投稿日:2019-02-27 Wed
穂積駅の元砂利線2回目。
今回は実際に専用線として使われていた砂利1番線、砂利2番線。

穂積駅ホームから岐阜方を見た様子。
本線の左には昭和工業の採石選別プラントが現役。その手前には保線側線として残る砂利1,2番線があります。
右カーブした先は長良川橋梁、長良川を越えると岐阜市で正面の昭和工業の採石選別プラント後方には金華山が見えています。

現在線路はプラント内まで入っておらず昭和砂利の敷地との間にはフェンスが立っています。
この側線で保線車への砂利積込みを行っているところも見たことが無いので砂利線としての役割は終わっている様子。

昭和工業の岐阜側、長良川堤防上から見た様子。
構内にレールが転がっているのも見えましたが専用線のレールを撤去した物かは不明。

砂利採取を行っていた長良川と糸貫川合流部。
かつて東郷号という謎のナロー蒸機がこの辺にいたそうですが砂利採取用ではなく治水工事で使っていたのだったか・・・
トワイラの記事を発掘して見ます。
砂利線は特大貨物輸送の変圧器取り降ろしに使われシキ610が入線していたそうです。
恐らく中部電力西濃変電所へ輸送する変圧器をトレーラーに積み替えたのでしょうがこの辺は細い道ばかりで大変そうです。
後には樽見線十九条駅で降ろすようになったそうですが私が実際に見たことがあるのは穂積駅から見て長良川対岸の岐阜貨物ターミナルでの取り降ろし。

国土地理院撮影の空中写真に写る1975(昭和50)年10月6日の砂利線。
ホキ800がずらりと並んでいる他、穂積駅の上り2番線にも貨車が留置されているのが見えます。
上り本線を11両編成(?)の電車が通過していますがしらさぎでしょうか?

折角長良川橋梁まで来たので橋梁の撮影も。

上下線の間ではこんな光景も。
左の上り線の桁は1914(大正3)年以来のオリジナル、右の下り線の桁は1960(昭和35)年に架け替えられたそうですが橋脚はオリジナルのようですね。
かつてはこの下も東郷号が怪しげなトロを推進、牽引してくぐっていたのでしょうか
参考文献:
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
穂積駅も卒寿(進藤 末次/著 )
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投稿日:2019-02-25 Mon
昭和工業・旭化成工業専用線と関係する穂積駅構内の側線。昭和工業は長良川、糸貫川合流点で線路用バラストや滑り止めを生産、国鉄に納入していました。
滑り止めの砂は地元の名鉄局だけでなく静鉄局にも納入されており東海道本線を行く機関車にとって無くてはならない良質な砂が取れたとのことです。
専用線の歴史も長く専用線一覧表の1930(昭和5)年版から1983(昭和58)年版まで載っています。
旭化成工業(現在は分社化して旭化成建材)穂積工場は1969(昭和44)年に完成、コンクリートパイルを製造しています。
工場は駅から1.5kmほど離れており製品をトラックで砂利線まで輸送して貨車積みしていたものと思われます。
作業方法:国鉄機
作業キロ:0.3km
総延長キロ:0.6km

貨物現役時の穂積駅構内配線図。
基本的に現在と変わりませんが砂利線は貨物扱い廃止後保線車用側線となり短縮、一部配線変更されています。

大垣方。
手前より上り本線、上り1番線、上り2番線が並ぶ。
上り2番線の接続はレール交換のため切られています。

穂積駅ホーム中ほどに上り2番線と上り1番線をつなぐ渡り線がありましたがこちらも切断済み。
上り2番線15年前時点でもは架線が撤去されており使われていた形跡は有りませんでした。
それでも転轍標識はちゃんと点灯していたのを見ています。

上り2番線は後付けでつくられたようで築堤をくぐるトンネル(マンポと言った方が良いか)の外側にガーダーを架けています。
砂利線の取扱量増加に対応したのでしょうか。

橋梁銘板などからすると上り2番線が追加されたのは1955(昭和30)年のようです。
因みにこのガーダーの銘板は改造銘板で元のメーカーの銘板は見えません。
スティフナーが外向きに曲がっている構造などから古い時代のイギリス製だと思いますが。

