投稿日:2019-01-29 Tue
①DB021960(昭和35)年東洋電機製20t機(製番:4)


2枚とも2004(平成16)年5月3日撮影
四日市港の小野田セメント四日市SS開設時に導入された機関車。
今も東藤原から到着する貨車入換に45~50t機が活躍してますが当初いたのはこんな小さな機関車だったのですね。
1970(昭和45)年には日車45t機OD451が新製されており美濃SS開設はその翌年。
恐らく四日市で持て余されて来たところ手頃な新しい活躍場所が見つかって転属して来たということでしょうか。
OD25転入で主役を明け渡したようで撮影時は既にナンバーや社章も外され使われた形跡はありませんでした。
ディーゼル機関車としては珍しい東洋電機製ですが三岐鉄道ED45の伝手で発注したのでしょうか?
エンジンは国鉄キハ20などと同じDMH17Cを1基搭載、動力伝達方式はロッド式でした。
同型機は自分では見たことがありませんがリンク先の奥野さんが水戸線川島の専用線にいた同型機を記録されていました。
奥野君の専用線日記 川島報告
②OD25
1971(昭和46)年日立製作所製25t機(製番:13148?)

2007(平成19)年3月13日撮影

2005(平成17)年2月21日撮影
小野田セメント伊勢SS専用線(参宮線宮川駅)が1985(昭和60)年度に廃止されたため坂祝へ転入し最後まで主力を務めました。
2003(平成15)年8月に見たときは黄色、上の2005(平成17)年2月21日には白い太平洋セメント塗装になっています。
塗装がまだ綺麗なのでこの直前に塗装変更されたものと見られます。
坂祝廃止後は名古屋臨海鉄道で保線車となって2019(平成31)年現在も東港のヤードにいるはず。
③D804
1969(昭和44)年協三工業製10t機(製番:10628)

2009(平成21)年6月24日撮影
国鉄の10t貨車移動機と全く同じですが塗装は秩父セメント仕様の緑と白。
番号のD804は他に全国の秩父セメント専用線に通し番号でD801~806の仲間が散らばっていたため。
秩父セメント八田SS専用線から転入。
正確な転入時期は知りませんが1997(平成9)年時点では八田にいたのを見ています。
最後まで坂祝に残っていた機関車ですが現在は那珂川清流鉄道保存会で動態後存中。
スポンサーサイト
投稿日:2019-01-27 Sun
坂祝の入換あれこれ~。この頃は時間に自由が効いて坂祝貨物をよく撮っていました。

コタキ112157
タンク体上部に渡り板が飛び出しているのが独特ですがこれは以前九州の平成筑豊鉄道伊田線金田駅常備だった頃の名残だそう。
かつて金田駅には三井セメント専用線(金見鉄道)が接続し鉱山から駅までかなり長い専用線が繋がっていましたが結局行かず仕舞い(- -)
2007(平成19)年2月22日撮影

セメントターミナルの灰緑色タキ1900も入っていました。
(左)コタキ112049、(右)コタキ112058
真っ黒なセメント貨車に混じって異色の存在でセメントターミナルの頭文字からCT車などと呼ばれていましたがセメントターミナルのSSがあった西浜松も坂祝と同じ2007(平成19)年3月にセメント貨物が廃止になりました。
2007(平成19)年2月27日撮影
坂祝駅西方の城山(標高275.3m)頂上付近にある猿啄(さるばみ)城展望台から入換を大俯瞰~
以下5枚とも2007(平成19)年3月14日撮影

太平洋セメントの一番手間に見えるサイロ川側の側線からOD25が1本目のタキ1900×6連を駅へ推進中。

続いて山側の側線から2本目のタキ1900×6連を推進中。

2本を連結して12連の1編成に仕立てます。

OD25が離れるとDD51 1029が連結され旅客列車待避後1番線へ転線して8960レとして出発。
坂祝を後に東藤原を目指します。

城山を下山して木曽川の堤防道路を下れば8960レが岐阜で機回ししている間に追い越して撮影することも可能でした。
後ろが切れちゃいましたが(- -;)
DD51 1029は今となっては懐かしい九州タイプの赤ナンバー車。
投稿日:2019-01-23 Wed
坂祝の太平洋セメント専用線末期に入換風景を何度か撮影しました。画像は全て2007(平成19)年2月8日撮影

