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にしみやうしろ

Author:にしみやうしろ
小田急沿線で生まれ、金沢で北陸鉄道にはまり、愛知では名鉄に臨海鉄道さらに森林鉄道、今ではすっかり私鉄・貨物ファンに・・・。
鉄道に由来していろんなものに興味を持つようになってしまいました。

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座間の砂利軌道~その7(相模興業専用道路転用区間~四ツ谷、新田宿採取所)~

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再び住宅地の舗装道路になります。
複線が敷かれてただけあってか不自然に広い道路となっています。

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道路が未舗装になるとく並走してきた四ツ谷軌道と、新田宿軌道の分岐点、四ツ谷軌道は直進してから左方向へ、新田宿軌道は右へ直角に曲がって相模川の旧堤防に沿って上流へ向かっていました。
正面の軽トラがいる場所が旧堤防。画像では高低差がごとんど見られず実感がありませんね~現地で見てもかなりこじんまりとした堤防です。

DSC_0306_20170622220433f99.jpg
四ツ谷軌道は旧堤を越えて直進する路線が描かれていたり左へカーブして下流へ向かう線路が描かれて居たりします。
砂利採取の作業場所が移動することで線路も敷き直されていたものと思われます。

DSC_0307_20170622220434ea2.jpg
新田宿軌道の跡。旧堤上に線路を敷きそうなものですが地形図を見ると線路は堤防に沿って敷かれており、この画像では左側に線路があったようですが実際のところは不明。

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旧堤防はここまででこの先は新田宿の採取所まで特に何の変哲もない2車線道路(交通量があり幅も狭いので危ない- -;)と河原があるだけ。

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採取所そばのグランドの名前「新田宿グランド」に名残があるくらいでしょうか。

IMG_4262.jpg
砂利採取所で活躍していた採取船の模型~。
この模型画像はリンク先の奥野君の専用線日記の奥野さんの作品を撮影させて貰ったものです。
相模川では砂利採取最盛期の1956(昭和31)年時点でこのような採取船が29隻いたそうです。
河床の砂利を掘ってはナベトロやダンプカーへ積み込んでいました。
木造の平底船に櫓を載せて河床の砂利を掘っては運び上げるコンベアを設置しています。

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ナローゲージ | 22:53:12 | Trackback(0) | Comments(0)
座間の砂利軌道~その6(県道交差~相模興業専用道路転用区間)~
軌道と交差する一番大きな道路、神奈川県道51号線。
踏切警手が配置され、列車が接近すると県道を遮断していました。
戦後の占領下の時代、河原へ向け推進運転中のナベトロ列車と進駐軍のジープが衝突してジープが田んぼに跳ね飛ばされる事故もあったとか。
入谷駅の積卸桟橋が行き止まり式で機回しできないため駅行きは牽引、河原行きは推進運転だったようですね。
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県道の先は普通の路地のように見えますが左のあまり目立たない位置に相模興業専用道路のため通行禁止の看板が立っています。

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1964(昭和39)年4月1日に相模川の砂利採取が全面禁止となった後は田畑の地下に溜まった砂利を採取してダンプカーで運んでいた名残だとか。
この看板に書かれた3社に織戸組を加えた座間資源管理組合という砂利組合が結成されてましたが田畑での砂利採取も終わり、1988(昭和63)年3月には組合も解散しています。
相模興業は人の森株式会社と名前を変えて山砂利採取を続けいていますが、武相砂利は既にありません。
最も老舗の宮代砂利は情報が無く現状不明。専用道路として使われたのも30年前までのことですがこの看板は現在も有効??