因みにこのガーダーからマンポの中に入ると中ほどにこのような横穴を埋めた跡があります。
2代前の穂積駅入口の跡で、1929(昭和4)年に先代駅舎ができるまではここからホームに上がっていました。
改札口や駅務室はホーム上という現在の東海道本線弁天島駅のような構造だったようです。
投稿日:2019-02-23 Sat
穂積駅の南西側にあった油槽所の専用線。国鉄側線を専用線扱いとしていただけのようで2019(平成31)年2月現在もレール交換のため分岐部が撤去されている以外レールはそのままです。専用線一覧表では1957(昭和32)~1983(昭和58)年度版で確認。
専用線の専用者は1964(昭和39)年度版までが岐阜日石、1967(昭和42)年度版以降は日本石油になっています。
販売店から元売り企業に名義が移っただけで、終始岐阜日石のサービスステーションに供給する石油を輸送していたものと思われます。
作業方法:国鉄機、手押
作業キロ:0.1km
総延長キロ:0.1km

穂積駅大垣方に残る下り2番線がかつての日本石油専用線でした。

大垣方で現役の下り1番線に合流してお終い・・・分岐部は最近撤去されたようで下り1番線のレールが新しくなっています。
下り1番線は岐阜終点の普通列車が回送で大垣に入区する時に待避線として使っていることが多いです。
なお油槽所は現在のアクアパーク別府水処理センター(後方に見える白い四角い建物)の場所にあり専用線から少し離れておりパイプラインでつながっていたようです。

専用線の真ん中付近には荷卸し作業を行うためのパイプラインなどがあったと思われるスペースが築堤から張り出しています。

築堤の下から見ると張り出したスペースへの階段が残っています。
油槽所から来た係員さんが専用線へ荷卸し作業のため上り下りしていたのでしょうね。

油槽所跡はアクアパーク別府水処理センターになって面影がありません。

国土地理院の1975(昭和50)年10月6日撮影空中写真より専用線現役時の様子。
専用線こと下り2番線にタキ車が2両止まっているのが見えます。
専用線の横は住宅が密集して道も狭いため油槽所を置いてタンクローリーを入れることができないため市街地から少し離れて県道にアクセスしやすい場所に油槽所を置いたようです。
穂積駅の貨物扱いは1995(平成7)年度まで行われており私が知っている頃まで貨物輸送をやっていたはずなのですがこの側線に貨車が入っていた記憶が全く有りません~(^ ^;)
平日のみの運転で見ていないのか、関心が無くて覚えてないだけなのか?
投稿日:2019-02-21 Thu
新多治見から土岐川を渡ってすぐの場所にあった本多治見駅。笠原線がほぼ全線に渡って並行する笠原川の左岸堤防上で島式ホーム1面2線と笠原川方に駅舎を貨物ホーム、貨物倉庫がありました。

本多治見駅構内を笠原方から見た様子。
笠原川に沿って緩やかにカーブした構内。遊歩道化した本線右手に東濃鉄道系列の東鉄商事のガス倉庫がありますがこの施設は笠原線現役時代からありました。
貨物扱い量の減少で遊休貨物倉庫を削減した跡地に設けたのでしょうか。

駅舎側の側線はフェンスの向こう、石油タンクのブロック塀に沿って分岐していたようです。

左の駐車場の位置に側線を挟んで駅本屋がありました。

本多治見を出ると岐阜県道15号名古屋多治見線(愛岐道路)をオーバークロス。
笠原線は主要道路との交差部が殆ど立体交差になっておりその面では先進的(?)な路線でした。