小野田セメント伊勢SS専用線(参宮線宮川駅)から転じて来ていた日立25t機のOD25。
現在は名古屋臨海鉄道の保線車となっていますがなかなか動いている姿は見られません。
荷卸し場に二分割して入れていた編成のうち1本目を駅に出した後で2本目を出すためにSSへ戻って行くところです。

OD25は一旦川側の側線を奥まで引き上げて山側の側線にいる2本目の後ろに連結。

推進運転で駅へ出て行くところ。

コタキ71995
今でも三岐鉄道~四日市に行けば見られるタキ1900形ですがこの頃は側面の社名やロゴが太平洋セメントではなく合併前の小野田セメントでしたね。
台車も枕バネに板バネを用いたTR41Cがまだ見られました。

日立25tで同タイプは今でも高山本線速星などにいますがOD25の特徴は駆動方式がロッド式なこと。
動輪のロッドを振り回しながら入換をする姿は味わいがありました。

先に駅へ出していた1本目の岐阜方に2本目を連結して列車を組成。

SSの奥へ引き上げてOD25の今日の仕事は終わり。

変わってJR貨物のDD51が連結されます。
この日の牽引機はA更新で青ガマになっていたDD51 856。

本線があくまでの一時デンカセメントのサイロ前に佇むDD51 856。
投稿日:2019-01-21 Mon
ササラ電車を待っている間に撮影した札幌市電始発前の入換風景。
250形253号。
1961(昭和36)年泰和車輛製。
製造から57年を経て集電装置が原形のZパンタからシングルアームパンタに換装されていますがまるで違和感がありません。

253号が転線して庫内へ引っ込むと次に来たのは8510形8512号。

8512号は1987(昭和62)年川崎重工製。
国内のVVVF車としてはかなり古い方。

3300形3305号は何と無動力の入庫車を連結して出てきました。
3300形は330形の部品流用車で330形時代は手前の車と同じような丸っこい車体をしていました。

3300形(番号は失念)
札幌市電の電車の大半は行先表示機がLED化されていますが3300形は方向幕で残っています。
緑色の電照幕の光が印象に残りました。

ササラ電車雪2号が入庫して・・・

動き出した市電で宿へ戻ろうとすると出庫してきたのはM100形M101号。
1961(昭和36)年日車製で253号と同年の製造ですが唯一原色を維持した車。
動いているところが見れるどころか乗車できるとは2日連チャンで極寒に耐えたかいがありました(笑)

M101に西4丁目まで乗車。
当初は制御車のTc1形を増結して2両運用を行ったそうですが運用が面倒なためTc1は早々と引退。
そのためか連結して運用されていた頃の記録もあまり見たことがありませんね。

朝ラッシュが本格化する前の西4丁目電停。札幌三越前も多少人通りが増えて来たかなと言う程度で車の交通量はまばら。
タクシーの運転手さんが「今朝は大渋滞だろうな」と予想していた通りこの後自動車は各地で混乱~。
鉄道はいずれも定刻通り動いて予定通り本州へ戻る事ができました。
投稿日:2019-01-16 Wed
坂祝で最も新しい電気化学工業坂祝サービスステーション(以下坂祝SS)は1974(昭和49)年9月3日開設でサイロの貯蔵能力は4,300t。新潟の青海が本拠の電気化学工業ですが坂祝へのセメントは主に本巣から送られていたそうです。
●電気化学工業坂祝SS専用線
作業方法:名岐デンカセメント運輸機
作業キロ:0.3km
総延長キロ:0.5km
なお電気化学工業に接して日本農産工業専用線もあって飼料が到着していたそうですが境目は不明(^ ^;)
クリーム色の穀物ホキが到着していたのでしょうか?
●日本農産工業専用線
作業方法:名岐デンカセメント運輸機
作業キロ:0.2km
総延長キロ:0.1km

坂祝駅旅客ホームのすぐ横にそびえる電化セメント坂祝SSのサイロ。
施設は現役時そのままなのですが雑木、雑草だらけでレールが見えません。

同じ跨線橋上から。
2005(平成17)年2月21日

車庫兼荷卸し場の上屋も機関車がいなくなった以外はほぼそのまま。

以前は協三工業1974(昭和49)年製20t機(製番:20851)の名岐デンカ運輸DB2001が収まっていました。
坂祝SS開設以来のヌシですが国鉄貨車移動機と何ら変わりないので趣味的にはあまり面白味を感じず・・・。
今から見ればケシカラヌほど贅沢な話ですが(^ ^;)
2007(平成19)年3月13日