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専用道路となった軌道跡を県道と反対側から見た様子。
この辺で入谷駅からの四ツ谷軌道、新田宿軌道共用の3線区間はこの辺まで。
分岐してしばらくは2本の軌道が並走していました。
道路の左側が小田急の新田宿軌道(762㎜軌間)、右が相鉄の四ツ谷軌道(610㎜軌間)でした。
こちらから見ると特に立入禁止の看板も何もなく道路標識も公道にしか見えません。
この通りに面した飲み屋さえあります(^ ^;)

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相模川方面を見た様子。バリケードがあって入りにくくはしているものの特に立入禁止措置は取られていません。
地元の人も普通の道路として使っており曖昧な感じ。

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さらに先へ行くと車は入れないように柵で囲われた廃線敷となります。大山をバックになかなかアヤシゲな雰囲気。
8年前は相模興業の専用道を示す看板があったような記憶がありますが今は枠だけになってます。


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ナローゲージ | 21:15:20 | Trackback(0) | Comments(0)
座間の砂利軌道~その5(四ツ谷・新田宿軌道共用区間~県道交差)~
四ツ谷軌道が相模線交差部まで来たことでいったん入谷駅開業後に同駅へ乗り入れた四ツ谷軌道の新線の方へ移ります。
四ツ谷軌道と共に小田急砂利の新田宿軌道も3線軌条で線路を共用していたので2路線の廃線跡が重なります。

なお地図で入谷駅付近を拡大してもらうと相模線の貨車への積卸桟橋は四ツ谷軌道と新田宿軌道で別々になっているのがわかります。

DSC_0313_2017061820224697a.jpg
今では1面1線だけの入谷駅。かつては右の雑草雑木で覆われたスペースに側線と軌道桟橋がありました。
奥が茅ヶ崎方で左に見える送電線の紅白の鉄塔と奥の鉄塔の間で旧軌道が交差していました。
桟橋は旅客ホームの茅ヶ崎寄りにあり、左から四ツ谷軌道、新田宿軌道の桟橋が各1線入りその両側を囲むように相模線入谷駅構内側線が入る配線だったそうです。軌間で言うと1067㎜の本線1&側線4、610㎜1本、762㎜1本と3つの軌間が並ぶ駅でした。
現在の桑名駅をれんそうしてしまいました。(桑名にも当時砂利の積替桟橋と側線が有った)

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入谷駅の橋本方。敷地の拡がりから側線の分岐があったことがわかりますね。

入谷駅構内側線は専用線一覧表にも以下のように載っており、相模鉄道の専用線扱いだったようです。
専用者:相模鉄道(株)
第三者使用:小田急砂利(株)、相模興業(株)
作業方法:国鉄機
作業キロ:0.2km

なお終戦時に陸軍士官学校を接収した進駐軍は同地にキャンプ座間を置いています。
キャンプ座間の最寄駅は隣の相武台下駅ですがこちらだけでは物資、兵員輸送列車を収容しきれないためバッファとして入谷駅にも進駐軍用側線が増設されていたそうです。

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入谷駅を出て相模線と少し並走すれば間もなく新旧分岐点。
相模線横の砂利道が軌道跡で奥が入谷駅です。
猫が座っている場所でほぼ直角にカーブして既存の区間に入ります。
ここから右を向くと相模線の踏切越しに前回の田園の中の軌道敷が見えます。

DSC_0289_2017061820224301d.jpg
610㎜、762㎜の3線が並んでいた区間ですが今では何の変哲もない住宅街の道路。
緩やかなカーブが線路らしい線形と言うくらい。

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神奈川県道51号線との交差手前からわずかながら軌道の幅そのままらしい敷地が見られます。
そしてガードレールの向こうには・・・。

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上半分が埋められて分かりにくいですが軌道の開渠跡の橋台が残ってます。

DSC_0294_20170618212303e08.jpg
その隣には9kgレールが2本。

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ナローゲージ | 21:27:06 | Trackback(0) | Comments(0)
座間の砂利軌道~その4(四ツ谷軌道インクラ~相模線交差)~
四ツ谷軌道インクライン区間。

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この切通しの上を左上(座間駅方)から右下(相模川方)へインクラ木橋が架かっていたそうですが痕跡無し。
座間駅から徒歩数分でこんな鬱蒼とした森があるのが面白いところ。
森のインクラなど山奥の森林鉄道にありそうな光景ですがここは小田急の電車の音や座間高校のグランドで部活動をしている学生の声などが響いて森閑とはしていません。