県道立体交差と土岐川橋梁の間に本多治見駅の説明板と陶彩の道の笠原線記念碑が並んでいます。

本多治見駅の説明板が駅の位置より少々ずれていますが道路幅の関係上止むを得ないのでしょう。

陶彩の径の碑。笠原鉄道時代の蒸機の写真が載っています。
左は笠原鉄道1or2号機が逆機で貨車+マッチ箱客車×2+貨車というミキストを牽いて土岐川を渡る新多治見行と見られる列車。
笠原1,2号機は1896(明治29)年ダブス製Cタンク機で元は西成鉄道(現・大阪環状線の一部)2、3号。
国有化で国鉄1150形1150、1153号になっていたのが佐久鉄道(現・小海線)3、1号となっていたのを笠原鉄道開業時に譲り受けています。東濃鉄道合併後は駄知鉄道1,2号機と区別するため頭に笠を付けて笠1、笠2号になって1953(昭和28)年にDB181が投入されるまで使われていました。
右は駄知鉄道1or2号機を借り入れて新多治見駅で入換中の様子。
駄知鉄道1、2号機は1921(大正10)年雨宮製作所製のCタンク機で駄知線電化まで使われていました。

1970(昭和45)年度は到着量が最低の3,000tまで落ちたのに対し発送量が最高の12,000t(この年度と1972(昭和47)年度だけ千トン未満四捨五入)を記録と最後の一瞬の輝き?を見せています。
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
投稿日:2019-02-19 Tue
旅客専用で短いホーム1面1線だけの停留場下滝呂は飛ばして次の貨物扱い駅は市之倉口。駅名になっている市之倉は駅から山越えをして2.5km以上離れた盆地の町で笠原線起点の新多治見駅~市之倉口1.8kmの方が近いという看板に偽りあり気味な駅名です(^ ^;)
駅に隣接してTYK(当時は東京窯業)本部・大畑工場があり昭和40年代に笠原線の他の駅の貨物取扱い量が低下して行く中でも東京窯業の耐火煉瓦輸送で伸びを見せる異例の駅でした。
駅構内側線は実質的に東京窯業大畑工場専用線で私有機も2台いましたが専用線一覧表には掲載されていません。

市之倉口駅構内・・・というよりはTYK工場を笠原方から見た様子。
遊歩道は右の笠原川の方へ曲がっていますが笠原線は真っ直ぐ工場内へ延びていたようです。
側線は新多治見方から分岐していたものと思われます。

左はTYKの工場、右は道路を隔てて笠原川。
笠原線の本線は植込みの辺りで工場側には側線が拡がっていたものと思われます。
現在はトラックへの積込みホームが続いてますがかつてはワム80000やワキ5000など鳶色のパレット貨車黒い有蓋車がずらりと並んでいました。

工場の多治見寄り、かつての旅客ホーム、駅舎付近にある市之倉口駅の説明板。
写真で見ると笠原川寄り側線、本線、貨物ホーム側線が3本並んでいるのがわかりますが工場内は側線がもっと分岐していたのでしょうか。

新多治見方から見た市之倉口駅。本線と貨物ホームのあった側線がTYKの工場構内道路になっています。
横断歩道を挟んで植え込みの付近に旅客ホームと駅舎、旅客ホームの先、工場内に見える丸い覆い屋根付近で左に分岐し川沿いに延びる側線もありました。
なお駅前で笠原線と直行するこの道を右(南南西)へ向かい山越えをすると市之倉ですが実際に同所へ行くのには多治見からバスで直行する方が便利で鉄道を利用する人はほとんどいなかったのでは?

工場入口にみえる花壇のコンクリート擁壁。鉄道用貨物ホームの名残でしょうか?

駅から多治見方を見た様子。
左に側線の末端がありスイッチャー2台はここに留置されていたようです。

市之倉口で入換に使われた東京窯業私有機No.2
国鉄のC2形貨車移動機の払い下げ車です。
詳細はこちら 市之倉さかづき美術館のC2形貨車移動機

市之倉口駅の貨物取扱量の変化。
同駅の貨物扱いは1978(昭和53)年10月まで有りましたが駅別データは1972(昭和47)年度まで。
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
投稿日:2019-02-17 Sun
笠原から笠原川の小渓谷区間を抜けて滝呂の盆地に入ると滝呂駅の跡。
笠原方から滝呂駅構内を見た様子。
ここは長めの貨物側線が右斜め方向へ分岐してワムやワキが留置されている写真を見ましたが駅、側線を含め公園になっています。

