハ803+モハ804+クハ1804)を撮影に。貨鉄博作業時に見てはいたものの作業にかまけてまともに撮影できていませんでした。

まずは西武池袋線武蔵横手付近のイメージで~(実際の場所は保々~山城)

試しに851系851F(クハ1881+モハ881+クモハ1851)を後打ちして3両編成のアングルを検討。
この日は風が強く田んぼも波が立って濁っていたので水鏡は期待できそうにありません。

近鉄富田から戻ってきた803F。
1966(昭和41)年所沢工場製の西武701系701F(クハ1771+モハ771+モハ772+クハ1772)で4両編成でしたがモハ771にクハ1771の運転台を取り付けて3両化されています。
当初はクハの台車が旧型国電のTR-11だったというのでなかなかのゲテモノ。
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投稿日:2019-05-16 Thu
尾西線奥町駅の専用線跡3回目~
奥町駅のホーム名鉄一宮方から玉ノ井方面を見た様子。
かつてはホームの右に副本線、その右に貨物側線、貨物ホームがあったようですが
名鉄協商の駐車場や駐輪場に利用されて跡形もなし。

名鉄一宮方。
敷地の窄まり方からかつての構内の線形が思い起こされます。
玉ノ井線は起点の名鉄一宮以外一切分岐がない路線ですが何故か分岐器のクロッシングが置かれていますね。

貨物側線や副本線が合流して本線と専用線に集約されて奥町駅を出る辺り。
未舗装道として続いてますが左に赤い頭を見せる用地境界標からこの道の部分もかつて線路用地だったことが偲ばれます。

未舗装道は奥町駅から名鉄一宮方最初の踏切で終り。
奥町駅方向を振り返った様子。

ここから名鉄一宮方は専用線が撤去された路盤が残っています。
6800系名鉄一宮行の電車左に路盤が続いてますが知らなきゃ気付きませんね。
私も野府川橋梁架け替え時の仮線路盤跡か何かだろうくらいにしか思ってませんでした。

専用線が尾西線本線からカーブして工場内へと分かれていた辺り。
左の住宅が並んでいる辺りが線路跡と思われます。
●艶金興業奥町工場専用線についての考察
この専用線による輸送品ですがよくわかっていません。
染色する織物は地元の織物工場から集荷して染色整理後はまた元の織物工場へ配送するのが主でトラックで事足りたはず。
私の学生時代の同級生でも親御さんが織物工場~染色工場のトラック集配の仕事をしており地元の小工場をトラックで周っていました。
これだけでは専用線まで敷く理由は薄そうです。
染色原料となる染料や硫安(硫酸アンモニウム)、燃料の石炭などの搬入に使用していたのでしょうか。
1935(昭和10)年という工場開設時期を考えると同年4月29日に名鉄名岐線(現・名古屋本線)新一宮~新笠松が開業し名古屋~岐阜が電車路線で繋がりました。
これと同時にそれまでの柳橋(名古屋)~新一宮~木曽川橋-(バス連絡)-笠松~新岐阜の電車、バス乗り継ぎルートが解消し奥町を経由する現在の玉ノ井線に当たる新一宮~奥町~木曽川橋は幹線から一支線へ転落。
柳橋~木曽川橋で運転されていた急行電車も名岐線経由で岐阜に直通するようになりました。
名岐線全通後の新一宮~奥町~木曽川橋の輸送量落ち込み対策として貨物需要の喚起のため名鉄が奥町に専用線を敷くことを勧めたとも考えられそう・・・。
●奥町駅の貨物扱い
その後の奥町駅の貨物取扱いですが愛知県統計年鑑(愛知県)によると昭和30年前後の輸送量は以下の通り。

地元の主産業が繊維業のためか出荷量は少なく到着量が多いです。
原料の羊毛は名古屋港や四日市港で陸揚げされたものが貨車積され大口輸送となるため鉄道輸送に適しますが製品は小口で取引先へ発送となるためトラック輸送の方が適していました。
とは言え短い支線区の駅で輸送量も知れているため取扱い駅の集約やトラック輸送へ移行が進んだのでしょう。
奥町駅の貨物取扱いは1962(昭和37)年度に廃止されました。
投稿日:2019-05-14 Tue
尾西線奥町駅の専用線跡2回目~
名古屋鉄道車両史上巻(清水 武、田中 義人/著 アルファベータブックス/刊)の1943(昭和18)年4月1日時点の構内配線図と現地で調査を元に作成した昭和10年代の奥町駅配線推測図。

