半キャブでも佐藤工業製の珍しい個体ですがどうなるのでしょうか?
この機関車についての詳細は稲沢の半キャブとアント をご覧ください。

車輪削正所の建屋から出されたままの半キャブ10t機。
巨大なDD51 875と並ぶとますます小さく見えますね。因みにDD51の重量は84t。

架線柱や柵などでゴチャゴチャしてる上に手前にコキやら機関車やらがよく止まってるのであまり良い写真は撮れません。
通勤中見てるとワム287419と少し離れて止まっていたのが現地へ撮影に行くといつの間にか連結されてました。

半キャブと連結されたワムはJR貨物東海支社を示す「海」と「愛知機関区常備」の表記がいい味を出しています。
これが国鉄時代の名古屋鉄道管理局を示す「名」と「稲沢第二機関区常備」だったりしたらもうぶっ飛びます(笑)

削正所の場所の都合でいつも非エンジン側からしか見えませんでしたが今はエンジン側も見れます。
見た目は協三工業製の同型機と変わりません。

連結相手のワム287419。280000番台車ですがコロ軸受化されてるので380000番台車が鳶色に塗られてるような印象。
名古屋方(右)に280000番台車もう1両と380000番台車2両がいます。
今は車輪付き倉庫扱いなのでしょうか?
2005(平成17)年3月26日に東員駅に統合されて廃止後の配線変更になる前は貨物側線が残ってました。

北大社駅廃止直前の2005(平成17)年3月19日にほぼ同一方向を撮影したもの。
近鉄時代の1977(昭和52)年北勢線近代化で電車は270形が投入され、桑名市街地にあった西桑名車庫が北大社に移転して2面3線構造になっていました。
元は交換駅で広い島式ホームを囲んだ2線と前後に貨物側線があったのですが島式ホームを削って線路を右へ移設して中線とし左のホームと入出庫線を増設した様子。
手前で左に分岐しているのが旧貨物側線への分岐。

現在の北大社信号場。2線ありますが手前は入出庫線で本線列車同士の交換は出来ない構造。
構内照明が付いた架線柱は変わってないので目印になりますね。元の中線と入出庫線が残り元の上り線と貨物側線が撤去されてます。また構内の線形改良で曲線緩和も行われたのでレールの位置は元の位置とは多少違うようです。
左の北勢鉄道以来の変電所の建物は変わってませんが手前の駅舎は消滅。

2005(平成17)年3月19日撮影の北大社駅舎。乗務員詰所もあって北勢線運転上の中枢でしたがこの機能は新駅の東員駅に移りました。
工場や倉庫建屋のような特に軽便風情のある駅ではありませんでした。
木造駅舎からこの駅舎に切り替わったたのは1977(昭和52)年でしょうか。

現在の西桑名方の様子。左にカーブする本線に対し貨物側線は右に真っ直ぐ延びていました。
線路に対し右が盛り上がっているのは貨物ホームの名残でしょうか。

再び2005(平成17)年3月19日へ戻ります。
左の貨物側線をよく見ると貨物ホームが残っています。
この当時は留置線として使っていたと思いますがあまり車両が止まっていた記憶はありません。

北勢線からの砂利線分岐部を員弁川方から見たところ。
砂利線はほぼ直角に曲がりこちらへ向かってきてました。
画像は車がいない時を狙って撮ってますが右の方にスーパーや書店、100円ショップが集まっているため線路跡は結構交通量が多い道になっています。

砂利線は嘉例川の堤防上を通り嘉例川、員弁川と合流点で今度は員弁川の堤防を上流へ向けて延びるため直角にカーブ。
星川から西桑名に向けて出発したのが180度反転して阿下喜方に向かうことになります。

伊勢湾台風で被害を受けた後で員弁川の堤防が強化されたのか跡形もありません。
2度目の直角カーブ直後にあった弁天川の橋梁跡にも何も残っていません。

砂利線はこのまま七和駅の南の方まで延びていたらしいのですが今では車が飛ばしていく堤防道路になっています。
大半のドライバーはこんなところに歩行者などいると思ってないのでかなり危険(- -;)

砂利線で使われていたD21エンジン側前面。
凸型車体の後ろは燃料タンクとバッテリーを載せていたためこれと同じような顔でしたがラジエターグリルが無い分大人しい顔つき。