駅舎があった辺り。

1972(昭和47)年度には発着ともゼロになっており短距離なことから列車交換の必要性も薄く末期は駅としての存在意義を喪失していたようです。

新多治見方から滝呂駅構内を見た様子。
島式ホームがあって遊歩道側が本線左が副本線(?)だったようですが現役時と変わり過ぎて正確な位置は良く分かりません。

滝呂駅を出ると下滝呂まで滝呂の町を築堤で横切ります。
1928(昭和3)年7月開業時より連続立体交差が実現していた区間。

滝呂駅貨物取扱量。
笠原駅と同じく到着量が多く発送量が少ないパターン。
1955(昭和30)年度時点の到着量は笠原駅と似たようなレベルですが笠原駅が昭和30年代の高度成長期に伸びてから昭和40年代に落ち込んだのに対し滝呂駅は最初から下落傾向です。
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
投稿日:2019-02-15 Fri
笠原駅の記念碑に移っている笠原線の気動車たち。今回はボギー車、片ボギー車のみで単車のキハ1、2は別の機会に紹介できるかな?
キハ12以外は1971(昭和46)年6月13日の旅客営業休止まで使われていました。


キハ23+キハ12
どちらも元駄知鉄道の日本車輌製ガソリンカーでエンジンはアメリカのウォーケシャ(Waukesha)6-SRL。
キハ12は1931(昭和6)年8月製の片ボギー車でボギー側前面に荷物用バケットを装備。
キハ23は1933(昭和8)年9月製のボギー車でバケットも両側に設けられていました。
駄知線電化後笠原線へ転入してキハ12はディーゼル化されず附随車化。
キハ10形キハ12号、キハ20形キハ23号なのですが駄知鉄道では気動車の番号の下1桁を通し番号としていたためで複数同型車がいるわけではありません。
キハ23は戦時中代燃ガス発生装置を取付け木炭、ガソリンのハイブリッド化、戦後ガソリン専燃に戻り笠原線移籍後の1952(昭和27)年に三菱DB5Lを積んでディーゼル化されています。
現在動態保存されている加悦鉄道キハ101(1936(昭和11)年日車製)と同一設計の車体だそうですが加悦キハ101が片ボギーなのに対しこちらは通常のボギー台車。

加悦鉄道キハ101


キハ501
1931(昭和6)年8月梅鉢鉄工所(後の帝国車輌→東急車輛→総合車両製作所)製の播丹鉄道レカ15→キハ500
播丹鉄道は現在の加古川線や支線となる北条線(現・北条鉄道)、廃止になった高砂線や鍛冶屋線、三木線(後の三木鉄道)で使われていました。
それまで小型の二軸レールカー(当初の形式称号レカの由来)ばかりだった播丹鉄道初のボギー式13m級ガソリンカーで車体両端にはキハ23と同じようなバケットを装備していました。
戦時買収で国鉄籍になりキハ40350に改番。1953(昭和28)年に東濃鉄道が譲受し車体延長やエンジンの日野DA57への載せ替えによるディーゼル化など大改造しています。
元の車体は両側にバケット付きでしたが車体延長で運転室を置いたようです。
台車構造もあって電車くさい外観になっています。



キハ502
笠原線最大の17m級ディーゼルカー。
1934(昭和9)年日本車輛製の中国鉄道(現・中鉄バス)キハニ172。
前面4枚窓で国鉄キハ04系列に似ていますが幕板が広く屋根もやや深いためおデコが広く見えてやや鈍重な顔つき。
新多治見方にのみ荷物用バケットが付いており前後でやや印象が異なります。
現在の津山線、吉備線で使われこちらも戦時買収で国鉄籍となりますが戦中、戦後の燃料入手難でまともに使われることなく1949(昭和24)年に廃車。
1952(昭和27)年より山口県の防石鉄道キハ101として使われますが1964(昭和39)年7月1日に廃線。
東濃鉄道へ譲渡され翌1965(昭和40)年10月に笠原入りしています。
なお中国鉄道キハニ170形はキハニ170~172の3両がいましたがキハニ171は三岐鉄道キハ82となっており電化後も1964(昭和39)年までは四日市直通運用に使われ、使用停止後も1972(昭和47)年まで在籍、偶然にも両車とも名古屋近郊で晩年を迎えています。
なお残るキハ二170は島原鉄道キハ201になってやはり昭和40年代まで在籍していたようです。
投稿日:2019-02-13 Wed
東濃鉄道笠原線終点の笠原駅跡。多治見から土岐川(庄内川の上流)の支流笠原川を遡って愛知県瀬戸市との境に近い丘陵地帯の盆地にある笠原町の北の外れにある駅でした。
東濃鉄道沿線の例に漏れず美濃焼の産地で特にタイルの生産が盛んな地域で、以前は岐阜県土岐郡笠原町でしたが2006(平成18)年1月に多治見市と合併しています。