車庫内は雑草もないので今もDB2001がいるような気がしてしまいます。

庫内に収まるDB2001。結局最後までこの機関車が動くところは見ることができませんでした。
以前社長さんからいただいた情報によれば本巣発坂祝行のセメントは2002(平成14)年3月14日発送が最後だったそうなのでこの画像を撮影した時点で既に専用線は運行停止後だったことに。
2003(平成15)年8月15日

DB2001は運行停止後も5年以上庫内に置かれたままでした。
2003(平成15)年8月15日

小西採石線(富山)側からヤード内を見た様子。
レール、転轍機は見える範囲内では現役時代のまま置かれているようです。

すっきりとヤード全体が見渡せた頃。
2003(平成15)年8月15日

因みにデンカセメントの円筒形サイロの右後ろに見える金属製の角張ったサイロが日本農産工業のサイロだそうで・・・。
2005(平成17)年2月21日
参考文献:
坂祝町史 通史編(坂祝町教育委員会町史編纂事務局/編)
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
デンカ60年史(電気化学工業)
投稿日:2019-01-14 Mon
高山本線坂祝の専用線3本目~現役末期に通った専用線なので個人的には専用線「跡」巡りと言うには違和感があるところです。
とは言えもう間もなく廃止から12年を迎えます。
坂祝のセメントサービスステーション(以前は「包装所」と呼称、以下SSと表記)は小野田セメント美濃SSが1971(昭和46)年、日本セメント坂祝SSが1972(昭和47)年に開設されており専用線も同時に運行開始したものと見られます。
入換は日本セメント専用線も小野田セメント機が担当しており、1998(平成10)年に日本セメントと小野田セメントの後身である秩父小野田が合併し太平洋セメントとなって以降と変わらなかったようです。
坂祝駅裏手には現在も日本セメント、小野田セメント時代のサイロがそれぞれ存在しますが太平洋セメントのサービスステーション一覧を見ると坂祝SSだけになってるので統合されたようですね。
坂祝の専用線では最後の2007(平成19)年3月16日まで運行していました。
なお機関車についての説明は後日現役時の様子紹介時とします。
●小野田セメント美濃SS専用線
作業方法:私有機
作業キロ:0.2km
総延長キロ:0.4km
●日本セメント坂祝SS専用線
作業方法:小野田セメント機
作業キロ:0.1km
総延長キロ:0.2km

最終便運転3日前のDD51 896転線作業。
2007(平成19)年3月13日

太平洋セメントのサービスステーションは現在も盛業中ですが側線は雑草、灌木に覆われてしまいレールが撤去されているのかいないのか判別できません。
右端に見えるのが旧日本セメントのサイロで奥が旧小野田セメントのサイロです。
上の画像でDD51 896前方に見える2番線との間の渡り線は撤去済み。

協三工業製10t半キャブD804が入っていた車庫。
旧日本セメントのサイロの積み降ろし設備でもあったようですがこちらを使っていたのを見たことはありません。
関西本線八田駅の秩父セメント専用線にいた機関車ですが坂祝で動いているところは一度も見たことがありません。
一応使ったことはあるらしいのですが。
廃止後も長いこと置かれたままでしたが現在は那珂川清流鉄道で動態保存中。
以前出掛けた時は見かけませんでしたがバックヤードにいたのかな?
2003(平成)年8月15日

D804の車庫や線路はほぼそのまま。
踏切部分だけレールが撤去されています。

保線トロなどを置いておくためと見られる横向きの短い線路もそのまま。

丁度この横にはアントが置いてありました。
D804が来る前は車庫にこのアントが入っていたようです。
2003(平成15)年8月15日

踏切を挟んで岐阜側の旧小野田セメント側。
左は廃止まで使われていた日立25t機OD25まだ塗装が黄色い頃。
右は先代の東洋電機20t機DB02。
DB02は今でも三岐セメント貨物が終点としている四日市港の四日市SSが開設されたときに使われていたものが転属して来たものですが美濃SS開設時に転入していたのかは不明。
2003(平成15)年8月15日

