投稿日:2017-07-31 Mon
魚沼線は片貝駅小千谷方で東へ方向転換しますが小宮製菓の工場はこの地点にありました。
魚沼線の路盤上小千谷方から見た元・小宮製菓工場・・・現在は越後製菓片貝西工場となっています。
右へ曲がると100mほどで片貝駅です。
魚沼線は来迎時~片貝間の路盤が片貝バイパスに利用されていますが工場の前でバイパスから分岐すると路盤がそのまま残る区間に入ります。
航空写真を見ると工場は魚沼線跡に片貝バイパスを建設する際敷地を削られたようでかつては魚沼線のカーブ外側まで工場建屋が迫っていたようです。
なおご近所の方によると「駅に貨車の出入りはあったけど工場まで引込線は入って無かったと思う」とのこと。
専用線現役時の1964(昭和39)年の運転線路図表を見ても駅部分にしか側線が無く工場までレールはつながってなかったようです。

上の画像と同一地点から西小千谷方面を見た様子。
ここから関越自動車道交差までは魚沼線の路盤そのままです。
線路奥の方に見える工場は越後製菓片貝工場。
片貝駅北にも沼田工場がありこの辺りは越後製菓の工場で一杯です。
同社は高橋英樹さんのCMのイメージが強いですね。名古屋でも見るし全国区と見ていいのかな?
因みに本社は隣の長岡市とのこと。

大正時代創業の古い工場なので中にはこんな味のある建物も。
奥の木立の辺りが片貝バイパス、魚沼線跡分岐点。
工場の向かいに胸像があり工場創業者の像かな?と思ったら田中 角栄元首相でした。
長岡鉄道→越後交通社長を務めてたのはよく知られてますが製菓事業に関係してたのかは不明。

工場の南側に来ると妙なものが・・・。
バイパス建設時に工場の水タンクが削り取られてしまったようで、コンクリート製のタンクが一部欠けた状態という不思議な光景が見られます。
専用線一覧と鉄道統計年報以外あまり情報もなくよく分らない専用線ですが一体どのような機関車がいたのか気になるところです。
参考文献:
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
運転関係線路図 第3分冊(日本国有鉄道新潟支社)
鉄道統計年報(日本国有鉄道新潟鉄道管理局)
越後製菓株式会社Webサイト
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投稿日:2017-07-30 Sun
頸城から移動した先は1984(昭和59)年4月1日に廃止になった魚沼線。信濃川を挟んで上越線と並行し存在意義が薄れたものと思われがちなローカル線ですが1974(昭和49)年までは貨物営業も行っており専用線に私有機までいるほどでした。
片貝駅は信越本線と接続した来迎寺駅から3.7kmの隣駅で自転車でも15~20分程度の近さです。
駅のある片貝町は小千谷市の北端。9月に行われる片貝まつりの花火が有名ですが主産業は米を原料としたおかき、あられを製造する製菓業です。
専用線があった小宮製菓も片貝町のお菓子メーカーの一つでした。
1923(大正12)年創業で戦時中は原料の米を食糧に優先して回すため休業。
1953(昭和28)年に製菓業を再開、魚沼線が改軌して営業再開するのはその翌年1954(昭和29)年8月1日のことでした。
1967(昭和42)年時点で従業員291人と片貝町最大の製菓工場だったようです。
作業方法:私有機、手押
作業キロ:0.3km
総延長キロ:0.2km
専用線の保線管理は柏崎保線区担当で1965(昭和40)年時点で255m、貨物営業廃止直後の1975(昭和50)年時点で232mの線路がありました。
(使用レールは40㎏レール108m、37kgレール103m、30kgレール21m)

片貝駅跡。貨物扱いをしていたと思われる広場は公園となっており片貝名物の花火を打ち上げるための筒が並んでいます。
奥が来迎寺方面で右の片貝バイパスに手前側から表一番線、プラットホーム、本線が並んでいました。
一見島式ホーム1面2線の交換駅のように見えますが場内、出発信号機は無く貨物側線、専用線としての使用しか無かったようです。
片貝駅での貨物扱いは1974(昭和49)年度に廃止されており末期は表一番線が撤去され1面1線だったとのこと。

公園の周りに妙なコンクリートブロックが並んでいるなと思ったら踏切の敷石をひっくり返したものです。
陰になって分かりにくいですがレールを設置していた溝が見られます。
魚沼線廃止時に線内で撤去したものを利用したのか全く関係ないところから持ってきたのかは不明。