笠原線の車庫があり運転の中枢だった笠原駅。
島式の旅客ホームとその奥にはこれまた島式の貨物ホームが存在。
また旅客ホームのそばに陶土や陶石を無蓋車から降ろすためコンクリート壁で仕切られた陶土、陶石卸場と見られる設備がありました。

旧笠原駅前。
正面の東濃鉄道バス車庫入口付近に木造の駅舎がありました。

構内は舗装されてすっかりバス車庫に変わっています。
正面手前に旅客ホーム、奥に給水塔や車庫が建っていたはずですがご覧の有り様。
旅客輸送量が少なく貨主客従だった笠原線ですが後方の山の上に巨大な滝呂団地ができており線路が通っていた谷底より山の上に人口が密集している状態。

どん詰まりの貨物ホーム周辺。
笠原の市街地へ登る勾配の途中にあり貨物ホームがあった場所は切通しのようになっています。

今度は車庫の新多治見側。
笠原を出てすぐの本線築堤ですがかなりの急勾配。
2019(平成31)年2月17日追記
元々勾配区間でしたが笠原車庫をバス車庫化した際に道路に接続するため鉄道時代の築堤を削ってより急勾配になったようです。

新多治見寄りから笠原駅構内を見上げた様子。
線路はバスの入出庫用の専用道になっていますがこうして見ても勾配がかなりきついです。
2019(平成31)年2月17日追記
かつては築堤が続いて手前の道路をオーバークロスしていたところを平面クロスするように改築したためこのように見上げるような急勾配になりました。

笠原線跡の遊歩道「陶彩の道」にある笠原駅の説明板。
実際の駅跡にはバス車庫があるためか実際の笠原駅より300mくらい新多治見寄りに設置されています。
末期の貨物輸送の主力だった元中部電力→大井川鉄道井川線DD100型(DD105か106かは不明)や笠原線のボギー式気動車全形式が写されています。

笠原駅の貨物取扱量。
元来到着貨物が主体ですが昭和40年代に発着とも激減。
1973(昭和48)年度以降は駅別の統計が無かったのですが1972(昭和47)年度時点で発送、到着ともほとんど無くなっているようなものです。
1958(昭和33)年度だけ発着量とも飛び抜けて多くなっていますが何があったのでしょう?
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
投稿日:2019-02-10 Sun
高山本線高山駅専用線で唯一所在がはっきりしている専用線で岐阜方の引上線から分岐していました。●三菱石油専用線
作業方法:国鉄機
作業キロ:0.1km
総延長キロ:0.1km

専用線が見えるのは高山駅岐阜方の花里跨線橋から。
威風堂々8両編成で「山都」高山を発車して行くワイドビューひだ8号。
飛騨が行く本線手前に見える線路が引上線。

花里跨線橋から岐阜方を見た様子。
引上線(左)は掘割の中を平坦に進み、本線(右)は宮峠へ向けた勾配を上って行きます。
三菱石油専用線は引上げ線末端付近で左に分岐してすぐ終わりと言うささやかなものでした。
左に見える赤十字マークの高山赤十字介護老人保健施設はなさとの場所に生糸の紡績工場と油槽所があったとのこと。
ここにあった油槽所は地元石油販売店のものだったと思うとのことでしたが専用線名義は元売り企業名なのでよくわからないところ。

