投稿日:2017-11-29 Wed
西宮後停留場で森林鉄道徹底追跡シリーズ(?)として長野県南木曽町の与川森林鉄道を準備中です。今回はその中から一部を先行紹介~。

与川森林鉄道が東山神社の参道を横切っていた跡。
よく見ると石畳がレールの有った部分だけ途切れているのがわかります。
右奥(南木曽駅方)に下ると梨子沢(三殿営林署の資料では大梨子沢)の木橋跡。
2014(平成26)7月9日にこの沢で蛇抜け(土石流)が発生し中央本線の橋梁や家屋を押流し、近く住む少年が自宅ごと流されて亡くなる痛ましい災害がありました。

本殿の側から見た様子。
石畳の隙間を測ってみたら巾1.2m
762㎜軌間のレールの間と左右には木の踏板が張ってあったものと見られます。
急カーブ区間なのでレール内側には護輪軌条もあったことでしょう。
戦時中には金属供出などでレールが不足しこの辺の護輪軌条を木製レール化して本線用レールを捻出したという凄まじい話もあります(- -;)

半径の小さな急カーブ上にあるため見通しが悪く運転保安の観点からすると宜しくない部類ですね。

しかし撮影者、モデラー視点で見ると箱庭的な景観で非常に魅力的です。
参道の踏切を運材列車がゆっくり通過して行く風景・・・見てみたいですね。
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投稿日:2017-11-25 Sat
名古屋市交鶴舞線甲種回送2回目
名鉄築港線に乗り入れ鶴舞線N3109編成を大江駅側線まで届けた名古屋臨海鉄道ND55210。
引上線に入り築港線へ転線する際に名鉄常滑線の電車と並びが見られます。
いつもは立体交差するだけで近くに並ぶことはない組み合わせ。

築港線の出発信号機が変わり東名古屋港へ向けて出発。
名鉄線内のND552の運転は名古屋臨海の乗務員さんが行いますが運転室には名鉄の職員さんが添乗するようです。
駅員さんが持っているのは築港線大江~東名古屋港間の通票。
築港線は名鉄最後の通標閉塞が行われている路線で通票としてスタフが使われています。
タブレットキャリアには円筒形の頭に三角形が付いた独特の形状をしたスタフが付いてます。
うちのそばを走る名鉄尾西線新一宮(現・名鉄一宮)~玉ノ井でも新一宮の高架化完成までスタフ閉塞が行われていましたがこちらはよくある円盤を納めるタイプのタブレットキャリアでした。
この区間は元々タブレットを使ってたのでその玉(円盤)を使ってたのかも知れません。

ND55210が牽き上げるとEL121が出てきました。

引上げ線から・・・。

N3109編成のいる側線へ転線。
投稿日:2017-11-18 Sat
富山地方鉄道にいた東芝戦時型電気機関車。2007(平成19)年に上市駅構内で解体されましたが稲荷町で2005(平成17)年8月26日に撮影してます。
名鉄デキ600や伊豆箱根ED31と同タイプですが真っ黒な車体で重厚感に溢れていました。

1947(昭和22)年東芝製で1948(昭和23)年に車両設計認可された40t機。
当初はデキ30形31号でしたが間もなく改番で富山地鉄特有の電動機出力を上3ケタに入れてデキ14730形14731号になってます。
(因みにこれらのインフレ番号については部内では下二ケタで呼ぶことが多いらしく従来通り30形と呼ばれてたらしい。)

有峰ダム建設工事資材輸送のため1957(昭和32)~1960(昭和35)年の短期間に在籍したデキ19040形19041,19042(現在の三岐鉄道ED45 4,5)を除けば富山地鉄最強の電機でした。
貨物は1983(昭和58)年に廃止され、工事貨物もデキ12021が牽引するため、こちらはスノープラウ取付、前照灯をシールドビーム2灯に改造され除雪車になってました。
1999(平成11)年の除籍後もデキ12021と並んで稲荷町構内で昼寝してる姿をよく見かけましたが機械扱いで夜間に動いていたのか??
解体時は上市まで同じく解体される電車を牽いて自走したと言うことですが。

台車も板台枠のまま、パンタは下枠がPS13ぽいので更新改造される前の名鉄デキ600を髣髴とさせる雰囲気。
投稿日:2017-11-13 Mon
飛騨金山駅から富山方へ歩くこと20分ほど。福来信号場の近くまでやって来ました。益田川(飛騨川)で小坂などから木材を流していた流送の遺跡を見に下原中綱跡へ。
名古屋の白鳥貯木場、桑名貯木場へ木材を川で運んでいた頃、下原中綱では川を横断する綱で木材を受け止め検品後再び流していた場所です。