かつての片貝駅前。駅舎は片貝郵便局になっています。
右前方に見えるいい感じの建物は・・・

元の日通事務所。現在は地元の通運会社さんが使っているようですが玄関先には「日本通運」の文字と丸通マークが残ってます。
専用線一覧の第三者利用欄に日通の名前は見られませんが専用線の運行や荷扱いにも絡んでいたものと思われます。
なお新潟鉄道管理局発行の鉄道統計年報によると片貝駅の貨物取扱量は以下の通り。
1960(昭和35)年 発送(上り)3,099t 到着(下り)10,918t
1965(昭和40)年 発送(上り)8,607t 到着(下り)14,460t
1970(昭和45)年 発送(上り)5,128t 到着(下り)12,426t
1974(昭和49)年 発送(上り)1,229t 到着(下り) 4,551t
到着貨物が多いですが原料(米?)の供給でしょうか。
投稿日:2017-07-28 Fri
いよいよホジ3も出てきます。
ワ14とワ7
ワ14は木製で製造年、製造元不明(元・魚沼鉄道→国鉄ケワフ100(1810?))
ワ7は1914(大正3)年日本車輌製で1960(昭和35)年に鋼体化されてます。
雨天なので表には出されず庫内で見ただけ。

ホジ3
1914(大正3)年日本車輌製の団臨用客車ホトク1を1932(昭和7)年に自社でガソリンカー化したもの。
当初は両端デッキで運転席はデッキ内側にあり運転士の前を乗客が出入りするという破天荒な構造だったようです。
戦後中央扉化して両端デッキ部を埋めて運転台化しディーゼルエンジンに換装。
運転士の視界を良くする為左右非対称の独特な顔つきになりました。

妻面の窓は向かって左の窓はオリジナルのサイズと見られます。
中央に通路があって右にも同じサイズの窓があったところが埋められて大小の窓に変わったのでしょう。

ホジ3の運転席は別室とはなってませんが囲いを乗り越えないと客室側から出入りでない構造。
目立ちませんが足元にはアクセルペダルとクラッチ、その左にシフトレバー、左端にはエアブレーキも装備しています。
引き通し管はないので自車にしか制動できません。
鉄道車両でアクセルペダルと言うと都電のPCCカー5500形が連想されますね。
因みに逆転機は運転席にレバーが無く車外で床下に潜り込まねば操作できません。

ホジ3車内。軽便ファンにはあまりに有名なこの縁台のようなエンジンカバー。
マイクロバスも前の方の席はエンジンの上を乗り越えて行かねばなりませんがあのイメージか。
エンジンはいすゞDA-45とのこと。トラック用のエンジンですが静岡鉄道駿遠線の気動車にも使われてたようです。
駿遠線では車輪径の大きい気動車用台車を使ってるので床も高くこんな出っ張りはないです。

見れば見るほど不思議なご面相。左下には警笛のホーンが見えてます。
前後で警笛の音色が違いこちらの浦川原方は漁船かトラックのような音色。
新黒井方は通常のタイホーンの音色でした。
投稿日:2017-07-27 Thu
9時から15時まで30分おきに運転というフリークエントダイヤ。雨が降ったり止んだりなので雨漏りがするというホジ3は天候を見計らって運転。
雨が降ってきたらDC92+ト5+ハ6の編成に切り替え、豪雨なら運休というものでした。

車庫兼乗降場となる客車庫からDC92が列車を牽き出し。

混合列車は百間町駅構内を入換運転します。
当時の本線は後ろの道路辺りを走っていたようです。この道は頸城鉄道線跡をそのまま利用しているのでこの道を行けば新黒井駅までたどり着けます。距離は2駅分5.4km。

DC92
1954(昭和29)年11月協三工業製9tディーゼル機。
銘板を見るとDC9形2号機のようです。1952(昭和27)年森工業製のDB81(DB8形1号機)の続番としているようです。
この車も六甲山より帰還組。
蒸機1号機の足回り利用と言いますが実際には車軸くらいしか再利用してないそうです。
同型車がいそうでいないカマですが帯広営林局十勝上川森林鉄道D102~104(協三10t機)が頸城DC92をL型機にしたようなスタイルでした。