国土地理院の空中写真より1977(昭和52)年9月16日の高山駅。
三菱石油専用線とその末端の油槽所のタンク群、専用線上にはタキが1台留置中のようで貨車の陰が見えます。

引上げ線末端を拡大・・・すると何やらアヤシゲな曲線が見えます。
掘割上のダンプカーが止まっているところが油槽所のタンクが並んでいた辺りで現在は高山赤十字介護老人保健施設はなさとの駐車場になっています。

角度を変えて見たところ。三菱石油専用線跡が雪の上にくっきり現れていますね。
引上げ線の停止位置目標と比べて見てもせいぜい貨車1台分しか有効長がなさそうなごく短い側線だったことがわかります。
↑の空中写真でもタキが1台しか写っていませんがそれでも入線可能な限界目一杯だったようです。
投稿日:2019-02-08 Fri
駅裏側にあった貨物ホーム。こちらは何の積込みに使われていたかはわかりませんが木工所が多かったこと、高山営林署、久々野営林署がこちら側にあったのでやはり木材でしょうか。

奥に見える車止めの向こう側にホームがあったようですが駐車場になって跡形もなし。

下り6番線の車止め。

その反対側がホームだったはずですが現在は高山駅白山口ができています。

橋上駅舎から富山側を見た様子。
高山機関区跡地。扇形庫や転車台、大型の炭積み装置がありましたが駐車場になっています。
それでも留置線が多く利用者(ほとんど特急ワイドビューひだですが)も多いためJR東海の非電化駅としては最大級の規模。

この日はキヤ95第一編成が止まっていました。

かつての機関庫北隣、高山市社会福祉協議会横の公園には元高山機関区所属の19648(1917(大正6)年12月川崎造船所製)、高山客貨車区所属のロキ132(1934(昭和9)年浜松工場製)が保存されています。
前面3枚窓のキ100は珍しいです。
投稿日:2019-02-06 Wed
専用線ではあるのですが国鉄側線の一部のようで違いがよくわからないところです。高山市は飛騨地方の政治、経済、文化の中心で小京都として知られる街並みは現在も観光客を集めているので説明するまでもありません。
明治時代以前の木材生産はヒノキ林が育つ阿多野(高根村・・・現在は高山市に合併)、小坂など南部の益田郡が中心で、高山がある北部は加工時の狂いが大きいブナ林中心のため木材産業では後れを取っていましたが明治以降西洋家具が入ってくると曲げ加工に強いブナ材の有用性が高まりました。
さらに製紙原料の木材チップ、合板の材料としても用途が拡がり高山は木材の集散地となりました。
高山本線が延びると当然素材、加工品、木材チップの輸送が行われています。

高山駅構内の高山産家具PRコーナー
木材自体の産出は減ったが技術は生きている
●日本通運専用線(原木線)
作業方法:国鉄機、手押
作業キロ:0.1km
総延長キロ:0.1km
木材専用線ですが日通名義になっており荷主は不明。
●興国人絹パルプ専用線
作業方法:手押
作業キロ:0.1km
↓
●日本通運専用線(チップ線)
作業方法:国鉄機、手押
作業キロ:0.1km
総延長キロ:0.1km
専用線一覧表1964(昭和39)年版では興国人絹パルプ、1967(昭和42)年版以降は日通名義になっています。
興国人絹パルプ(現在は興人)はセロファンなど化成品原料の溶解パルプをつくるため木材チップをトラ90000で富山工場(富山港線奥田貨物駅に隣接)へ運んでいたものと思われます。

右端の不自然に曲がった線路は留置線として使用されている上り2番線。

かつては上の赤線のように右に貨物ホームに接する上り3番線(③)、左には上り1番線(①)がありました。
②上り2番線と③上り3番線の末端にはトラバーサがあり、貨車を横方向へスライド移動させることも出来たそうです。
反対の左端には下り6番線。その右の多数の線路が分岐する線路の延長線上にも貨物ホームがありました。