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切通しの坂を上に戻ってインクラと平行に緩やかに下る道へ入るとレールが一本だけ柵に利用されています。

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切断面が変形していますが6kgレールよりも小さい様子。
酷使と長年の放置で肉痩せしたのか規格外の貴重な舶来品レールなのか・・・。

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道路の右辺りにインクラ下の停車場があったようです。この道路を軌道が横断する個所には手旗を持った踏切番が配置されていたとか。
インクラを降ろしたナベトロを再度12両ほどの編成に組み下部軌道のガソリン機関車に牽かれた列車は画面右奥の停車場から急カーブで道を渡り左の座間高校の中を横切っていました。
当時もちろん高校はなく、高校のグランドの場所にあった桜田の沼の真ん中を横切っていたとのこと。
桜田の沼を築堤で横切っていた軌道が徐々に沈下してレールが水面下に沈んでしまい軌道を盛り上げては沈下を繰り返していたようです。

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座間高校のグランドを抜けると廃線後80年以上経てなお残る路盤が田園地帯を抜けています。
610㎜の軽便軌道にしては妙に幅が広いですね。
背後の緑はインクラで下った河岸段丘の崖。座間高校は校舎建て替えのためグランドにプレハブ校舎が並んでおりインクラ下までは見通せません。

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軌道跡を座間高校側から見た様子。
四ツ谷軌道は踏切の辺りで相模線の下をくぐっていましたがアンダーパスの跡は残ってません。
丁度入谷駅を発車した茅ヶ崎行の205系1000番台500番台車が通過。
背後は丹沢の山々。左のとがった山は大山(標高1,252m)です。

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ナローゲージ | 23:01:59 | Trackback(0) | Comments(0)
座間の砂利軌道~その3(四ツ谷軌道上部軌道)~
座間市内の砂利軌道路線図。2万5千分の1地形図 座間(昭和29年修正測量)を元に描いています。
上部軌道のルートは1941(昭和16)年の航空写真に見える廃線敷らしいルートと「座間むかしむかし 第28集(座間市教育委員会)」の記事「ナベトロ線のこと(佐藤 章/著)」を参考にしています。


まずは昭和砂利興業→相模鉄道砂利部の運行していた軌道です。
610㎜軌間でガソリン機関車がナベトロを牽引していました。
1933(昭和8)年の開業時から1937(昭和12)年頃に相模鉄道(現・JR相模線)入谷駅接続に変わるまでの積替え駅は小田原急行鉄道新座間駅・・・現在の小田急小田原線座間駅でした。

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現在の座間駅下りホーム。上りホーム横まで大木が延び風に揺れる葉擦れの音が爽やかです。
この木立と駐車場の有るスペースに四ツ谷軌道の木造桟橋が入っていたようです。
桟橋の横には小田急の側線が引き込まれ無蓋貨車にナベトロから砂利を落としていたのでしょう。
なお新田宿からの小田急砂利トラック輸送は東口(画像左手)に発着していたらしくこちらにも側線があったのでしょうね。

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側線と桟橋軌道の跡は駐車場や駐輪場になっています。
この土地は小田急の本線に合わせて周囲より高く平坦に造成されており元々側線が敷かれていたことを窺わせます。
なおこの平地は新宿方ではぷっつりと途切れていることから側線は小田原方から分岐していたものと思われます。

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座間駅西口。奥が積み替え桟橋の跡。
ここを桟橋軌道へ上り下りする土工用機関車牽引のナベトロ列車が通っていたはずですが今となっては信じがたいような光景。
戦前の短期間走っただけの上部軌道の跡は都市化、宅地化ですっかり消え失せて何も名残りはありません。
上部軌道は駅前のスクランブル交差点(道幅はごく狭いのですが)の場所を斜めに突っ切りS字カーブを描いてインクラへ達していたとか。
なお当時の周囲は殆んど畑ばかりだった様子。