ト5
1914(大正3)年日本車輌製。
六甲山帰還組で木部のアオリ戸を美しく復元。
検査標記があるとやはり良いですね。

ハ6
1911(明治44)年新潟鉄工所製?(完全な特定はできないそうな)
同じ新潟県内の魚沼鉄道ロハ1。国有化で魚沼線となった後も引き継がれケハ390。
頸城入線は戦後1949(昭和24)年とのこと。戦時中の魚沼線休止中は工事局軌道で使ってたのでしょうか。
これだけ小さい車体で合造車というのがすごいですね。
因みに同僚のハ5は新潟県立自然科学館で保存されてますが時間と高校野球予選開催で混雑してたので見に行ってない~(^ ^;)
投稿日:2017-07-25 Tue
が頸城鉄道初訪問~。米坂線から羽越、信越線回りで黒井泊でした。初日はとても天気が良かったのですが2日目は曇り時々豪雨~(+ +)

黒井駅南口広場に立つ頸城鉄道新黒井駅跡の碑。
向かいは信越化学や新日鐵直江津製造所(旧・日本ステンレス)で色々なスイッチャーがいたのですが今はコンテナヤードにJR機牽引でコンテナが発着するだけ。

新黒井駅の駅舎があった辺りは駅南口広場になって何も残ってはいません。
加悦SL広場で保存されてる加悦鉄道加悦駅をやや野暮ったくしたような(失礼 )感じの駅舎でした。

新黒井駅を出てすぐ渡る川にはガーダー橋が架かってたらしいのですが現在は橋台を含め見当たりませんでした。
見たところ黒井周辺は元来湿地帯のようです。
信越本線の近隣の駅に「犀潟」、「潟町」、「土底浜」とあるように海岸砂丘とその裏手に湿地帯が拡がっていたのでしょう。

新黒井を出ると廃線跡は2車線道路に。
宿の部屋から撮影したものです。
奥の車が止まっている辺りから道路に合流し左下方面が浦川原方面。
この辺は工業団地化しており全く軽便の面影はありません。

工業地帯を抜け田園地帯を通り百間町へ。
旧頸城鉄道の本社屋と客車庫を中心にくびきのレールパークとなっています。
客車庫には当時の車両たちがまた戻って来ており、往時のように塒として使われています。

2号。
1911(明治44)年独Orenstein & Koppel Arthur Koppel製。
土工用に輸入され品川の埋め立て工事に使われたようです。
その後流山鉄道4号→頸城鉄道3号と転属したとか。
また頸城では2号機(先代)を売却したときに番号をもらって2号機(新)となっています。
頸城では1966(昭和41)年まで現役、その後1972(昭和47)年よりしばらくの間西武鉄道山口線で「謙信号」として走ったことも。

ニフ1
元は青梅鉄道か型客車。か型は1894(明治27)年平岡工場製6両、1897(明治30)年三田工場製2両、二等車からの改造車1両、自社製作車1両の10両があり、その内のどれかだそうです。
青梅鉄道の内ナローで開業したのは現在の青梅線立川~日向和田の区間で1908(明治41)年には早くも1067mmに改軌されています。改軌後は売却されたものの在庫状態でしばらく使われてなかった様子。
魚沼鉄道に入ったものの平行して上越線が開業したため使われず1920(大正8)年に頸城鉄道入りしハ4となっています。
その後は手ブレーキ取り付けやニセスチール化されたりして1958(昭和33)年には荷物車化されニフ1となりました。
廃車は1968(昭和43)年の部分廃止の時だそうで、その後は神戸の六甲山で保管されてました。
木部はボロボロだったので上回りは一部を除いてほとんど復元新製のようです。
投稿日:2017-07-23 Sun
米坂線は小国からは荒川の渓谷区間を進み越後金丸駅を過ぎたところでとんでもないものが目に入りました。
岩船ダムのダム湖となった荒川対岸に錆びた鉄塔が見えます。
高さは30m超というところか。見た感じからして高圧線の鉄塔などではありません。