福来踏切を通過するキハ25系1000番台車上り普通美濃太田行。
その右に見えている建物が下原中綱の福来口御番所屋敷。

木造平屋建てで中綱の左岸側管理事務所と言った役割でしょうか。
右岸にも御番所があったようです。

1692(元禄5)年までの金森氏の高山藩配下の時代は大船渡臼が洞(大船渡ダム付近)にあったようですが、同年に徳川幕府直轄の天領となって以降は上流の福来に移り、今に残る中綱の位置へは幕末に移って来たとのこと。
この建物も同時期に建ったようですね。

下原中綱自体は御番所から見て高山本線の向こうにあり踏切が無いので標柱を見ただけ。
綱を固定していた岩が残ってるそうですが・・・。

面白いのはその御番所が民家に転用されてお住まいになった方が国鉄名古屋鉄道管理局の踏切防護協力員をお勤めだったようで、当時の名鉄局の看板が軒下に架かっていること。
昔の踏切にあった三角形の柵が描かれてます。名鉄美濃町線白金付近の踏切や関西本線庄内川橋梁の左岸土手にこのタイプの柵がありましたがいずれも無くなりました。今はどこかで見られるでしょうか。
時代の流れで流送が消え鉄道に置き換わっても「御番所」として輸送を守る使命を担っていたと考えると実に興味深いものがあります。
是非この点もアピールしたいところです。

現在は国鉄も無くなりJR東海になりましたが踏切防護協力員と言う制度はいつまであったのか?
現在はお住まいだった方も新居に移られて御番所屋敷は史跡として余生を送りながら益田川の流れと高山本線を見守っているようです。
投稿日:2017-11-11 Sat
飛騨金山駅からほど近い中部電力大船渡ダムと同発電所。高山本線や森林鉄道が開通し木材輸送が鉄道輸送に切り替わる前の川狩りに関連した施設遺構が残ってるので見てきました。
ダムは飛騨川の川幅いっぱいなので広いですが高さは低くダムから水路、発電所までの全てがほぼ駅前だけで完結する小規模な発電施設です。
ダム、発電所は岐阜電力により1929(昭和4)年10月完成。
同時に岐阜電力は親会社の東邦電力に買収され、同社の金山発電所になりました。
1941(昭和16)年10月には大船渡ダム、発電所に名前が変わっています。

大船渡ダム。両岸とも市街地で町中のダムと言う感じ。
東邦電力は戦時中電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門社長が軍部の圧力を恐れず電力の国家統制に反対したものの国策会社日本発送電に統合され残ってません。それでも東邦ガスを始め「東邦」の名前を受け継ぐ企業が現在でも見られます。

ダム横から延びる発電所への水路。
木材もここを流していたそうですが発電所完成1年半前1928(昭和3)年3月21日には高山線が飛騨金山まで開通。
東邦電力もダムサイトの土場から運材軌道を駅まで敷いていたというので水路がどの程度流送に使われたかは不明。

駅前の市街地を貫流する水路。古典的な高圧線鉄塔が水路を跨いで立ってます。

下呂市役所金山振興事務所の横。片足を伸ばして跨ぐ鉄塔が何だかユニーク。

間もなく大船渡発電所に入って行く水路。有効落差が12.3mしかなく出力も6,400kwと現代の他の発電所と比べると小さなものです。
左の分岐部をコンクリート壁で塞がれた細い水路が流木路跡。使わなくなって80年は経つ流木路ですが何だか塞いであるコンクリートの色が真新しい気が・・・。

大船渡発電所の水路出口側。右に発電器を通らず地下をバイパスした流木路のトンネルが残っています。

流木路トンネル拡大~。

ダムでは補修工事が行われていたのですがその表示板を見ると・・・流木路を塞いだのは至極最近だったんですね・・・惜しかった。
参考文献:
飛騨川(中部電力株式会社/編)1979
飛騨川水力開発史(東邦電力株式会社/編)1939
投稿日:2017-11-09 Thu
飛騨金山駅構内南半分(岐阜方)。
保線車両用として今も使われている側線が延びています。

2、3番ホーム上から富山方を見た様子。跨線橋が変わった形状ですね。

2、3番ホーム上から岐阜方を見た様子。駅舎よりも大きい美濃太田工務区金山保線支区の建物が目立ちます。
地元の方に伺うとこの辺りには石炭置き場、給水塔、転車台があり奥の保線車庫部分には機関庫があったとのこと。
ここは機関区ではなく駐泊所で美濃太田区や高山区の機関車が入っていたようですね。