D21+トブ821形の編成
1921(大正10)年10月コッペル製6.9t蒸機の北勢鉄道5号→北勢電鉄→三重交通21号の台枠を利用してつくられたディーゼル機関車。
改造は森製作所が行い1952(昭和27)年7月に完成。自重は蒸機の時とあまり変わらず7.0t。
左の台枠が下がっている側が蒸機時代のキャブでディーゼル化により東日本重工業(現・三菱重工業)DB-5L型エンジンが搭載されました。
武骨な角張った凸型車体にロッド駆動の典型的な「森ブタ」スタイルです。
サイドロッドもコッペルの流用品らしいです。
エアブレーキは機関車には付いてますが連結相手の貨車が貫通ブレーキ無しなのでエアホースは付いてません。
廃車は砂利線廃止後の1960(昭和35)年1月。
●星川駅と砂利線
星川駅は北勢鉄道開業時の1914(大正3)年4月5日にできたものの2年後の1916(大正5)年5月10日に廃止。
1927(昭和2)年9月8日に貨物専用駅として復活。電化後の1932(昭和7)年11月1日に旅客営業を開始しています。
1931(昭和6)年には北勢鉄道が直営で砂利採取を開始。
員弁川へ延びる砂利側線(以下星川砂利線)は1932(昭和7)年に敷かれ、1941(昭和16)年には1,9km延長されています。
本線が電化されていたのに対し側線は非電化のため当初は北勢鉄道非電化時代のコッペル蒸機が流用されていました。
員弁川で採取した砂利は国道1号線の工事などに使われたそうです。
当時は木曽川に尾張大橋、揖斐・長良川に伊勢大橋を架けて名古屋と三重を道路でつなぐ工事が行われていました。
●北勢砂利興業
北勢電気鉄道は1944(昭和19)年2月11日に戦時統合のため設立された三重交通の北勢線となりますが砂利採取部門は独立して北勢砂利興業となります。
また星川駅の旅客営業は同年年7月1日に休止されますが軍需物資でもある砂利の採取、輸送は引き続き行われ側線分岐用の信号所として使われてたようです。
戦後も星川砂利線の主力機をディーゼル機関車化するなど賑わいを見せましたが1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風で被害を受け廃止されています。なお台風直前に砂利線の運行は止めていたという話も聞きますが詳細は不明です。
その後もダンプカーで砂利採取を行っていたようですが河床を荒したり地盤沈下を招く川砂利採取は全国的に禁止されていく傾向にあり昭和40年代には員弁川でも砂利採取は行われなくなったようです。

旧・星川駅跡。かつては北勢線を越えた河岸段丘上が集落、下は田園地帯でしたが昭和50年代に下も宅地化しています。
水路と歩道部分は貨車の授受線があったようで、ここで本線牽引機のデ71から砂利線機のコッペル蒸機やD21への機関車付替えが行われていたのでしょう。

旧・星川駅の西桑名方。
航空写真を見ると砂利線に入るには一旦本線を走って100mほどで分岐していたように見えます。

旧・星川駅構内を通過して現星川駅へと向かう西桑名行ク171。
背景の山は藤原岳です。

嘉例川橋梁手前で砂利線は右へ分岐。
田んぼの縁が丸くなっているのは砂利線の線路用地界の名残のようです。
嘉例川を渡って下ると現・星川駅です。何度でも蘇る駅ですね~。
駅前には商業施設が集まり国道421号と県道が分岐する星川交差点があります。
酷い渋滞の巣窟なので訪問は電車がお勧め。
軽便鉄道博物館所蔵の戦前の絵ハガキにあった写真と国土地理院の1946(昭和21)年3月27日米軍撮影の航空写真から推定。
以前の三重交通専用線(関西本線桑名駅・三岐鉄道北勢線西桑名駅)2記事を書いた時の想定より合理的な配線でした。旧記事は訂正~こちらも更に訂正すべき事実が解ったら面白いです。
2番線、3番線は高架木橋(一部コンクリート橋だったらしい)になっており国鉄からの専用線両脇に入っています。
砂利貨物は発着時2番線を使いますが木橋上に自重12.6tの凸電が入る光景が見られたようです。
しかもそのまま機回しができるように木橋は急角度で折れて地上へと降りて本線と合流していました。
桑名からほど近い長島スパーランドにある木造コースター「ホワイトサイクロン」はこれに着想を得たわけじゃないですよね(^ ^;)