上部にはワイヤーロープガイドのためのプーリーがしっかり付いてます。これは間違いなく索道の支柱ですね。
鉄塔の向きからしてこの索道の向かう先は越後金丸駅・・・と言うことで資料調査して見ました。
●日本窯業化学金丸鉱山索道
新潟県岩船郡関川村と山形県西置賜郡小国町の境にある荒川支流の上ノ沢。
ここに最近(2008(平成20)年頃?)まで陶磁器原料の長石を掘る金丸鉱山が有りました。
上ノ沢で鉱山開発が行われるようになった起源は1932(昭和7)年に行者がこの地で光沢を放つ石を発見し、地元のお寺に置いたことから始まります。
この石を鑑定したところタングステン鉱石であることが判明し、上ノ沢に採掘事業を行って採算の取れるタングステン、モリブデン鉱脈があると結論が出され鉱山開発が始まります。
この鉱山は石の有ったお寺の本尊に因んで観世音鉱山と名付けられ1936(昭和11)年から採掘がおこなわれますが1945(昭和20)年の太平洋戦争敗戦により休山となります。
戦後観世音鉱山付近に長石が多いことから1948(昭和23)年に日本窯業化学が上ノ沢鉱業所を開設、1949(昭和24)年11月には上ノ沢鉱業所~選鉱所(越後金丸駅に隣接)4,650mの貨物索道が開業。
索道の輸送能力は1日当たり約120tとのことです。
鉱山のあった上ノ沢には1966(昭和41)年10月時点で38世帯93人が暮らし、60人が他地区から鉱山へ通っていました。
当時は小中学校の分校まで置かれるほどで鉱山集落を形成してましたが長石需要が低下していくと在住者はいなくなり、通いの従業員で細々と採掘が続けられていたということです。
米坂線に9600形蒸機現役末期の写真で索道が写っているものがあるので索道は昭和40年代半ばまでは使われていたものと思われますが正確な使用停止時期は不明。
●長石の行先
索道終点選鉱所隣の越後金丸駅には日本窯業化学の専用線(国鉄側線と共用?)があり米坂線経由で名古屋方面へ出荷していたと言います。
名古屋地区での長石需要先と言うと瀬戸や多治見、土岐、瑞浪と言った陶磁器製造の盛んな地域、又は洋食器をつくっていた名古屋駅近くの工場向けだったのでしょうか。
参考文献:
関川村史(関川村)
新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について(上野 三義/著)
投稿日:2017-07-21 Fri
日本重化学工業小国事業所専用線の続き~。
3番線から米沢方を見た様子。
引上げ線は撤去済み、専用線部分にもレールはありませんが・・・。

駅構内と工場の間を流れる水路の開渠にコンクリート製の橋桁が残ってます。
手前の桁は車庫線や機回り線などにつながっていたようです。
もう1本奥にある橋桁は引上げ線から分岐し工場奥の方へ入って中で行き止まり式になっていた線路の跡。