2019(令和元)年5月現在の奥町駅・・・名鉄標準の簡易駅舎になっています。

取り壊し前の先代奥町駅舎。
奥町駅は尾西鉄道が1914(大正3)年8月4日に新一宮~木曽川橋を開業した時に開設。
この駅舎もその当時からのものと思われますが正確なことは不明。
2007(平成19)年3月2日撮影

装飾付きの車寄せに丸ポストが立ってなかなか良い雰囲気でした。
因みに一宮市の旧・尾西市、木曽川町域は以前より減ったものの郵便ポストの丸ポスト率が高いです。
2007(平成19)年3月2日撮影

因みに上の写真撮影より12日後には取り壊されてこのようなお姿に・・・(- -)
なお駅舎前に立っていた丸ポストは生き延びて駅舎向かいの名鉄協商パーキング駐輪場詰所脇に移設されました。
googleストリートビューでは写っているのを確認しましたが今回取材時には撮影を忘れました(^ ^;)
2007(平成19)年3月14日撮影

玉ノ井方より見た構内。
現在は棒線一本の最も単純な配線。
左の駅舎部分にもかつては線路があり島式ホームになっていたそうですが昭和40年代以前に撤去された様子。
1943(昭和18)年の配線図には無いもののホームと反対側にも側線跡のような敷地があります。

旧駅舎時代にほぼ同位置から見た様子。
ホーム上の上屋のつくりから反対側にも線路があったことが窺われます。
その左の駐輪場の屋根が見える辺りに貨物側線、貨物ホームがあったようです。
2007(平成19)年3月2日撮影

有人駅時代の奥町駅改札。
スロープと改札の間に構内踏切があったことを窺わせるスペースがありました。
ホームに6800系玉ノ井行が到着すると駅員さんが改札前に立ち降車客を迎えていました。
今は自動改札機があるだけの無機質な空間になっています。なおかつての線路上に建てられたトイレは現在も変わっていません。
2007(平成19)年3月2日撮影
投稿日:2019-05-12 Sun
うちのごく近所で「あそこの工場専用線あったのか!」と驚いたところ。名鉄尾西線の中でもさらに盲腸線となっている名鉄一宮~玉ノ井の区間、地元では玉ノ井線と通称された5.6kmの区間内の主要駅で2007(平成19)年までは駅員配置駅だった奥町駅から延びていた側線。
戦前のことで専用線なのか名鉄扱いなのかはよくわかっていないので(?)が付いています。
●染色工場の専用線
愛知県一宮市の周辺はかつて毛織物工業が盛んで織り上げた毛織物を染める染色工場も多数存在しました。
その中でも艶金興業は明治以来続く大手企業でしたが毛織工業の衰退と共に工場閉鎖が相次ぎ染色を行っているのは独立した元の子会社のみです。
艶金の名前は元々この地方で盛んだった綿織物の布地に艶を付けるため砧(きぬた・・・布をたたく木槌)で布地を打つ「艶屋」を家業としていたこと、創業者の墨 宇吉の通称が金兵衛だったことから「艶金」となったそうです。
創業期には一宮周辺での生産品が綿織物から毛織物へシフトが進んでおり毛織物メーカーが製造した毛織物の汚れや油を落とし染色、艶出しなどの加工を行う染色整理業を始めました。
当初は個人事業として行っていましたが一宮工場を建設した1924(大正13)年に株式会社化して艶金興業株式会社となっています。
奥町工場は1934(昭和9)年に奥町(当時は一宮市でなく愛知県中島郡奥町と言う別個の自治体)からの工場誘致に応え12月19日に地鎮祭、1935(昭和10)年12月14日に開業。
一方で国立公文書館所蔵の鉄道免許・名古屋鉄道13・昭和10年の簿冊一覧を見ると1935(昭和10)年3月19日付けの「奥町停車場構外側線敷設の件」という書類が存在するようです。
恐らく工場開設時に側線も使用開始されたものと思われます。