●矢田、星川での通票(タブレット)扱い
1948(昭和23)年9月23日改正版ダイヤグラムにはタブレットの孔形状も出ていました。
北勢線は単線なので列車同士の衝突を防止するため当時ごく一般的なタブレット閉塞を行っていました。
タブレットを持っている列車だけが交換駅間の線路に入れる通行証を駅が列車に交付するというものです。
ダイヤグラムによると貨物専用の矢田、星川でもタブレットを交換してます。
なお矢田は当初閉塞区間を西桑名~馬道としていたので、上り貨物列車が矢田に到着すると出張してきた西桑名駅の駅員さんがタブレットを受け取り駅まで自転車で運んで閉塞手続きを取り下り電車に渡していたとか。発車時はその逆手順です。
1948(昭和23)年当時旅客電車は矢田、星川で一旦停止してタブレットの授受を行っていたのでしょうか?
それとも通過授受!?
駅間距離は西桑名~矢田0.4km、矢田~馬道は0.7kmとどちらも非常に短いのでタブレット閉塞機取り扱いで駅員さんはかなり忙しそうですね(+ +)
と言うわけで上のダイヤを元に星川から到着した貨物列車をシュミレーションして見ましょう。
星川発の砂利貨物の1番列車22レを想定してますが交換列車などは他の列車も同じパターンダイヤでした。
かなり妄想入ってるのでどれくらい当たっているかは??です~(^ ^;)~
22レはデ71+トブ821、891混成10連で近鉄名古屋線、関西線を乗り越え左急カーブしながら下り勾配を通過。
上り場内信号機進行現示を確認し慎重にブレーキを掛け矢田構内へ進入。
2番線への分岐器を通過し機関車は平坦な高架線に進入したが後ろからは員弁川の砂利50tを満載した貨車がガンガン押し込んで来る。電車ならこんなにブレーキの利きが鈍くはないんだが・・・。
2番線木橋上で信号所員の停止合図位置に09:55定時到着。
タブレットを渡すと信号所員はすぐに詰所へ飛んでいき西桑名駅へ連絡。下り場内信号機を緑に変えた。
前方400m先の西桑名駅に前だけ見えていた桑名京橋発阿下喜行き955レが動きだし1分ほどですれ違う。
モニ226がトレーラー1両を牽いて来て一旦停止、信号所員からタブレットを受け取った。「通票ヨンカク!」
すぐに発車、重い貨物と違って軽快に坂を上って行く。
今日はトブから砂利を下ろす国鉄の貨車が3番線側で待ってるのでこちらは機回しして貨車を引上げ線に引上げ、推進で3番線に入れなければならない。
推進で行き止まりの線路に貨車を入れるのだからボサッとしてると木橋の端から貨車を落としてしまう。
神経を使う作業だ。今日の操車担当は誰だっけ?

実際に貨物輸送が盛んだったのは開業から三重交通時代の1959(昭和34)年の員弁川砂利貨物廃止まで。
北勢線の砂利貨物輸送の実態がどの程度のものだったか時刻表や残された車両の一部を元に探ってみます。

阿下喜駅の軽便鉄道博物館で展示されている1948(昭和23)年9月23日改正のダイヤを元に作成した北勢線貨物時刻表。
三岐鉄道になってから駅が整理されたため今となっては懐かしい駅名が並びます。
赤字の駅は信号場、貨物駅。
矢田は西桑名~馬道間に置かれた信号場だったようで国鉄桑名駅からの専用線が入っていました。
星川、畑新田は戦時中の1944(昭和19)年7月1日に休止、1969(昭和44)年5月15日廃止となっていますが休止時に止めたのは旅客扱だけだったのか戦後も貨物扱いを行っていたようです。
なお星川駅は三岐鉄道に移管された後2005(平成17)年3月26日に元の位置の200mほど西桑名寄りで旅客駅として復活してます。
●砂利貨物21~30列車
朝夕ラッシュの間の閑散時間帯に5往復も設定されており矢田~星川間はノンストップだったようです。
とは言え貨物列車なので速度は遅く現在の各駅停車より少し遅い程度。
●臨時貨物100~103列車
桑名京橋~阿下喜直通の貨物は臨時列車となっていたようです。
阿下喜からは木材や白石工業桑名工場からの袋詰め炭酸カルシウムが出荷されていたそうです。
101レは上り電車と馬道、七和、大泉東、楚原、麻生田で交換、大泉東ではさらに下り電車に追い抜かれます。
102レは下り電車と交換する駅は101レと同じ、楚原で上り電車に抜かれています。
●砂利貨物の車両
1931(昭和6)年の北勢鉄道電化時に日本車輌、三菱電機で凸型12.6t機の20形20,21号が製造されました。
戦時中に三重交通に統合されてからはデ71形71,72号になっています。

「はーさんの鉄道・旅・よしなし草 (別館)40年前の鉄道風景」管理人様より貴重な三重交通デ72号の写真をお貸し頂きました。
北勢線の砂利貨物が廃止になって余剰となったため三重線(湯の山、内部、八王子線)へ転属した直後の姿です。
三重線ラッシュ時には客車列車の先頭に立っていました。
近鉄となった後も内部、八王子線でデ45形デ46号として事業用に1975(昭和50)年まで活躍しました。
1961(昭和36)年2月19日 近畿日本四日市(現・近鉄四日市、あすなろう四日市)

北勢線に残ったデ71号は近鉄デ45形デ45号になります。本線に出ることも無くなり北大社車庫で無車籍の入換機械として使われた後解体され台車だけが現在もクレーンの検査に使うとかで現役。
なおデ71→デ45はボンネット中央に前照灯が乗っており、オデコに前照灯が付いたデ72→デ46と異なっていました。

トブ821形
星川~矢田の砂利輸送用5t積みダンプ貨車。
ナベトロよりは国鉄の土運車に近いような形状。左右に傾けると煽り戸が開いて側線の国鉄貨車へ砂利を落とせるようになっています。
砂利輸送には他に2軸無蓋貨車トブ891形がいたようですがこちらは見たところダンプしない普通の無蓋車。
係員が砂利を掻き落とさねばならなかったようです。
なお砂利輸送以外の貨車はボギー車が多かったようですがダンプ貨車が配置されるまではボギー無蓋車も砂利輸送に充てられていた様子。
北勢線では1952(昭和27)年2月に附随客車11両へエアブレーキが取り付けられ、電気機関車、電車から貫通ブレーキ操作ができるようになっていましたが貨車は最後まで貫通ブレーキ化されなかったようです。