その延長線上の工場看板のところも専用線跡。
工場が広いので側線の総延長キロの内殆んどは一般の目に触れない工場内に敷かれていました。

小国発車直後車内から撮影した転車台。米坂線貨物全盛時9600をここで回していたのでしょう。
9600時代の米坂線の画像、映像は結構撮影されていますが後ろにつながっている貨車を見るとごく一般的な雑多な貨車の混成でフェロアロイ輸送用に独特の私有貨車があったわけでも無かったようです。
因みにDL化後の貨物牽引機は東新潟区のDE10辺りと思われるのですが全く写真が見当たりませんね(^ ^;)
専用線、米坂線貨物は1985(昭和60)年頃まであったようです。
<専用線の機関車>
珍しく蒸気機関車の私有機から存在しており国鉄、私鉄中古のタンク機関車がいました。
米坂線本線よりも早く昭和30年代にはDLに置き換えられています。
1.蒸気機関車
●1
1898(明治31)年英Beyer Peacock製C型タンク機。
東武鉄道開業時に用意された記念すべき1号機ですが1939(昭和14)年に日本電興へ払い下げ。
2128号に置き換えられたのか1950(昭和25)年7月には廃車されてます。
●2128
1902(明治35)年官設鉄道神戸工場製の国産B6。
2120形2128号を1949(昭和24)年に払い下げられたもの。
1958(昭和33)年7月に廃車されています。(DB2301導入による置換え?)
●C353
1929(昭和4)年日立製作所笠戸工場製C型タンク機。
元・津軽鉄道C353で1953(昭和28)年に一旦日本曹達二本木工場へ譲渡されたものの同年中に日本電興小国へ再譲渡。
1962(昭和37)年に廃車されているのでDC2501と置き換えられたものと思われます。
2.ディーゼル機関車
●DC2301
23tDL。製造所など一切不明。
●DC2501→DC251?
1962(昭和37)年新潟鐵工所製の25tDL。
番号は機関車表ではDC2501、鉄道番外録1ではDC251となっています。(改番?)
この機関車も写真は見付けられてませんが参考までに新潟鉄工所が同年に製造した同じC型の25tDLの例を↓に上げます。
神奈川臨海鉄道塩浜(貨)にいたシムラ興業No.2
参考文献:
日本重化学工業株式会社Webサイト
運転関係線路図(日本国有鉄道新潟支社)
機関車表フル・コンプリート版(沖田 祐作/編 ネコ・パブリッシング)
鉄道番外録1(岩堀 春夫/著 ないねん出版)
投稿日:2017-07-19 Wed
●飯豊山中の化学工場専用線山形県西置賜郡小国町は飯豊山中の小盆地で新潟県と接しています。
小国駅は米沢~坂町を結ぶ米坂線の主要駅で山中の小盆地に突然大きな工場が現れるので意外な印象を受けます。
米坂線と言うと1972(昭和47)年3月の無煙化前は米沢、坂町区の9600形が活躍することで蒸機ファンに人気のある路線でしたがその貨物が出入りする工場に専用線がありました。
日本重化学工業小国事業所は電池、電子材料を製造していますがこれらの事業は事業所設置以来主力としていたフェロアロイ(合金鉄)技術が元になっています。
フェロアロイは鉄の不純物を除去して耐熱、耐食、抗張力性を高めるために製鉄過程で混ぜる副原料で、鉄にマンガンやクロム、シリコン、モリブデンなど別の金属を結合させてつくります。
1935(昭和10)年10月30日に米沢から延びてきた米坂東線の羽前沼沢~小国が開業した3年後の1938(昭和13)年に小国事業所の前身となる1938(昭和13)年に日本電興(株)が合金鉄生産開始。
会社名は改称や合併で日本電興→東芝電興→日本フェロアロイ→日本重化学工業と変遷しています。
専用線ではこのフェロアロイ生産のための原料入荷、製品出荷が行われていたようです。
作業方法:私有機
作業キロ:私有機0.6km
総延長キロ:1.7km
※作業キロ、総延長キロは専用線一覧1984(昭和59)年版の数値

かなり大きな小国駅舎。
2階の窓が板で塞がれて見た目がちょっと味気無くなっていますが主要駅らしい構えです。
列車本数は少ないですが有人駅でみどりの窓口もあります。

坂町方から見た構内。
1番線(下り本線)に停車中の列車は米沢から乗った発坂町行1131Dキハ112-201+キハ111-202。
小国で30分近く停車するのでその間に専用線跡観察~。
今いる2番(上り本線)、3番線(上り1番線)が発着線として現役。

跨線橋上から坂町方を見た様子。
下り1番線は保線車にレールを積み込むため使うのか残っています。
かつてはその左にも下り2番線が存在しましたがこちらは撤去済み。

上り1番線から坂町方を見た様子。
上り1番線は下り方面(坂町方)へも出発可能。
右の上り2番線の上り1番線との坂町方接続部が撤去されて転車台と滞泊庫に入るだけの線路になってます

1番線から米沢方を見た様子。
2、3番線の出発信号機2本の間に見えるタンク(分岐器融雪用の燃料タンクでしょうね)の辺りに引上げ線が延びており、専用線はそこからスイッチバックして工場に入ってました。
投稿日:2017-07-19 Wed
加佐登駅の専用線と貨物扱い跡の続き。
1番線の名古屋方に切れ込みが入るような形で貨物側線がありました。
ここに1台日通のスイッチャーが常駐していたようです。
一般貨物側線兼スイッチャー留置線ということ?