当日ご案内いただいたくるまや軽便鉄道さんより貨物扱い盛んなりし1969(昭和44)年3月の高山駅構内入換の画像をお貸し頂きました。
1つ前の画像の撮影場所から本線を渡った反対側から撮影されたものでC58 226がバラエティーに富んだ貨車群を牽き出しているところ。
2両目は白帯車のワ10000形かワ12000形辺り?右には貨物側線の上り1~3番線が見えます。
この写真が撮影されて半年後の1969(昭和44)年10月1日に高山本線は無煙化されますがC58 226は七尾線に転じて2年ほど生き延びています。

今度はC58 266が①上り1番線よりタキ3000+ヨ6000を牽き出すところ。
引上線の先にあった三菱石油専用線か飛騨一ノ宮の石油専用線に出入りしている貨車でしょうか?
奥の③上り3番線にはトキ25000やワム70000などが見え、その向こうの貨物ホーム上には原木がはい積みされ巨大な積込みクレーンにベルコンや倉庫群と賑やかです。

現在は建物ができて当時と同じ位置より撮影できないのでなるべく近い場所から。
貨物ホーム上には新しい交番などができて貨物扱い当時の面影は薄れています。

上り3番線の線路は撤去されているものの貨物ホームは一部が現存。
この辺に上り2番線とをつなぐトラバーサがあったようですね。

1番ホームより岐阜方を見た様子。手前は上り1番線撤去跡。
ここは貨物ホームも撤去済みに見えますが向こうの方を見ると・・・。

貨物ホームの石積みがなぜか一部だけ残っています。
当日は工事や積雪でわからなかったのですが旧貨物ホーム上には貨物移動用のナロー軌道も敷かれていました。
続きを読む >>
投稿日:2019-02-04 Mon
高山本線上枝駅の専用線2回目。ここの専用線は専用線一覧表上では日本通運専用線と通運業者名義のため実際の荷主がわかりません。
地元情報として高山市内の某石油販売会社ではないかとの情報は聞いているのですが。

富山方から見た上枝駅構内。
右の安全側線の横、油槽所の塀との間に側線を敷けそうなスペースはあります。

線路敷と油槽所の塀の間には深い水路があり塀にも切れ目やパイプラインのあった跡などは特にうかがえず。
やはりここでタキからの荷下ろしはしていないのか。

油槽所は空き地になり表札も外されています。

岐阜方から見た上枝駅構内。

岐阜寄りの貨物ホームと、専用線のレール。
専用線一覧表では1984(昭和59)年版で確認。
1982(昭和57)年度に上枝駅貨物取扱いが廃止になって以後国鉄側線を高山駅所属の専用線として残したのだろうか?

1番線との接続は切られ、引上げ線上には会社事務所が建ってレールは短縮されています。
作業方法は国鉄機となっており高山駅から一駅だけ牽いてきたDD51がタキを引上げ線へ押し込み。
貨物ホームへの引き入れにアントが使われていたようです。
投稿日:2019-02-02 Sat
高山本線上枝駅の専用線。上枝は高山本線で高山駅の一つ富山寄りの難読駅で読みは「ほずえ」です。
かつては油槽所が存在し岐阜方から1995(平成7)年9月までDD51牽引の石油貨物列車の発着がありました。
しかし専用線一覧表1984(昭和59)年版を見ると不思議なことに専用線は高山駅扱いとされています。
作業方法:国鉄機
作業キロ:4.7km
総延長キロ:0.2km
↑を見るとわかるように作業キロが総延長キロに対して異様に長いことに気付きます。
因みに高山~上枝の営業キロは4.6km高山本線のまるまる1閉塞区間を専用線入換作業扱いで走ることになりますが実際運転上はどういう扱いだったのでしょう?
上枝駅での貨物扱いは1982(昭和57)年3月1日廃止、統計上でも貨物発着量は1981(昭和56)年度までしか記載が無く以降は高山駅の発着量に計上されています。
同時に旅客扱いの乗降者数の記載も消えており合理化により上枝駅を無人化したことが貨物を高山駅扱いとした理由のようです。