ダンプ貨車トブ821形を利用したという北大社検車区の仮台車。
見たところ台枠を切り詰め軸バネを取り去った軸箱、車輪と接合したようです。
北勢線100周年記念の工場公開で知人に教えてもらったもの。

仮台車には記念なのか銘板まで律儀に残されています。
「昭和十六年製造 北勢電気鉄道」とあります。
国立公文書館所蔵の鉄道省文書に北勢電気鉄道の1941(昭和16)年8月25日付けで「貨車設計変更の件」というのがあるので候補車両が絞り込めるかも?
今度上京したらついでに確認して来たいところ~。

旧坂下営林署坂下貯木場の貨物側線利用と思われるバラスト積込み場。
貨物ホーム側の1線は撤去されています。
奥の貨物ホームは石積みですが名古屋寄りは直方体の石材を地面に並行に積んだ布積みになっています。

一方で塩尻寄りは交互に斜めに積む矢筈積み。つくられた時期が違うのでしょうかね。
背後は国保坂下病院を建設したとき地面を掘り下げたのか貨物ホーム線路寄りの壁だけが張りぼてのようになっています。

通過する下り特急しなの。
しなのがくぐっている歩道橋はかつて踏切で坂川鉄道新坂下駅の連絡道路でした。
奥には鐘釣トンネルがあります。

近くで見ると鐘釣トンネルは新旧トンネルが並んでいます。

元の一般貨物用と思われる駅前側の側線。
1922(大正11)年~1931(昭和6)年の間にはこの辺りに貨物索道の飛騨索道が接続しており下呂の三原まで発電所建設資材を輸送していました。
高山本線開通前のことで田瀬で北恵那鉄道と交差、付知、加子母を経由し舞台峠を越えて飛騨に入っていました。
一時は加子母森林鉄道と連絡して加子母御料林の木材を運んでいたこともあるとか。
いずれも短いので見た目では恐らく国鉄構内側線とあまり区別が付かない程度のものと思われますが1957(昭和32)年には国鉄動車(貨車移動機)まで入っています。
●日本発送電
作業キロ:0.1km
作業方法:手押
専用線一覧表1951(昭和26)年版で確認
賤母発電所の資材取り降ろし用か?
建設時には発電所まで手押し軌道があった様子
●長野営林局(坂下営林署?)
作業キロ:0.1km
作業方法:手押→国鉄動車
1951(昭和26)年、1957(昭和32)年版で確認
坂川鉄道→坂下森林鉄道起点の営林署貯木場が駅に隣接していた。

坂下駅名古屋方。
右から下り本線、中線、上り本線、旧・貨物側線が並んでいます。
中線は上り名古屋方、下り松本方面とも利用可。
日に何本か普通列車が特急「しなの」通過待ちを行います。
左端の分岐器が営林署の土場、森林鉄道機関区方面へ分岐しています。
専用線もこちらにあったものと思われます。

同じ位置から振り返り下り塩尻方を見た様子。
右に保線用と化した側線が続いています。
裏手の営林署貯木場は移転して国保坂下病院や製材所になっています。
ここには坂川鉄道→坂下森林鉄道の車庫もありました。

側線は保線トロへバラスト積込みのため現役。
貨物ホームも一部が残っています。

塩尻方から構内を見た様子。
現在の保線側線が専用線そのものなのか、国鉄側線に当たる部分だけなのかは確定できません。
それでも側線の残存率は結構高い駅と言えそうです。
参考文献:
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
というわけで近鉄南大阪、吉野線の電気機関車の紹介。
旧吉野鉄道には1924(大正13)年電化時導入のスイス・ブラウンボベリ製凸電デ1形3~5(後に改軌、車体を大改造されデ81形→デ35形に改番。大阪線で保線用に使用)を始めユニークな電機が集まっていました。

デ51形デ51
1929(昭和4)年川崎車両製(1928(昭和3)年に川崎造船所から分社化)の48t機。
吉野鉄道51形として製造され大阪電気軌道に合併、関西急行、近鉄と会社は変わっても吉野線、南大阪線で使われ続けていました。デ52が1975(昭和50)年、デ51は1984(昭和59)年に廃車されてます。

デ61形デ64
1927(昭和2)年三菱電機、三菱造船所製35t機。
現南大阪線の前身大阪鉄道のデキA1001形1001~1004号で同時期、同メーカー製の名鉄デキ300形とよく似ています。
大阪鉄道時代からレールがつながる吉野線に車両の乗り入れや貸し出しが行われていました。
後に伊賀線、養老線へ転じたものもありましたが1984(昭和59)年に全廃されました。

デ31形デ33
1948(昭和23)年三菱電機製40t機。
今でもデ32号が車籍のない入換機械として塩浜工場にいますがデ33号が1964(昭和39)年まで南大阪線配置でした。
写真は2000(平成12)年11月5日に養老線東方操車場で廃車前に行われた撮影会での様子。
運用によっては吉野貯木場専用線にも入ってたのではないかと思われます。
吉野貯木場の名残編~