岐阜方の駐泊庫跡と思しき付近から見た様子。転車台は全く跡がわかりませんね。
なお保線車庫内は空のようでした。

飛騨金山駅に入る下り普通列車キハ25系1000番台車。
頭に付いているJR西日本やIRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道の521系電車と同タイプのホイッスルカバーが目立ちます。
投稿日:2017-11-07 Tue
広大な飛騨金山駅の構内を見ていきます。まずは北半分の富山方。

飛騨金山駅構内を富山方から見た様子。
右側の草地は側線、専用線跡。

線路沿いに富山方へ行ったっところ。
現在は跡形もありませんがこの背後には1998(平成9)年まで山岸製材所があり構内にはトロッコ(軌間600~609㎜だったらしい)がありました。
1963(昭和38)年頃までは軌道が駅まで延びていたそうで手前の道路を線路が通っていたのでしょうか。
さらに1929(昭和4)年にできた金山ダム(現大船渡ダム)からは上流から飛騨川で流されてきた流送材を駅に出すための東邦電力の軌道があったようです。
草むらの中にある廃屋辺りに大船渡ダムの木材揚陸土場があったと思われますが・・・この建物も関係あるのかな?
高山本線を挟んで両側が木材トロッコの廃線跡と言うことになります。
前述のトロッコがあった山岸製材所金山工場は1934(昭和9)年操業開始と言うことなので高山線が全通して飛騨川の流送が無くなって不要となった東邦電力軌道のレールやトロッコを譲り受けて使っていたのかも?

飛騨金山を発車するワイドビューひだ9号。
広大な側線群は草生してますがレールが残ってます。
手前の道路は製材所軌道が通っていたと思われる道。今でも周辺には製材所が多いです。

同じワイドビューひだ9号を後打ち。
この後ろ家並を挟んで100m先に大船渡ダムがあります。

こうして見てもやはりかなり広い構内。
かつては貨車がひしめいていたのでしょうが何もいないと寂しいですね。
参考文献:
トワイライトゾーン MANUAL Ⅲ 山岸製材所金山工場のトロ(平田邦彦/著 ネコパブリッシング)1994
飛騨川(中部電力株式会社/編)1979
投稿日:2017-11-04 Sat
11月第1週の休みは王滝村公民館まつりで王滝林鉄せせらぎ線が運転されます。
まずは行く途中にちょっと村道の穴沢橋から下を見下ろすと王滝森林鉄道穴沢橋梁が良く見えるようになってます。
夏場は周囲が茂って良く見えないのですがこれが見えると秋だな~と感じますね。
上が瀬戸川線、下は王滝本線のガーダー橋。
王滝本線ガーダー橋の下には牧尾ダム建設前の王滝本線旧線の橋脚も見えてます。

松原スポーツ公園の王滝林鉄せせらぎ線では例年立山砂防出身の北陸重機工業製No.142(後)がB型客車王営12(中)を牽いて往復するのですが今年は途中で酒井7t機のNo.84(前)も運用に入りました。
No.84+王営12は初組み合わせです。
例年は王滝村地元の方が集まるささやかな村のお祭りなのですが今年はファンの数が多く感じられました。

天気は途中結構本降りになるときもありましたが・・・

これはこれで趣がありますね。

木橋老朽化のため車庫~管理棟前区間が運休中で車庫~献花台前間の区間運転でした、車庫前でも機回しが必用となるのですが機回し線が無いので客車の手押し入換のお手伝い。
投稿日:2017-11-03 Fri
飛騨金山駅に2本あった日通の専用線。どちらも専用線一覧表の1951(昭和26)~1970(昭和45)年版で確認してます。
●日通専用線(1)
作業キロ:0.1km
作業方法:手押
●日通専用線(2)
作業キロ:0.2km
作業方法:手押
通運会社名義の専用線は漠然として何を運ぶための専用線かよく分かりませんが木材関係でしょうか。
飛騨川で東邦電力系の岐阜電力により金山ダム、発電所(現在の大船渡ダム、発電所)が建設されており、1928(昭和3)年3月21日の飛騨金山駅開業1年半後1929(昭和4)年10月に竣工、同時に岐阜電力は東邦電力本体に買収されて東邦電力のダム発電所になっています。
当時飛騨川では上流からの御料林材など木材を名古屋、桑名まで川の水流で運ぶ川狩りが行われていましたがダムでは水路に流木路をつくって堰堤を越えさせていました。ここで東邦電力はダムサイトから飛騨金山駅へ運材用のナロー軌道を敷設し、飛騨金山駅からの鉄道輸送が可能となりました。
また戦時中に岐阜寄りの七宗御料林からの道路林道(上麻生方面に運材してた七宗森林鉄道の代替か?)も完成し木材の集積地となっていたようです。
また1974(昭和49)年には大井川鐡道井川線で余剰となった加藤製作所製のセミセンターキャブ機DB51が転入したりしていることから中部電力関係の貨物もあったようです。
当時は馬瀬川沿いに水資源開発機構による多目的ダム岩屋ダムが建設中で、中部電力も岩屋ダム直下に馬瀬川第二ダム、馬瀬川第一・第二発電所を建設しておりダム建設関連の貨物が多かったのでしょう。
因みに馬瀬川のダム発電所工事は1966(昭和41)年から1976(昭和51)年でDB51入線時には輸送のピークは過ぎてるような・・・。
前任の入換機もいたのでしょうか?