艶金興業奥町工場の鳥瞰図
左下端に奥町駅のプラットホーム、その右に行き交う電車、工場に入る構外側線上には凸型電機(デキ100?)が無蓋貨車2両を従えた姿が描かれている。
左に見える電車は無蓋貨車2両を牽引して新一宮方面(右方向)へ発車。
本来この区間は単線なのでこんな数の列車が同時に走ることはないはずだが一見複線区間のように描かれている。
当時名鉄西部線の電車はデボ800形(後のモ800形)以外名古屋市電乗入のため中央に鉄道線用パンタグラフ、両端に軌道線用ポールを装備しておりこのイラストでも中央のパンタを上げていることが見て取れる。
奥町誌(奥町教育会/編 1936)より引用
●側線はいつまで使用されたか?
戦時中の1943(昭和18)年4月1日調査の配線略図には側線が描かれているが専用線企業名などは書かれていません。
戦時中は軍需と直接関係のない繊維産業にとっては受難の時代で工場や従業員を軍需産業に振り向けるよう強制や圧力を受けていました。
奥町工場も航空機の車輪などを製造していた岡本工業(後に岡本自転車工業)へ譲渡することになり1943(昭和18)年10月1日に艶金興業としての操業停止、12月には工場を岡本工業へ譲渡しています。
なお名鉄尾西線も奥町より先、木曽川港(貨)までの路線が不要不急路線とされ1944(昭和19)年3月21日に休止、戦後奥町~玉ノ井の一駅間のみが1951(昭和26)年12月28日に再開業しますが木曽川橋や木曽川港(貨)は名古屋本線木曽川堤駅と近接し必要性が薄れていたこともあり復活しませんでした。
岡本工業に譲渡されていた奥町工場は直接の戦災は被りませんでしたが戦後もなかなか返還されず10年以上を経た1956(昭和31)年8月にようやく染色工場として復帰、新たに設立した艶金染工の本社工場となりましたが専用線は既に使用されていなかったようです。

1975(昭和50)年9月10日国土地理院撮影の空中写真
専用線は既に廃止されているが専用線に沿って建てられた工場の塀に線形の名残が見られる。
後にさらに外側に尾西線に沿った壁が新設され2001(平成13)年の工場閉鎖時にはカーブした塀が外から見えなくなっていた様子・・・何度も横を通っていながら気付かなかったわけで(言い訳^ ^;)。
投稿日:2019-05-07 Tue
2019(令和元)年5月6日10:00~15:00に飛騨小坂のひめしゃがの湯で酒井5t機No.118を公開しました。お越し頂いた皆様ありがとうございました。

停車場標や標識などを自作で準備~
10連休はほぼ全てこの企画や標識製作に費やしました。
普段仕事しているのより忙しかった気が・・・(^ ^;)

No.33には安全旗を取り付け~。
内部のディーゼルエンジン新三菱KE-5も御開帳。


停車場標はひめしゃがの湯最寄にあった下島(したじま)停車場と一つ川下の落合停車場を準備。
実際停車場標があったのか記録はないのですが秋田営林局の準則や王滝森林鉄道で使われていた停車場標の写真を参考に製作。

No.118の前ではくるまや軽便鉄道さんの小坂森林鉄道モジュールを展示。
日の下で見ると陰影が出来てリアルさがさらに際立ちます。
このモジュールは若栃線で手前は湯屋温泉から大洞川を挟んで向かいの見張谷木造トラス橋など区間。
奥は大洞川を渡っていた鉄橋の大洞川橋梁。

I先生の林鉄車両メンテ特別講座は実用的で研究会のメンバーは大いに盛り上がりました。
運材貨車の軸箱蓋を開けるとグリスの中にボールベアリングが見え隠れ。

最後は折角なので安全旗をNo.118にも取り付け。
次回はより広範囲で告知して開催したいですね。
投稿日:2019-05-03 Fri
5月6日(月)飛騨小坂ひめしゃがの湯でのNo.118公開準備でGWがほぼ埋まっちゃいましたが王滝へは行ってきました。今回は王滝村内某所の王滝森林鉄道で使われていた有蓋貨車のダルマ。
食料や物資の輸送に使っていたものだそうです。
上松運輸営林署はボギーのE型貨車を使用していたのに対し、王滝営林署は二軸単車の有蓋貨車を使用していました。

道路から見ると雑木や雑草に埋もれて何だかよく分かりません。

下に降りて見ても山側の妻面はこんな有り様。
窓枠が水色に塗られています。

道路と反対側の側面は引き戸になっており典型的な有蓋貨車の構造。

村側の妻面は分かり易い状態。

中を覗くと向かって右にロングシート(荷物棚?)。
ロングシート側の側面には窓がありますが扉は有りません。
左の荷物扉側は窓が無く折り畳み式のロングシート(荷物棚?)があります。
左右の側面でそれぞれ客車、貨車の特長を持つ珍妙な車両です。
王滝営林署の有蓋貨車で側面窓があったものは王4,7,8,10,11でありこの内のいずれかと思われますが標記は確認できずでした。
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