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上部軌道はごく短距離の300mほどでインクラ上部にたどり着きます。
上部軌道の機関車はここで切り離し、ナベトロを4、5台ずつに分けてインクラ巻上げ機につなげインクラ下へ降ろしていました。
今ではごく一般的な住宅街と河岸段丘の緑地の境に過ぎません。

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1つ前の写真の位置から振り返った様子。ここからインクラインは前方へ向け崖に桟橋を掛け座間高校の横へ降りて行ってたようです。桟橋だったためか崖にインクラの路盤は見当たりません。
機械油が染みた巻き上げ機の据え付け跡が結構後まで残っていたらしいのですが・・・。

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ナローゲージ | 22:51:31 | Trackback(0) | Comments(0)
座間の砂利軌道~その2~
座間の砂利軌道や国鉄、私鉄、側線の変遷を簡略図にして見ました。
駅名、路線の変遷が激しく土地勘のある人間でもややこしくて描き始めてから若干ウンザリしたほどです(自爆)

1934(昭和9)年頃
ebina-map1934.png
1933(昭和8)年に昭和砂利の四ツ谷軌道(赤)、1934(昭和9)年に小田急砂利の新磯、新田宿軌道(オレンジ)が開設されています。
相模厚木から相模、中津、小鮎川合流点へも軌道がありますがこちらは業者などは一切不明。
ホイットコムMO型らしい機関車の写真を見たことがあるので昭和一桁開設の路線と思われます。
現在の海老名駅の位置には何もなく厚木駅周辺がターミナル駅の役割を果たしています。
それも小田急の駅は地名の河原口、相模鉄道と神中鉄道の駅は相模川対岸の町名です。
神中は小田急との接続を重視して河原口駅により近いところに厚木中新田口乗降場(現在のJR相模線厚木駅旅客ホームの辺り)を置いています。何ともややこしい話です。
因みにこの図の中で現在までに駅名も位置も一切変わらずに続いてる駅は1つもありません。何て恐ろしい・・・(^ ^;)

1938(昭和13)年頃
ebina-map1938.png
1937(昭和12)年に座間へ陸軍士官学校が移転して来ます。
新磯軌道は士官学校の構内を横切ることになってしまいます。
また新磯、新田宿や四ツ谷軌道とも小田急の駅までが遠く、コストの問題もあってより近くの相模鉄道へ接続するように変更されます。新磯軌道は1942(昭和17)~1943(昭和18)年頃まで士官学校敷地内を切通しで抜けて相武台前まで運行されてたとも言われよく分かりません。
また四ツ谷軌道を使用していた昭和砂利は会社自体も相模鉄道の傘下に入ったようです。
四ツ谷軌道(軌間610㎜)と新田宿軌道(軌間762㎜)は入谷貨物駅に乗り入れますが途中で軌間の違う線路同士が合流し共用区間は3線軌道になっていました。
(座間新戸→)陸士前駅からは相模鉄道新戸採取所と思われる辺りまでは構外側線も敷かれました。
また(新座間→)座間遊園駅は小田急が向ケ丘遊園に続く2つ目の遊園地建設を目論んで駅名を変えていますが遊園地建設は実現しませんでした。

1942(昭和17)年頃
ebina-map1942.png
砂利軌道の見た目に変化はありませんが相模鉄道の倉見や入谷(四ツ谷)、新戸の砂利採取業務の下請け会社として1940(昭和15)年7月1日に相模興業が設立され、相模鉄道から砂利採取船やガソリン機関車、ナベトロなどの施設を貸与され砂利採取業務を行うようになります。
また小田急、相模、神中の各鉄道の連絡が激変。
貨物では小田急と相模鉄道の間に短絡線が敷かれ小田急砂利の貨物が中新田から短絡線経由で東北沢へ送れるようになりました。
この短絡線ができる前は小田急砂利の貨物がどういうルートで輸送されていたのか気になるところですがよく分かっていません。
旅客では1941(昭和16)年11月25日に小田急、神中が接続駅を新設の海老名駅に移します。
神中のガソリンカー(実際は代燃車か?)が小田急線上を海老名~相模厚木で乗入れも行いました。
神中の相模国分~厚木は貨物専用線となり、不要となった接続駅も整理されて廃止、または貨物駅化されます。