製材所群の中に欄干だけが残るこんな光景が見られます。
かつてはここに吉野川の分流がありこの先は吉野川内の中州になっていました。
1回目にも出した地図ですが吉野川はこんな流れ方をしてました。

もう1本の橋の跡。
こちらには水中貯木場へ取水するための水門があり現在も水門の櫓が残っています。
欄干には「吉野川」の文字も見えます因みにかつては川幅が広く欄干ももっと長かったはずですが奥の方は撤去済み。

橋の先には吉野木材協同組合連合会の貯木場事務所。
恐らく県営貯木場ができた1937(昭和12)~1939(昭和14)年頃に建てられたものと思われます。

「聯」の文字や軒下の飾り、羽を拡げた鶴の絵柄の鬼瓦も渋いですね~。

近鉄吉野線アンダーパスの反対側(下流側)。架線を吊っていたと見られる碍子も一部残ってます。

丹治川を渡る橋梁。林鉄のような2本の直方体を渡したコンクリートガーダー桁。
日中戦争下で既に鉄製ガーダーが手に入れ難くなっていたのでしょうか?
かつては専用線の奥に丹治川を挟んで右に第二、左に第三水中貯木場の池が並んでいました。

製板所の裏手に残る線路跡のスペース。
終端までこんな感じの敷地になったり建物に飲み込まれたりの繰り返し。

旧第二水中貯木場付近から見た吉野川橋梁を行くラビットカー復刻塗装6020系6051F急行阿倍野橋行き。
養老鉄道で見慣れた色ではありますが4両編成ともなるとやはり見栄えがしますね。
吉野川は底まで透き通っています。
水中貯木場は現在埋められて跡地には製材所が建ち並んでいるため元の地形が想像しがたいです。
吉野川を使った管流し、筏組の流送は1954(昭和29)年頃までと比較的遅い時期まで行われていたとか。
既にダムもできていましたが筏用の水路トンネルをダム横に別に掘り、トンネル経由で下ったりダム堤体横に滑り台を設けて筏を吉野貯木場まで直通させていたそうです。
吉野貯木場専用線(近畿日本鉄道吉野線吉野神宮駅)~その2~
3年前にも講演があったのですが森林鉄道の催しは人気が高いそうです。

三重県立熊野古道センター様より掲載許可をもらいましたのでポスターを載せます。
代燃機関車が牽く運材列車が不動谷線の高桟橋上を行く様子が印象的。
機関車をよく見ると屋根板の側面縁の反り方が加藤製作所の機関車と何だか違う気が。
小坂森林鉄道の機関車にこれとよく似た岩崎レール商会製の機関車4号がいました。
小坂4号は1935(昭和10)年9月29日製作、米レロイ製のエンジンを積んでいました。
大杉谷では3号機が同じ岩崎製で1935(昭和10)年8月購入とありエンジンもレロイ・・・帝室林野局名古屋支局として同じ機関車を2台以上発注して大杉谷と小坂にそれぞれ割り当てた可能性がありそうです。

尾鷲湾沿いの道から少し上がった位置にある熊野古道センター。
建物は尾鷲ヒノキを使って建てられています。

企画展入口では山中よりサルベージされた北山索道(何枚田(尾鷲市)~河合(奈良県上北山村))で使われた索道搬器が迎えてくれます。
スタッフさんが100kgの搬器を山中で溶断して5分割して運び下ろし再び組み上げたというので物凄い熱の入れよう!
中では森林鉄道や索道のできた歴史的背景から現役時の写真、ルートなど精密な情報があちこちに。
大杉谷森林鉄道運材末期のカラー映像も上映されています。
講演は相賀から出ていた銚子川沿いの四日市製紙の軌道やその後の相賀森林鉄道の各線、索道のことが中心。
怪しげな遺構の情報を大量に仕入れてしまいました(爆)
講演後尾鷲索道軌道線のトンネルを探しに尾鷲市郊外のクチスボダムに行ったのですが日が暮れて来て時間切れ~
クチスボダム横に戻ってくると国道425号横にこんなものが・・・。

軌道の橋台・・・ですよね??
反対側の橋台や橋脚はダム工事で崩されたのか無くなっていました。

城郭の石垣のような下拡がりの堂々たる石積み。
木馬道にしてはオーバースペックな気がするのでやはり軌道のもの??
国道425号線は酷道巡りで通ったこともありますがこの橋台の存在には気付いてませんでした。
最近橋台の周囲が伐採されて姿を現したようです。

一段上の林道から橋台を見下ろした様子。国道を挟んでクチスボダム管理事務所、ダム湖が拡がります。
ダム湖対岸(右岸)には尾鷲索道の軌道線が通っていたほかこちら側(左岸)にも北山索道が通っていましたが軌道は無かったはず。
北東(画面左側)に古和谷を挟んで相賀森林鉄道古和谷線が通っていましたがその作業軌道とか??