機関車がいなくなり踏切寄りのレールが断ち切られた以外はあまり変わっていません。
投稿日:2019-01-12 Sat
高山本線坂祝の専用線2本目~坂祝駅北側の郷部山は盆地の外れにある小さな山ですが南東側に古くから砕石場があります。
戦前は大阪砕石工業所が採掘していたようですが戦時中の1944(昭和19)年7月に小西砕石工業所が譲り受けています。
1948(昭和23)年には国鉄名古屋鉄道管理局へバラストを納入するようになっていますが当時はまだ専用線がなく駅まで陸送して貨車積みしていたようです。
専用線が敷設されたのは高度経済成長期のこと、東海道新幹線建設に大量のバラストが必要になるためで1960(昭和35)10月に完成しています。
東海道新幹線向けのバラスト輸送は1962(昭和37)年に始まりました。
専用線敷設が新幹線向けだったためか専用線一覧表の記事覧には「国鉄側線」と記載されています。
なおこの専用線現役時の様子はリンク先の奥野さんが撮影されています。
奥野君の専用線日記 坂祝続報告
作業方法:私有機
作業キロ:0.7km
総延長キロ:1.2km

呉羽紡績専用線から見て高山本線を挟み車止めで切れているのが小西砕石専用線。
右が工場方向・・・車止めでレールが切られています。

踏切から坂祝駅構内を見るとレール撤去後も路盤のバラストは残っています。
因みにいつ頃まで線路が敷かれていたかは記憶がない・・・と言うより当時は存在を知らなかった(- -;)
坂祝で特急北アルプス高山行最終列車を見送った時は既にこの状態だったので2001(平成13)年9月30日時点では運行停止していたものと思います。

反対の工場側を見ると高山本線沿いに続く路盤。

小西砕石踏切前から見た採石場構内。
小西砕石専用線はここで高山本線と分かれ中央に見える綺麗なドーム状の木の右の車が止められているところを通り奥の方へ延びていました。

小西採石踏切の16年前の様子。手前が採石場側でまだ専用線の分だけ踏切警報器が山側に設置されていました。
しかもその警報器の列車進行方向の矢印表示(ひだ通過時に早々と消えていますが^ ^;)下には・・・
2003(平成15)年8月15日撮影

専用線の入換時に点滅する「入換」標示機も付いていました。
できればこれが点灯しているときに来たかったぞ(爆)
2003(平成15)年8月15日撮影

向かい合う車の間のスペースが専用線跡。このまま左へカーブしてホッパーの下に入っていた様子。
2003(平成15)年にはここに↓のように日車15t機が留置されていました。
●小西砕石工業所坂祝工場専用線の機関車

専用線運用停止後も残っていた元名鉄DB-75(③)とNo.5(④)。
どちらも日車15t機ですが各部の形状が微妙に異なるので比べて見て下さい。間違い探し(?)
2003(平成15)年8月15日撮影
①無番 日輸10t機
専用線開設時1960(昭和35)年11月製造の10t機(製番33922)。
国鉄の貨車移動機と同型の半キャブロッド10t機だったようです。
②無番 日輸15t機
1978(昭和53)年に廃止になった名鉄尾西線森上駅分岐の三興製紙専用線から転入した元名鉄DB70形DB-71。
日本輸送機1962(昭和37)年9月製造の標準型15t機(製番943002)。
③無番 日車15t機
1981(昭和56)年に廃止になった名鉄広見線可児川駅分岐の名古屋パルプ専用線から転入した元名鉄DB75形DB-75。
日本車輌1963(昭和38)年製の日車標準型15t機の初期型(製番2300)。
④No.5 日車15t機
松本ターミナル運輸(篠ノ井線南松本駅構内の入換?)から転入。
日本車輌1969(昭和44)年製の日車標準型15t機(製番2748)。
③の元名鉄DB-75の初期型と似てますが外観が若干異なっています。
上の画像で見比べると端梁の切れ込み、前照灯の形状、手摺の数などが異なっていますね。
画像は後ろからなので見えませんが他に警笛(初期型:タイホーン、量産型:ホイッスル)、ラジエターグリルの形状が異なっています。
参考文献:
株式会社 小西砕石工業所WEBサイト
坂祝町史 通史編(坂祝町教育委員会町史編纂事務局/編)
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
ニチユ<日本輸送機>機関車図鑑(岡本 憲之/編・著 イカロス出版)
投稿日:2019-01-10 Thu
坂祝駅は高山本線岐阜口では最後の2007(平成19)年3月まで貨物列車発着があり三岐鉄道東藤原駅からセメントが送られていました。セメント各社のサービスステーションや採石場からのバラスト発送のイメージが強い同駅ですが最初にできたのは意外にも紡績工場の専用線です。
富山県が本拠の呉羽紡績坂祝工場に引き込まれた線路で日通機が入換に使われていました。
坂祝町史によると1952(昭和27)年8月4日に専用線敷設工事着工、翌1953(昭和28)年2月1日完成で専用線一覧でも1953(昭和28)年版から載っています。
呉羽紡績は1966(昭和41)年4月26日に東洋紡に合併しますが専用線は専用線一覧1964(昭和39)年版を最後に1967(昭和42)年版では使用休止と書かれています。
1975(昭和50)年7月30日には東洋紡坂祝工場自体も閉鎖されますが空き工場となっていたところに当時東洋紡系列だった東洋工機(三岐ED45などの車体を製造した同名企業とは無関係)が入居・・・現在は東洋紡の出資分も三菱自動車の出資に変わって三菱自100%子会社のパジェロ製造になって三菱の代表的4WDパジェロを製造しています。
作業方法:日通機
作業キロ:1.6km
総延長キロ:1.8km