飛騨金山駅1番線より富山方を見た様子。
乗って来たキハ25 0番台車が発車していくところ。
高山本線内でも主要駅の一つですが今では直営駅ではなく日中は切符の販売だけ委託で行われています。

かつては駐泊所や転車台、給水塔も設けられ駅構内はかなり広大。駅舎も大きめの木造です。

駅舎。観光協会も入っているのですが休日休みなのでシャッターが閉まってました。
平日ならレンタサイクルもあるそうですが(むしろ休日にやって欲しい^ ^;)

貨物ホームや積卸線跡は例によって駐車場、駐輪場になってます。
DB51がここに止められてた写真を見たことがあるのでスイッチャーの常置場所でもあったようです。

高山方の踏切の先にも並行して専用線跡と見られる路盤が続いてます。
中部電力大船渡ダム管理所の裏手にあたり、ここで貨物をトラックへ積替えてたのでしょうか。
また戦前の東邦電力運材ナロー軌道(多分手押しトロッコ軌道)もここを通ってたのではないかと思われます。

大井川鐵道から来たDB51。1956(昭和31)年加藤製作所製15t機。
独特のセミセンターキャブを持つジャック軸付きロッド機です。
久々野駅の中部電力高根水力専用線にも同型のDB52が転入していました。
投稿日:2017-11-01 Wed
●日本通運専用線作業キロ:0.1km
作業方法:手押→国鉄動車
専用線一覧1951(昭和26)~1967(昭和42)年版で確認
1961(昭和36)年版は未確認
●桜製陶→金子商店→中央陶器工業・金子商店(共用)
作業キロ:0.1km
作業方法:手押→国鉄動車
専用線一覧1951(昭和26)~1970(昭和45)年版で確認
1961(昭和36)、1975(昭和50)年版は未確認
日通と陶器関係の専用線がありました。
日通は何を運んでいたのか不明、陶器は製品と思われポムやワム、ワキが入っていたようです。
入換用の国鉄動車は専用線一覧1957(昭和32)年版より見られ、1969(昭和44)年3月末時点でE何型かは不明ながら貨車移動機8t機が1台いた様子。1976(昭和51)年には協三工業製10t機が新製されたようですが機械番号などは不明です。

瑞浪駅3番ホーム塩尻方。側線や専用線跡は駐車場になっています。

奥には製陶工場が見えてます。
掲げられた会社名の看板からすると専用線所有企業の後裔でしょうか。
国土地理院の1975(昭和50)年前後の航空写真を見ると発着線や授受線と見られる2本とその外側に専用線らしい1本の計3本の側線が並んでました。
1971(昭和46)年の写真では見られないので末期に側線を整備して積卸箇所には大きな上屋までつくっていたようです。

3本の側線はそれぞれ塩尻方、名古屋方にレールがつながっていました。
上屋があった辺りも特に痕跡無し。

目に付くのは工場のレンガ造りの煙突。
前はもう1本蔦の絡んだ煙突がありましたがいつの間にか1本だけになりました。
窯業が盛んな東濃地方ではかつてこのような煙突が林立し盛んに煙を吐いていましたが今となっては残っているものは貴重。

日通側線はよくわかりませんが1駅表側(右のホームの向こう)にも側線が残っていますがこちらでしょうか?
1920(大正9)年~1937(昭和12)年には駅前の塩尻方(奥)より陶、山岡方面を結ぶ貨物専用の恵岐索道が接続し石炭、陶土輸送に使われておりこちらにも専用側線があったとのこと。
索道のルートは瑞浪~明智の東鉄バス路線沿いだったようです。
本線:瑞浪~小里~川折~水上~猿爪(陶)
支線:猿爪~原(山岡)
参考文献:
機関車表フル・コンプリート版(沖田 祐作/編 ネコ・パブリッシング)
世界の鉄道’70(朝日新聞社)
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
瑞浪市史 近代編(瑞浪市教育委員会)
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