専用線と交差する道路から吉野神宮駅方面の線路跡を見た様子。線路跡は左奥へカーブして続いてます。
まだこの辺りも33.3‰の勾配が続いてます。
木材や板材を満載した貨車を吉野線名物の丸窓電機デ51などが重低音を響かせて押し上げていたのでしょうか。

その背後に残る開渠のコンクリート橋。
左奥の青い標識手前にはスイッチバックして吉野川と並行に延びる下段の線路が横切っていましたが製材所の敷地に飲み込まれ現地ではわかりにくいです。むしろgoogleマップの航空写真で見た方が建物のカーブ具合で線路跡に建物が建っていることがよくわかります。

2枚目画像の場所から坂を下り下段の線路を越えたところにある吉野貯木場碑。
背後に見える建物は下段の線路上に建ったものなのでかつては石碑の後ろを近鉄電機や貨車が通っていたはず。
以下碑文の内容
本来の碑文は漢字片仮名文ですが片仮名は平仮名に直したほか句読点を追加してます。
●は碑文の摩耗で解読できなかった箇所です。
言い回しが現代と異なり読み辛いですが短い文章内で貯木場に関する重要な情報がしっかり入っています。吉野地方は遠く四百年の昔日より杉檜人工林の美を以て顕れ良材の誉れ宇内に冠絶す。
然るに其の販売施設これに伴はず概ね管外市場に依存し当業者は永年其の不利に悩めり。
是に於て昭和十年組合積年の研鑽に基き此の地に全生産材を一元的に集荷保管し製材販売運搬金融統制等諸般の施設を整へ以て新市場の開設を企画す。
爾来苦心経営、幸に関係官民多大の支援を得、遂に昭和十二年八月工を県営として起し然も組合自ら建設の責に任じ十四年十月竣工す。規模の雄大施設の整備、蓋し稀に見る所也。
開業以来業績大いに揚り特に戦時下其の任務の完遂に邁進し昭和十七年七月 畏くも侍従の御差遣を賜ふ感激奈そ●へん今也。
木材統制法に基き文禄以来三百年の歴史を有する組合一切の事業を奈良県林材株式会社に委譲するに際し茲に其の経歴を叙して以て之を記念す。昭和十七年八月 奈良県知事正五位勲四等 堀田健男題
奈良県吉野林業学校教諭 中西信雄撰
文中の組合とは吉野木材同業組合連合会(現在の吉野木材協同組合連合会の前身)のことでしょう。
県に働きかけ県営事業として貯木場を建設したことがわかります。
また戦時中に国策でつくられた統制会社の奈良県林材株式会社に事業を譲り組合が一旦消滅する時に碑を建てたこともわかります。
組合は戦後1950(昭和25)年に吉野木材協同組合連合会として復活し今日も貯木場を守っています。

駅からの線路と下段の線路がこの辺で合流、スイッチバックの突っ込み線になってましたが跡形もなし。
右後方が吉野神宮駅、道路がオフセットしてる先のプラントが突っ込み線が延びていた方向です。

その辺を歩いているとチルド車輪が転がっているのが見えたり・・・。
軌間は610mmか762mmくらいかな?
林鉄ではなく製材所内のトロッコのものと思われます。
吉野の山林は大半が私有林(県有林も私有林に含まれる)で国有林が無いため営林署の森林鉄道は有りませんでした。
私有の手押し軌道などはあったかも知れませんが情報が有りませんね。
吉野山の木馬の写真は見たことがありますが。

スイッチバックした先の下段の線路跡。
2つ並ぶ細長い建物から手前の道路にかけてが線路跡、この辺り私有地なのか公道なのかが曖昧で通っていいのかが分からないところも(^ ^;)
まあ危ない機械の傍に寄ったりしなければ挨拶して通れば咎められはしないでしょうが。

後ろを見ると吉野線本線と直交するアンダーパス。
左が吉野神宮駅の北端(あべの橋側)に当たり、右が吉野川橋梁です。
吉野貯木場専用線(近畿日本鉄道吉野線吉野神宮駅)~その3~
当初は貯木場、専用側線とも県営だったようですが専用線一覧表によると戦後は日本通運の名義になっていました。
鉄道模型向けに「シーナリィガイド」(機芸出版社)で紹介され有名な専用線(?)ですが林業史の観点から国立公文書館所蔵の書類や現地の碑文を元に掘り下げてみたいと思います。
作業キロ:2.5km
作業方法:社機
●奈良県悲願の吉野貯木場
奈良県南部は吉野スギやヒノキなど吉野材の産地で古代から畿内へ木材を供給する重要な地でした。
これらの木材は吉野川や熊野川の管流し、筏流しによる流送で集積され近畿都市圏へ出荷されていました。
吉野川は和歌山県に入ると名前が紀ノ川に変わり県都和歌山市で大阪湾に注いでます。
そのため吉野川上流の川上村で産出した木材も奈良県内を素通りして和歌山まで運ばれ販売されていました
奈良県としては木材集積地の座を和歌山県から取り戻したいという思いが強く地元の吉野材木同業組合連合会、奈良県庁が協力して1937(昭和12)年8月に吉野貯木場を起工、2年後の1939(昭和14)年10月に竣工しています。
貯木場は吉野川の中州との間に水門を設け流送されてくる木材を3つの水中貯木場へ引き入れる大規模なものでした。