貨物側線と貨物ホーム跡を1番線末端から見た様子。
貨物ホーム上の上屋は無くなり自転車置き場に転用されています。
<加佐登のスイッチャー>
加佐登にはNo.1、2、4と番号の入ったスイッチャーがいたようです。
こう来ると「No.3は?」となりますがいたのかどうか不明。
●NO.1
No.1は製造年不明(見た目からすると昭和20年代後半?)の加藤10t機。
黄色の日通塗装で側面扉の窓がHゴム化されている以外は名鉄DB-2と同タイプだったようです。
補足:
鈴鹿市と言えば同じ市内に第二海軍航空廠鈴鹿支廠、三菱重工業三重工場専用線 →呉羽紡績鈴鹿工場専用線があり1951(昭和26)年の呉羽紡績専用線として再開業時に日通の加藤10t機(近鉄DB101)が使われていました。
近鉄専用線廃止時に加佐登へスイッチャーを転用したものかも知れません。
●No.2
加藤製作所製10t機で基本的には国鉄貨車移動機(名鉄DB-5のタイプ)と似ているが前面窓が4枚でなく3枚で両側が斜めに垂れ下がったユーモラスな顔つきをしていた。
元は四日市の大協石油(現・コスモ石油)専用線で使われていたものが転属してきたもの。
●No.4
1961(昭和36)年製日立25tCロッド機だが製番が他の機関車と被っていたりして素性不明。
マフラーが防爆仕様になっていたらしくあるいはこちらもNo.2と同じ大協石油専用線から転入したものかも知れません。
No.4も日通四日市支店時代の通し番号だった可能性が高そうです。
投稿日:2017-07-12 Wed
鈴鹿の市街地とは鈴鹿川を挟んで離れたところを通る関西本線。市街地の中にある近鉄鈴鹿線平田町駅から関西本線加佐登駅までは歩いてもそう遠くはないのですが雰囲気は全く違いローカル駅の雰囲気が漂います。
駅の横には日本コンクリート工業鈴鹿工場があり広大な敷地でコンクリート電柱が生産されています。
同工場は1956(昭和31)年設立とのことで専用線一覧でも1957(昭和32)年版から記載があります。
作業方法:日通機
作業キロ:0.2km
総延長キロ:0.3km
コンクリート電柱輸送にはトキ25000形無蓋貨車が使われていたようです。
また加佐登駅は鈴鹿市内各工場の貨物を集約する役割もありました。
発送貨物では鈴鹿川を挟んだ本田技研からオートバイの出荷がありバイク積載用に改造したワキ5000形や改良型のワキ7000形有蓋貨車も加佐登駅を常備駅にしていました。
到着貨物ではコンクリート電柱のセメントがあったようで近所の三岐鉄道東藤原から貨車が来ていたようです。
また飼料サイロもあり、名古屋臨海鉄道知多から穀物ホッパ車ホキ2200形が到着していました。

加佐登駅。10年ほど前に来たときは有人駅で駅前からは近鉄平田町駅行きの三重交通バスが出ていましたが今では無人駅、バスもコミュニティの巡回バスになっていました。

専用線分岐があった方向。亀山方から分岐して櫛型に積込線が分かれていました。
側線は減ったものの今でも敷地の拡がりに面影があります。

同じ場所で振り返って名古屋、四日市方。
積込線やサイロが並んでいた辺りは住宅地化されて面影なし。

駅裏手(南側)から見た様子。
駅から芥川を挟んで南が日本コンクリート工業の工場。
参考文献:
日本コンクリート工業webサイト
投稿日:2017-07-10 Mon
電柱と言えば通常円筒形ですが稀に四角い電柱があります。なお函館にある1923(大正12)年建植の日本最古のコンクリート電柱も四角です。

三岐鉄道の西藤原駅から北上、国道306号線が三重、滋賀県境を越える鞍掛峠の麓にある白石工業桑名工場の跡。
鉱業所の跡が廃墟ファンには有名でしたが鉱業所の建物は撤去されました。
その後も周辺の道路沿いにかつての鉱業所へ送電していた四角い電柱が残ります。

下の方には安全第一の文字も残る。

工場跡だけでなく電源供給元だった岐阜県上石津町(現在は大垣市)の時水力発電所跡付近にも四角い電柱が見られました。
なおこの鉱山では炭酸カルシウムを採掘しており鉱石はトラックで西藤原駅のホッパーまで運び貨車積みしていたようです。
もう一つは名鉄の四角い架線柱。
岐阜地区の路線を開業した美濃電気軌道やその系列会社が四角い架線柱を使っていたようです。
かつては美濃町線赤土坂付近や竹鼻線西笠松駅構内でも見られました。
また旧・長良軽便鉄道の高富線にもあったようです。

名鉄美濃町線赤土坂駅の四角い架線柱。

美濃町線廃線後、赤土坂~新田の線路敷上に横たえられた四角い架線柱。
2007(平成19)年8月撮影

右上に積み上げられた電柱からは鉄筋が見えてますがレールが使われていました。
なお交換されていなければ現在も名鉄岐阜駅すぐ東の各務原線上に四角い架線柱が見られるはずです。
投稿日:2017-07-08 Sat
小坂森林鉄道濁川線上部軌道の続き。
崩れかけの砂防堰堤前を横切る濁河線のレール。木橋は完全に崩壊しています。
この堰堤建設時の資材輸送も濁河線で行ったはず。