呉羽紡績線は坂祝駅南東側(富山方)から延びていました。

専用線跡は現在高山本線に沿った歩行者自転車専用道になっています。

高山本線を挟んで小西採石専用線と並走。
小西採石線が分かれて行った後も坂祝小学校や町役場の前を通過しまだ続いています。

専用線跡は高山本線をアウトカーブで撮影するのにも良いところ・・・ちょっと背景がごちゃっとしますが。
JR東海では希少だったキハ47×4連。
2011(平成23)年5月3日撮影

緩く北東方向へカーブしながら並走する高山本線と専用線跡。

沿線にはたまにこのような用地境界標が見られます。
三角形で呉羽紡績の社章のようにも見えますが角度や三角形内側の模様が少し違うような・・・。

長く並走してきた高山本線からようやく分岐し東へカーブ。

分岐してすぐに専用線時代の開渠の橋台を利用したコンクリート橋が架かっています。

間もなくパジェロ製造の工場北西角の壁に突き当たります。ここだけ塀の形状が違うので鉄道門を埋めたのが一目瞭然。
専用線は工場の北端沿いにを最東端まで横断、さらにスイッチバックして南に折れ工場の真ん中を縦断していました。
現在では坂祝と言えばまずパジェロを連想するほどの町を代表する工場になっています。
参考文献:
呉羽紡績30年(呉羽紡績)
坂祝町史 通史編(坂祝町教育委員会町史編纂事務局/編)
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
投稿日:2019-01-08 Tue
東濃鉄道駄知線山神駅の貨物側線跡。駄知線の駅で唯一周囲が市街地になっていない駅。
下石駅から駄知へ向けて盆地境を隔てる山越え区間にポツンと存在していました。
土岐盆地と下石盆地の間は妻木川でつながっていますが駄知盆地との間は峠越えが必要でこの先には駄知線唯一のトンネルである日帰トンネルが控えています。
隣に1つ工場があるだけで他は住宅がまばらにある程度の場所で貨物取扱量は他の駅と比べ物にならないほど少量でした。

下石から土岐市総合運動公園の周囲を半周して来たところで土岐川橋梁跡からずっと続いてきた線路跡の遊歩道が尽き路盤そのままの浅い切通しに入ります。
廃線跡の切通しから土岐市方を見た様子。

そのまま切通しで山神駅へ進入。

現在も唯一旅客ホームが残る山神駅。

旅客ホームの駄知側末端。

以前はホームに上がる階段がもう少し分かり易かったのですが埋もれてしまった様子。
2001(平成13)年9月5日撮影

貨物側線の車止めが残っていましたが工場が別の会社に変わって建て替えられたときに埋められたのか消滅。
右が東駄知方なので側線は東駄知方から分岐する行き止まり式の短いものだったようです。
側線のあった場所は工場敷地内ですが専用線ではなく東濃鉄道の駅構内側線だった様子。
2001(平成13)年9月5日撮影