県営で建設工事が行われた吉野貯木場
水中貯木場は伊勢湾台風後の復旧時に埋められたが陸上貯木場は吉野木材協同組合連合会により現在も盛業中。
●専用側線の敷設
貯木場と同時に大阪電気軌道(近鉄の前身・・・通称:大軌)吉野線吉野神宮駅から貯木場への専用側線も敷設されました。
正確な敷設時期は分かりませんが1938(昭和13)年3月17日に大阪電気軌道から、同年4月16日には奈良県知事からそれぞれ鉄道大臣へ専用側線新設認可の申請が出されています。
申請書類上では延長643m、最急勾配33‰、最小曲線半径160m、工費28,500円となっており、吉野神宮駅から下りてスイッチバックする手前までが認可申請区間と思われます。
その先は後に延長されたのでしょうか。

吉野神宮駅。
南北朝時代の動乱で吉野に立て籠もった後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮の前にあるため駅舎も神明造のような形状。
因みに吉野神宮は創建が1889(明治22)年と比較的新しいです。
吉野は奈良、京都、大阪からそう遠くないけど背後の山は複雑でかつ伊賀、伊勢方面へ逃亡することも可能という守り易く攻め難い立地条件。
そのため7世紀の壬申の乱や14世紀の南北朝時代など政権分裂時の動乱の舞台になっています。
山奥のようで都市部が近く交通の便も良いという特徴が現れており、これは木材輸送の条件にも当てはまります。

吉野神宮駅に進入するあべの橋行特急16000系モ16009+ク16109。
新塗色に変わっています。

吉野神宮駅から橿原神宮方面を見た様子。
吉野川橋梁を渡って来ると右に側線が分岐。本線からの分岐部は撤去されてるものの側線の大部分はレールがそのまま。

裏には一般貨物扱いを行っていたとみられる貨物ホームが残ります。

吉野方の踏切から見た様子。
専用線は右奥方向にスイッチバックで分岐するため手前に引上げ線が延びていたはず。

カーブして吉野川へと下って行く専用線跡の道。
この辺が専用側線敷設の申請書類にあった最小曲線半径160m、最急勾配33‰の区間だと思われます。
本流線は渚滑線濁川駅隣接の濁川貯木場から国道273号線(渚滑国道)に近いルートで浮島峠へと延びていました。
開業は1936(昭和11)年度で路線を延ばして行き幹線は31,524mに達しミタラショコツ、キンウシュナイ(キトウシナイ?)、オサツナイ等の支線群も存在してました。
オシラネップ線共用区間を除き1957(昭和32)年度にレールが撤去されています。

渚滑川に架かる国道273号線の滝上橋、その下流に本流線の橋梁跡が残ります。
2段になった橋脚は元々木造上路トラスか方杖橋だったのを鉄製ガーダーに替えた時に元の橋脚上に継ぎ足しを行ったものでしょうね。

滝上橋より先、二区では国道より山寄りに並行して本流線が通っていました。
道路化されてる箇所が多いですが外れた部分には国鉄線並みの築堤が残ります。
背後の丘には滝上の市街地へ出る道が通り稲見峠と呼ばれていました。
かつては右に広がる畑は水田だった時代があり一面の稲作地帯を見下ろすことから稲見峠と名付けられたそうです。
道東で稲作はさすがに無理があったようで今では田んぼは一枚も有りません。

二区の先にあるヒジの沢橋梁。谷底からの高さは30m近くあるかな?
以前は国道からもよく見え林鉄のシンボルタワー的な存在。
通常の森林鉄道橋は谷が狭くなるまで遡り、最低限の長さの木橋を架けてまた谷を下るというルート選定ですがここではプレートガーダー3連で一気に深い谷を渡っていました。

それにしても立派な橋梁でただの林鉄とは思えません。
聞くところによると浮島峠を越えて石北本線と連絡(中越駅(現在は信号場)辺りで連絡?)し旅客、貨物輸送を行う構想もあったようで・・・。
その場合は簡易軌道に管理替えさせるつもりだったのでしょうかね?
なおこの橋脚下流側には国道の旧道、さらに馬車道時代の旧旧道もあります。

道の駅へ戻り2階の観光協会事務所で本流線の地籍図を地図に落とし込んだ大絵巻の御開帳でお開きとなりました。
大作です。

ツアーは3時間3,000円(1時間当たり1,000円で最低2時間以上)でお腹一杯ですがさらにこの冊子ももらいました。
100部しか刷ってないのでツアーでの配布は無くなり次第終了とのこと~。
なお廃線跡は一見してまずわからない場所、危険な場所も多いので廃線跡を見学する際は本ツアーに申し込んで頂きたいとのことでした。
滝上森林鉄道の軌跡ガイドツアー(滝上町観光協会)
今回は協三工業機。
北見営林局DL-50