1950(昭和25)年頃
ebina-map1950.png
砂利軌道の見た目に変化はありませんが業務請負により戦時中に相模川左岸の各砂利軌道が相模興業により運行されるようになりました。
砂利の需要先としては敗戦により大口顧客の帝国陸海軍が消えた代わりに進駐軍からの注文や復興需要が入るようになります。
なお戦中から戦後にかけ私鉄各線、砂利軌道の経営主も戦時統合で激変していました。
以下年表でまとめます。

1942(昭和17)年5月1日 東京横浜電鉄、小田急電鉄、京浜電気鉄道合併、東京急行電鉄(東急)となる
1943(昭和18)年4月1日 相模鉄道が神中鉄道を吸収合併
1943(昭和18)年12月1日 相模興業、東急より元小田急の新磯、新田宿での砂利採取請負
1944(昭和19)年6月1日 相模鉄道相模線国有化
1945(昭和20)年6月1日 相模鉄道、東急へ経営委託
1947(昭和22)年5月1日 相模鉄道、東急への経営委託解消、自主経営に戻る
1948(昭和23)年6月1日 小田急、東急から分離独立

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ナローゲージ | 21:44:01 | Trackback(0) | Comments(0)
座間の砂利軌道~その1~
本厚木に住んでいた頃調査してましたがそのままとなっていた相模川の砂利軌道。
相模鉄道(現・JR相模線、母体となった相模線は国有化されましたが企業自体は合併した旧・神中鉄道線の相鉄本線やいずみの線を営業して続いてます)、小田急が持っていたナロー軌道と言うことで数回に分けてアップします。

①相模鉄道の砂利輸送
相模川では地元の住民による手篩による砂利採取が細々とおこなわれていましたが1923(大正12)年9月1日の関東大震災後コンクリート建築の普及が一気に進み、骨材としての砂利需要が高まりました。
当時茅ヶ崎から相模川に沿い橋本へ線路を延ばしていた相模鉄道(現在のJR相模線)は砂利輸送に力を入れ、1930年代の世界恐慌下に中小砂利採取業者が経営不振に陥っていた時でも自社に砂利部を作って直営砂利生産事業を行っていました。
相模鉄道砂利部は相模川の倉見(倉見駅付近)、入谷(入谷駅付近1935(昭和10)年6月23日貨物駅として開業)、新戸(相武台下駅付近)に砂利採取所を開設し茅ヶ崎から省線経由で汐留駅の自社砂利専用側線まで首都圏への貨車輸送、販売を行いました。
IMG_1506.jpg
旧・相模鉄道入谷採取所があったと思われる付近の相模川。
昭和30年代に相模川の川砂利採取が規制、禁止されるまでこの川砂利を土木工事やコンクリート骨材に利用していた。


倉見にはナベトロ軌道(軌間610㎜?)が設けられガソリン機関車が倉見駅構内まで砂利を輸送して桟橋上から相模鉄道の無蓋貨車に砂利を落として積替えていました。
IMG_0775.jpg
ナベトロ軌道が接続していた倉見駅。
相模鉄道が1926(大正15)年の開業時にお得意のコンクリートで作った駅舎が健在。
アーチ型デザインの入口が可愛らしい印象に仕上がっている。2駅橋本寄りの社家駅も同デザイン。
写真は後方に圏央道の高架ができる前の撮影。