カーブ木橋は残念ながら中央部が崩壊していました。
木橋袂の小さな沢へ降りるときには頭上に2本のレールと護輪軌条が弧を描いて不思議な光景になっています。

同じカーブ木橋を対岸の小高い位置から見下ろすとこんな風。

笹薮の中をカーブして延びる線路。少し前方から護輪軌条も始まっています。

ちょっと開けた明るい場所に出たところ。
刈り払いをしたら現役鉄路の雰囲気になりそうです。
●濁河線の車両
濁河線は1939(昭和14)年9月に起工し1941(昭和16)年12月竣工。
正に太平洋戦争が始まる頃に開業した路線です。
小坂森林鉄道の他路線とは索道を介してしか接続しておらず、1970(昭和45)年度まで運材を行っていたものの事業は営林署直営ではなく小坂官材共同組合が行っていました。
そんな特殊な路線だったせいか軌道が残ることになったようです。
末期に使われていた機関車は協三4.8t機No.24、酒井5t機(番号不明)の2台ですがNo.24は調子が悪くてあまり運転されてなかったと言う話も。

NO.24と同タイプの協三4.8t機 写真は中泊町博物館で保存の津軽森林鉄道金木営林署機
酒井機はNo.15かNo.18と思われますが鮮明な写真が無く不明。
角張った平屋根(小田急砂利新磯軌道A1と似たタイプ)で前照灯は中央ではなく片側に寄って設置されていたようです。
ボギー運材貨車はモノコックや在来型、木製単台車の豆トロリーもいたようです。
貨車は1968(昭和43)年時点では計42台が在籍していました。
モーターカーもいたようですがこちらは全く不明。
列車の運行は空車を機関車で牽き上げ、孕車(積車)は2台1組の1車ずつ木材を積んでブレーキ手がブレーキ操作だけで下る乗り下げを行っていました。
投稿日:2017-07-06 Thu
現在もレールが残る小坂森林鉄道濁河線上部軌道。地元をよく知る強力な御二方に一部区間をご案内いただいた時の写真です。

巨大方杖橋の橋脚。橋桁は既にありませんがこれまで見てきた方杖橋と比べても桁違いの大きさ。
しかもレールは未だに川を越えてます。
橋桁自体よりレールが残るというNゲージのような状態。

岩崎レール商会のダルマ転轍機。
集材側線の跡なのかな?

電信線も点々と。
「小営電濁河分岐線 142」の文字が鮮明に残ります。
「濁」が略字体で書かれているのが特徴的。
「小営電」は「小坂営林署電話線」の意味と思われます。

1944(昭和19)年の帝室林野局名古屋支局小坂出張所の電話線位置図。この地図は左が北方向になってます。
黒線が鉄道関係の電話線で、訪ねた区間は左下の濁河軌道終点積木場~濁河第二伐木事業所の間となります。
森林鉄道の運行管理は電話連絡が基本で少なくとも小坂には一般の鉄道のようなタブレット閉塞機は有りませんでした。
お隣の王滝森林鉄道ではタブレット(のようなもの)を使ってましたが閉塞機までは使用してなかったようです。

既にレールが土石に押しのけられつつありますが線路上を先へ進むことに。
投稿日:2017-07-04 Tue
戦時中に宮代砂利が砂利を採取、終戦前後で採取許可が期限切れになって戦後は進駐軍が厚木基地の改修用の砂利を直営で掘ったり撚糸工場ができたりしてましたが1949(昭和24)年2月28日に相模興業が進出。「相模興業50年史(相模興業)」には1950(昭和25)年10月31日に専用線積込み設備建設とあります。
専用線一覧1951(昭和26)年版では以下のようにあります。
契約相手方:相模興業株式会社、大蔵省
第三者使用:小田急電鉄株式会社
作業方法:国鉄機
作業キロ:0.5km
1953(昭和28)年版以降は契約相手方から大蔵省が外れますが記事欄に「大蔵省線」、「大蔵省所管」の記載があります。
旧軍、進駐軍関連の専用線は大蔵省管理になっていることが多いです。
この専用線も厚木基地の砂利を掘っていたことと関連して大蔵省の名前が残っていたものと思われます。