1956(昭和31)年12月協三工業製10tディーゼル機関車。
エンジンは日野ヂーゼル工業(現・日野自動車)DA-50を搭載。
トルクコンバータは無く機械式変速(車で言うとMT車)です。
前回のDL-53、54と同じく「北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について」北海道大学農学部演習林研究報告第20巻第1号(小熊 米雄/著)では丸瀬布営林署所属で武利森林鉄道にいたと記録されています。
前年1955(昭和30)年7月製造の滝ノ上営林署所属46、47とはエンジンも含め同型機。
1956(昭和31)年8月製造の丸瀬布→津別営林署43は現在群馬県根利で北見営林局時代の姿に復元されています。
DL-50の写真はモノクロで色が解りませんが青色だったのでしょうかね?

北見営林局置戸営林署のボールドウィン3号機と並ぶ43号機。
木曽に転じた後は長野営林局上松運輸営林署No.141となっていました。
詳しくはこちら

43の後ろ姿。
こちらはエンジンが日野DA-57で型式が異なっていました。
日野DA-58は大型ガソリンカーのディーゼル化でよく使われたエンジンでした。
主な例としては国鉄キハ41400→キハ05。現存例では加悦鉄道キハ51がいますね。

キハ51床下の日野DA-58。
キハユニと書いてありますが加悦鉄現役時代は荷物郵便の扱いは無くキハでした。
江若鉄道廃止時にもらったお古のエンジンらしいです。

戦前製の私鉄気動車(1936(昭和11)年日本車輌製 旧・芸備鉄道キハユニ18)としては結構図体がでかい車両。
エンジンも林鉄の大型機関車に採用されるほどなので強力なものと思いますが出力がどれくらいかは調査中。
但しこれらの写真が撮られた場所は滝上でない可能性もあるとのことです。
機関車の番号は北見営林局内の通し番号で付番されており、営林署間の移動も多かったようです。
なお北見局内の林鉄車両やトラック、集材機などの修繕や改造を行う工場は温根湯森林鉄道の留辺蘂貯木場に隣接して置かれ留辺蘂総合工場と言われていました。
●北見営林局DL-53

1957(昭和32)年8月酒井工作所製10tディーゼル機関車。メーカー形式C3。
エンジンは民生ディーゼル工業(→日産→UDトラックス)のUD-6を搭載。
トルクコンバータは無く機械式変速(車で言うとMT車)です。
板台枠タイプで振動軽減のため前後の車輪と車体前方で左右をつなぐイコライザが仕込まれています。
C3は北海道の森林鉄道に多数納入されたほか南大東島のシュガートレインこと大東糖業のサトウキビ運搬軌道でも使われていました。
「北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について」北海道大学農学部演習林研究報告第20巻第1号(小熊 米雄/著)では丸瀬布営林署所属で武利森林鉄道にいたと記録されています。
●北見営林局DL-54

1957(昭和32)年8月酒井工作所製5tディーゼル機関車。メーカー形式C1系列か?
エンジンは民生ディーゼル工業UD-3を搭載。
トルクコンバータは無く機械式変速(車で言うとMT車)です。
DL-53と同時に製造されこちらも「北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について」北海道大学農学部演習林研究報告第20巻第1号(小熊 米雄/著)では丸瀬布営林署所属で武利森林鉄道にいたと記録されています。
5tクラスとしては珍しくC3を小型化したようなスタイリッシュな車体。
イコライザは屋久島の安房森林鉄道で現役の酒井機同様前輪にだけ付いているようです。
~類似の機関車~

酒井メーカー形式C3の発展型となったC4。
長野営林局での形式はDBT10(ディーゼル機で駆動2軸(B型)トルコン付き10t機の意)。
写真は開田郷土館(長野県木曽町)の長野営林局上松運輸営林署No.135。
1962(昭和37)年酒井工作所製10t機です。
エンジンは日野自動車工業DA59Cを搭載。
トルクコンバータ付の液体式変速(車で言うとAT車)です。
C3はボンネット側が前位でしたがC4ではキャブ側が前位となるためキャブ側面のドアと窓の位置が前後逆になりました。
上松運輸営林署に7台(No.122,128,130,133,134,135,140)がおり湘南型の前面は木曽森林の顔と言うべき存在。
よく見ると車体を左右に横切るイコライザのを前方に設けるためDL-53と逆にキャブ下にイコライザが見えます。
またキャブ前面窓の傾斜もC3はボンネット側、C4はキャブ側になっていますね。

C4はキャブ側(上松方面)が前向きなので運転席や運転機器も当然そちら向きに付いてます。ボンネット側(本谷方面・・・山に上る方)を向く場合は体をねじって運転することになります。
C4ボンネット側(後ろ)のスタイルはC3を前から見た形とよく似ていますがC3は前面窓部分が屋根に向かって後退角が付いているのに対し、C4は真っ平、あくまでこちらは後ろなのでデザインは前の方のみ重視と言うことでしょうか。