かつて車止めがあった場所は左向かい側の柵の下と見られます。奥が東駄知方面。
側線があった頃あった工場は陶磁器関係と見られますが現在この地にあるのは青木転写というデカールのメーカーさん。
模型やプラモが趣味の方はお世話になっているかもですね。
なお美濃焼が盛んな土地柄のためか主力は陶磁器に使うデカールのようですね。

駅から東駄知方を見た様子。この辺で左に側線が分岐していたのでしょうか。

山神駅の貨物取扱量の変遷。
発送はほとんど無く、到着量も1,000t以下。
駄知線内で逸早く1964(昭和39)年度を最後に貨物取扱いが無くなっています。
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
投稿日:2019-01-06 Sun
東濃鉄道駄知線下石駅の貨物側線跡。駄知線内では難読地名の下石(おろし)。
現在土岐市に含まれますが旧土岐津町の土岐市中心街からは南隣の盆地で、1955(昭和30)年2月1日に昭和の大合併で土岐市が成立する前は下石町でした。
東濃鉄道沿線はどこも美濃焼の産地ですが盆地ごとに得意分野が異なり駄知はどんぶり、下石は徳利の産地でした。
貨物取扱量は発送量より到着量が多目。
到着貨物の内訳は分かりませんが窯元で使う燃料の石炭や木炭が中心でしょうか?

東濃鉄道駄知線現役時の国土地理院が撮影した下石駅空中写真。
妻木川をかすめるように駄知線が通っており、川と接する個所に下石駅がありました。
旅客ホームは島式で駅舎から改札を通ると構内踏切で貨物側線と下り線を渡って旅客用の島式ホームに上がる構造。
駅舎の東駄知側に貨物倉庫が載った貨物ホームが配置されており、貨物倉庫の前には貨車が留置されているのも見えます。

土岐口から渓谷と言うほどではないものの丘陵の間を流れる妻木川に沿って抜けると下石の盆地。
下石川を渡ると下石駅構内です。鉄橋は橋台まで改修されて鉄道時代の面影は皆無。

旧下石駅構内を土岐市側から見た様子。かつての構内踏切から島式ホームに上がる辺りから撮影。
左の駅舎から順に貨物側線下り線、島式ホーム、上り線が並んでいました。

駅前。貨物倉庫跡には下石郵便局と東濃鉄道バス、タクシーのターミナルがありますが「東鉄ターミナル」の看板が剥ぎ取られています。
右(土岐市方)の駐車場の位置に駅舎がありました。

駅当時の遺物がありませんが駅構内のNTT電話線は今でも駅前幹線を名乗っています。

はーさんの鉄道・旅・よしなし草(別館)40年前の鉄道風景管理人様より下石駅停車中の下り貨物列車の貴重な画像をお借りしました。
土岐市行き上り電車が下石駅に入線するときに車内から撮影なさったものと見られます。
牽引機ED1001の前面通風口の蓋が開けられていますが勾配路線の重量物輸送で抵抗器がオーバーヒート気味なのでしょうか?
右には貨物側線と貨物ホーム、その上に建つ木造倉庫の作りまでもが窺えます。
1965(昭和40)年1月16日撮影

上の現役時代画像とほぼ同じ位置から撮影。住宅や郵便局が建ち竹林が育ってバックの山もよく見えなくなりました。
当時と変わっていないのは横の妻木川と駅前広場くらいでしょうか?

下石駅構内を東駄知側から見た様子。
貨物側線は下石公民館の付近まで入っていたようです。

下石駅の貨物取扱量の変遷。
全般的に到着量が発送量より多いのですが1955(昭和30)年度より廃止まで右肩下がり。
発送量は少ないながら1961(昭和36)年度まで伸びているもののその後は発送量と一緒に下がってます。
最盛期の1955(昭和30)年度で見ると1日平均ワム車換算で3車程度が入っていたようですね。
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
投稿日:2019-01-04 Fri
貨物到着量はさして多くないものの発送量が駄知線最大だった土岐口駅。神明口駅からは900mしかありませんがこちらは交換駅。