厚木駅茅ヶ崎方の踏切に残る分岐跡。
専用線の跡なのか安全側線跡なのかは不明。
厚木駅はその歴史からか奇妙な線路配置になっています。
元々相対式2面2線だった旅客ホームは1面1線に変わり列車交換ができないのですが、橋本寄りの旧貨物駅部分で列車交換できるようになっています。

踏切から反対を見ると葬儀屋さんが専用線跡。右に見えるマンションも専用線跡のカーブに沿って建てられたため弧を描いています。

マンション右の葬儀屋さん駐車場がカーブした専用線敷地をそのまま利用。
専用線は中新田市街道交差点を横断して相模興業本社工場へ入っていました。
今回は工事中でゴチャゴチャしてたので2009(平成21)年3月撮影の画像を載せます。

人の森(元・相模興業)本社。現在は背後に橋脚が見えている圏央道が完成、開通しています。
相模興業50年史ではこの専用線に入線しているホキの車列が写ってました。
車番まで見えませんでしたが東鉄局の「東」マークが入った北海道石炭車タイプでした。ホキ400形辺りかな?
当専用線発の貨車の着駅は相模興業の大型ホッパーがあった飯田町や小田急の東北沢と思われます。
専用線は1970(昭和45)年10月1日廃止とのことですが相模川の砂利採取は1964(昭和39)年4月1日に全面禁止となっているので廃止日より前に貨車の発着は無くなっていたものと思われます。
なお厚木の専用線廃止と同じ日に飯田町のホッパービンも廃止になったそうです。
投稿日:2017-07-02 Sun
厚木駅(操車場)構内から分岐していた専用線の一つ。レミコンとは小野田セメント→太平洋セメントの商標でready mixed concreteの略称。
要するに生コンクリートの事で粉状のポルトランドセメントに骨材となる砂利や水、混和剤を混ぜて建設現場で打設できる状態にしたものです。
工場は1964(昭和39)年3月に小野田レミコン販売協同組合厚木工場操業開始。
後に社名は厚木小野田レミコン→厚木レミコンと変わっているようですが専用線名義は親会社の小野田セメントだったようです。
貨物は鶴見線扇町駅先の三井埠頭で船から陸揚げされたセメントを貨車積みし当時存在した保土ヶ谷~西横浜の国鉄・相模鉄道連絡線経由で相鉄本線に入れ厚木まで運んでいたため当初は専用線一覧でも相模鉄道の欄に掲載。
<1964(昭和39)~1970(昭和45)年版※1975(昭和50)年版は未確認>
作業方法:社機
作業キロ:0.8km
横須賀線を東海道本線と別線化するため保土ヶ谷~相鉄西横浜の連絡線使用が1979(昭和54)年10月1日に停止されると運転ルートが茅ヶ崎相模線経由に変わり専用線一覧でも相模線の欄に掲載されるように変わります。
但し厚木での構内入換は1986(昭和61)年の廃止まで相模鉄道機が行っていたそうです。
<1984(昭和59)年版>
作業方法:相模鉄道機
作業キロ:-
総延長キロ:0.8km
専用線は電化されており工場まで相鉄ED10が乗り入れてたようですが工場内の入換用に1971(昭和46)年日本車輌製15t機OD151がいました。黄色い標準的な日車15t機でした。
専用線廃止後も2003(平成15)年頃工場内に留置されていたのを見ましたが駅から遠かったので撮りに行かず。
2008(平成20)年8月に厚木に引っ越した時にはもういませんでした(- -)
工場自体も2012(平成24)年頃に閉鎖され跡地は宅地化で何も残っていませんが厚木駅寄り部分にはまだ痕跡がありました。

厚木駅(操車場)北端の踏切。この部分から専用線が延びていました。

今度は反対に工場側を見るとロードミラー左側に専用線の古ぼけたコンクリート架線柱が残っています。

相模鉄道の旧社章と専用線の架線柱である証に「小の田」の文字。

相鉄かしわ台工場で保存されてるトフ400にもこの旧社章が入っています。

厚木レミコン工場がまだあった2009(平成21)年9月の画像。
工場構内に線路車止めが残存しているのが県道40号線の踏切から見えていました。
参考文献:
追憶・西関東の鉄道貨物輸送~鉄道貨物研究家・渡辺一策氏のフィールドノートから~(渡辺 一策、澤内 一晃 執筆、物流博物館)
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