国土地理院空中写真1977(昭和52)年の様子。
当時はまだ有人駅で貨物営業も行っていました。
富山方(上)の左側に円形の石油タンクが固まった油槽所、岐阜方(下)の右側の貨物ホーム、専用線に貨車が2台留置されているのが写っています。

上枝駅の駅舎。
標準的な設計の木造駅舎ですがこの手の駅舎も建て替えが進んで少なくなりました。

駅舎横のトイレもこれまた今となってはあまり見なくなったもの。
Nゲージでグリーンマックスのキットにある古い駅舎のトイレがこんな感じですね。

駅舎内。
駅出札窓口の飛び出したところに時刻表が設置されているのも無人化された駅舎によくある改造。

小荷物窓口のカウンターには誰がつくったものか木でつくられたデフ無し9600が置かれています。

改札を入るとタブレット閉塞機を設置していた頃の出っ張りもそのまま。

1番線(上り)ホームに上がって富山方を見た様子。
国鉄末期まで構内踏切で2番ホームとをつないでいたところに作りが新しい跨線橋を新設したようです。

富山方の左には側線がありますがこれが貨物側線だったのかただの保線車用側線かがよくわかりません。
側線の左奥には油槽所のブロック塀があり油槽所へガソリンを降ろすには最適な場所の側線に見えるのですが・・・。
投稿日:2019-02-01 Fri
坂祝駅の貨物側線。駅裏の砂利、セメント扱いのヤード跡が目立ってこちらはあまり出て来ませんが駅前側にも貨物側線が残っています。
こちらは現在も保線用に時折使っているようです。
坂祝駅では専用線貨物意外に来栖鉱山のマンガン鉱石出荷などがありました。

坂祝駅の木造駅舎。
貨物廃止まで貨物扱いのため係の方が詰めていましたが旅客扱いは行っていませんでした。
旅客窓口は最初に行った頃(2003年頃)は営業しており自動券売機もないため窓口で駅員さんから切符を買いました。
パジェロ製造の工場があるためか利用者は多いですが券売機は有りません。
但しTOICAを始めとしたIC乗車券は利用可能。

駅舎の岐阜方には現在も2本の貨物側線が存在。

ダンプトロへの砂利積込みやマルタイが留置されてるのを見掛けます。

駅舎横の車止め付近は埋もれています。

木曽川を隔てた愛知県犬山市の山々が切り立って見えますがその辺りにかつて来栖鉱山がありました。
1938(昭和13)年に採掘開始して1945(昭和20)年に敗戦と共に一時閉山、採掘権が他の人に移り1948(昭和23)年に採掘再開、1965(昭和40)年3月の閉山まで鉄鋼原料として使用するマンガン鉱を採掘していました。
坑道から地上まではインクラインを0.5t鉱車で引上げて選鉱、索道で木曽川を越えた取組貯鉱所へ渡し坂祝駅から貨車積みしていたそうです。1955(昭和30)年現在で従業員15名、月産60tという小さな鉱山でした。
なお専用線一覧表1964(昭和39)年版、1967(昭和42)年版には日通石油ガス→日通商事の専用線もあったのですが1970(昭和45)年版では使用休止となっています。
作業方法:日通機
作業キロ:0.2km
総延長キロ:0.2km
太平洋セメント(旧小野田セメント側)のSS裏手に日通商事の岐阜LPガス販売所がありますが名古屋港か四日市辺りからプロパンガスを輸送していたのでしょうか?
専用線は恐らく日本セメント専用線→太平洋セメント専用線に転用されたものと見られます。
最後に坂祝駅の貨物取扱量の推移。

発送量が大きく、到着量は少なかったのですがセメント扱い開始と共に一気に到着量が延びています。

坂祝貨物の最終便は2006(平成18)年度中の2007(平成19)年3月16日が最後(↓)だったはずですが2007年度に発送貨物768tがあるのが謎(・ ・;)

SSのセメント量調整のため他へ融通する分を発送したのかも知れませんがトラック輸送した分も計上したのでしょうか?
実は知られざる本当の最終列車が運転されていた・・・とかなら興味深いところです。
参考文献:
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
坂祝町史 通史編(坂祝町教育委員会町史編纂事務局/編)
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
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