土岐市側から歩いてくると白い柵の左に下り場内信号機の台座が残っています。
突き当たりに立ちはだかる住宅の位置ら辺で線路が3つ又(左から貨物側線、下り線、上り線)に分岐していたはず。

ここに腕木式信号機が建っていました。
右(東駄知側)には点検梯子の切れ端もありますが最初見た時から比べると短くなっている気が・・・。

続いて上り出発信号機の台座がブロックに浸食されながらも残っています。

宅地化された駅構内を迂回するように道路は左右に分かれますが手前左には・・・。

かつての駅前倉庫が一棟だけ残っています。

宅地化される前の土岐口駅旅客ホーム(土岐市側)。
旅客用の島式ホームが残っていました。こちらは延長されたのかコンクリート造り。
2002(平成14)年5月4日撮影

駄知よりは元来の石積みホーム。
貨物ホームはこの島式ホームを挟んで向こうですが既に埋もれて残ってなかったと思います。
2002(平成14)年5月4日撮影

↑の過去画像で中央に見える防災無線スピーカーの下辺りから構内を振り返ったところ。
防腐剤臭い木枕木の線路や石積みホーム、木造駅舎、貨物倉庫といった泥臭いものが一切合財消え失せた街並み。

東駄知側には上り場内信号機の台座(右)だけが残っています。

その先の踏切跡を越えると柵代わりに軽レールが刺さっていました。
高さが45mmしかなく6㎏レールよりも細い規格外レール。
かつては粘土や窯業製品を運ぶ工場のトロッコ軌道に使われていたのでしょうか。

土岐口駅の貨物取扱量。
神明口駅と同じく発送が主で1955(昭和30)年度は30,000tを越えていましたが1971(昭和46)年度にはほぼ半減。
1955(昭和30)年度の1日平均発送量は83.8t・・・ワム車6台分というところでしょうか。
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
投稿日:2019-01-01 Tue
あけましておめでとうございます。今年もまた変わらずアヤシゲな林鉄や側線跡を中心にお送りしま~す♪
東濃鉄道駄知線で土岐市から土岐川を渡り1つ目の神明口駅。
交換設備はありませんが貨物扱い量が多い貨主客従の駅だったようです。
貨物発送量は主要駅の駄知駅を凌ぎ最盛期の1960(昭和35)年度の発送量は19,839t、1日当たり54.3t・・・ワム車で4車相当です。

神明口駅構内を土岐市側から見たところ。
自転車・歩行者専用道部分が駄知線本線跡と思ったのですが現役時代の航空写真で見るとこちらが貨物側線のようで貨車が止められているのが見えます。
右のトラックが止まっているところが貨物ホームの跡で旅客列車は左に分岐して柵の向こうの駐車場になっているところにあった旅客ホームに止まっていたものと思われます。

切り石積みの貨物ホームはトラックの足元に現存。

右にあったと見られる旅客ホーム跡は痕跡がありません。
道路に面しない不自然な位置に線路に沿って長方形の駐車場があるので旅客ホーム線と旅客ホーム跡ではないかと想像させるくらい。

旅客ホーム跡の駐車場から道路に出る道。かつての神明口駅前通りだったのでしょうかね。

貨物ホーム上は駄知線廃止後名鉄急配の敷地となっており貨物ホームと高さを合わせて土地を盛ったためかコンクリート製のプラットホーム状擁壁が続いています。この辺では既に貨物側線と旅客ホーム線が合流していたものと思われます。
右に見える枯草が絡まったコンテナは国鉄C10形コンテナでした。

神明口駅より東駄知側で交通量の多い岐阜県道421号を渡ります。
貨車の入換を行うと踏切で長時間塞いで渋滞になりそうですね。
なお駄知線の代替バスはこの道を通っていますが神明口というバス停は存在せず最寄は津路町バス停になります。
名鉄急配の営業所は県道を挟んで駅と反対側。

岐阜県統計書を元に作成した神明口駅の貨物取扱量の推移。
1972(昭和47)年度分は駅別の統計がないので不明。
最後の時期に急に到着量が伸びた以外は全般に発送量が多く窯業メーカーの焼き物製品や陶土などの発送が多かったものと思われます。
参考文献:
RM LIBRARY72 東濃鉄道(清水 武/著 ネコ・パブリッシング/刊)
岐阜県統計書(岐阜県総務部統計課)
△ PAGE UP