②小田急の砂利輸送
小田原急行電気鉄道・・・現在の小田急小田原線新宿~小田原全線が1927(昭和2)年4月に複線電化で一気に開通します。
訂正:新宿~稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)は単線で開業、小田原までの全線複線化は同年10月。
非電化で蒸機、ガソリンカーが走るローカル私鉄に過ぎない相模鉄道と違い首都圏と直結する高速電気鉄道として建設されましたが、運悪く開業が昭和金融恐慌の時期に当たってしまい、沿線への住宅開発による乗客増加を目論んでいたのが外れてしまいました。
旅客営業が低迷する一方で1929(昭和4)年11月14日より始まった貨物列車による砂利輸送は想定以上の伸びを見せます。
小田急も部内に砂利課を置き1934(昭和9)年に相模川の新磯、新田宿に砂利採取所を開設します。
新磯鉱区は面積991,700㎡、砂利採取船3隻、ガソリン機関車6台(4t機4台、10t機2台)、900㎥のホッパーを設備し新磯~座間駅(現・相武台前駅)には4㎞以上のナベトロ軌道(軌間762㎜)が敷かれガソリン機関車がナベトロを牽引しました。
相武台前駅の新宿方ではナベトロ線の木橋が小田急線をオーバークロスするという今からでは信じ難いような光景が見られたとか。
こちらの路線は相模原市立博物館研究報告「相模川新磯鉱区から相武台地区に至るナベトロ軌道 ~小田急砂利軌道運搬についての協働調査から~」で大変詳しく調査、報告されているのでナロー、産業鉄道ファン必見です。
DSC_0260.jpg
当時は農村地帯だが線路自体は都市型鉄道として開業した小田急線。この奥の線路が登った先が当時の座間駅(現・相武台前駅)で新磯からのナベトロ線がオーバークロスしていた。

新田宿鉱区は面積330,600㎡、砂利採取船2隻、ガソリン機関車2台、ナベトロ20台を設備。
当初のナベトロ軌道(軌間762㎜)は河中の採取所から河原を川岸付近まで敷かれて、そこでトラックに積み替え新座間駅(現・座間駅)まで輸送していました。特に路線名などの記述がないので以下「小田急砂利新田宿軌道」または「新田宿軌道」と呼びます。
小田急の各駅に集められた砂利は相模厚木(現・本厚木)~東北沢で運転されていた砂利線用貨物列車で東北沢の砂利側線まで輸送され都内で販売されました。

③昭和砂利興業のナベトロ軌道
小田急直営の砂利輸送が始まる直前の1933(昭和8)年に昭和砂利興業が相模川の四ツ谷~新座間のナベトロ線(軌間610㎜)を敷いて砂利輸送を行っています。
この軌道は現在の座間高校の付近から相模川の河岸段丘上に上がるためインクラインを挟んで下部軌道、上部軌道に分かれた大規模なものでした。
この軌道については以下「四ツ谷軌道」と呼びます。
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座間高校東側斜面のインクラ軌道跡付近に残る軽レール。
6kgレールよりも細いようでインクラ軌道用のレールと思われる。


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ナローゲージ | 23:45:11 | Trackback(0) | Comments(0)
那珂川の北鉄金沢市内線モハ2302→豊橋鉄道モハ3302
那珂川の北陸鉄道金沢市内線モハ2300形モハ2302。
やはり元金沢市民としてこの車両は外せませんね(^ ^)
1961(昭和36)年日本車輌で2両製造された内の1台。
間接制御を採用し台車はオイルダンパ付きNS-16を履き、車輪には防振ゴムも入って乗り心地を改善しており市内線車両の頂点にありました。
しかし金沢市内線は1967(昭和42)年2月11日に全廃されてしまいモハ2301,2302とも豊橋鉄道に譲渡されます。
豊橋ではモハ300形(2代目)を名乗り豊橋市内の東田本線に投入されました。
型式は間もなく改番になってモハ3300形となります。豊橋では2000(平成12)年3月まで活躍。
その後は国立の鉄道総合技術研究所で架線、バッテリーのハイブリッド車試験に使われていました。

DSC_1519_20170608225426951.jpg
那珂川では鉄道総研時代の仕様のままになっているようで菱型パンタではなくシングルアームパンタを搭載。
塗装は豊橋鉄道時代末期に再現された金沢市内線時代のシャンゼリゼルージュ&クリームになっています。

DSC_1415.jpg
方向幕はなぜか「故障」。実際に故障しているのかどうかは聞いてません。
道路の狭い金沢市内線で使用するため細面の車体になっています。
豊橋で当時在籍した車両の中では新しい方だったにもかかわらず廃車されたのはこの車体の小ささ故だったようです。


以下は2000(平成12)年7月30日に豊橋鉄道赤岩口車庫の撮影イベントでの様子。
廃車後4ヶ月が経ってましたがより金沢時代に近付けた姿が再現されてました。
パンタの位置が豊橋では車体中央に移設されてましたが端に寄せ、前面中央窓も小さくなっていたのを大きく作り直し・・・と非常に原型復元へのこだわりが感じられました。
img061-04.jpg
赤丸に白字で1と書かれた1系統の運転区間は金沢~武蔵ヶ辻~兼六園下~小立野。
方向幕も「金沢驛」となっています。
金沢駅前から武蔵ヶ辻を直進、橋場町で右折し、車庫の有った兼六園下から兼六園の横の尻垂坂を上って台地上の小立野へ達していました。

img061-01.jpg
四角い白板に黒字で3の3系統の運転区間は小立野~兼六園下~香林坊~野町駅前。
方向幕も「野町驛」。
小立野から兼六園下に降りると左折して金沢城石川門の前を通って右折、香林坊で再び左折して犀川大橋を渡り、専用軌道を駆け下ると石川線と接続する野町駅前でした。

img061-02.jpg
四角い青地に黄色で4の4系統の運転区間は野町駅前~香林坊~武蔵ヶ辻~橋場町~鳴和。
これも方向幕は「野町驛」。
野町駅から香林坊までは3系統と一緒。香林坊で直進して尾山神社の前を通り武蔵ヶ辻で右折、1系統と同じ区間を走り橋場町で左折、浅野川大橋を渡るとひがし茶屋街のすぐそば。線路は後1区間単線の専用軌道となって東金沢駅前に続いてましたが4系統は鳴和で打ち止めになってました。

img061-03.jpg
モハ3301と並び。元モハ2301でこちらは豊橋時代の姿のまま。
当時はモハ2302はアメリカの博物館譲渡の予定でしたが9月の同時多発テロで話が流れモハ3301と一緒に鉄道総研入りしました。
モハ3301はまだ鉄道総研にいるのかな?


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路面電車 | 23:58:35 | Trackback(0) | Comments(0)
八溝山のフランケン機関車
昼食は那珂川清流鉄道から国道293号線を10分ほど南下した峠の茶屋 一休へ、こちらも経営者が同じそうで那珂川から持ってこられた機関車と運材貨車を使った森林鉄道風の展示があります。
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機関車は610㎜ゲージの土工用機関車。
鋳物台枠、ラジエターは酒井工作所製なのですがエンジンやキャブは加藤製作所のものというフランケンシュタイン機関車です。
ラジエターグリルが通常の鋳物ではなく丸棒になってますがこれは後天的改造によるもの?

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台枠は低床の帝室林野タイプ。

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運材貨車は木曽の岩崎レール工業製。銘板を見ると1959(昭和34)年9月製造・・・森林鉄道の衰退に拍車をかけた伊勢湾台風が猛威を振るった頃の製造です。

八溝山の森林鉄道は農林省東京営林局→前橋営林局がいくつか路線を持っていましたがこれらの路線は八溝山を挟んで東側にあったようです。

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森林鉄道(長野営林局) | 21:52:25 | Trackback(0) | Comments(0)
那珂川の関西電力→ユニチカ加藤7t機
名鉄八百津線八百津駅から延びていた関西電力丸山水力専用鉄道で使われたディーゼル機関車。
戦前に大同電力が計画、日本発送電により工事が始められ専用鉄道の敷設免許も得ていましたが実際に専用鉄道が敷かれたのは戦後日本発送電解体後に引き継いだ関西電力が本格的に工事を始めた後のことです。
当初は兼山水力専用鉄道(名鉄八百津線兼山駅)からガソリン機関車2台を転用するはずが兼山多忙のため実現せず、6tバッテリー機関車2台の導入を計画。1951(昭和26)年にはかなり具体的なところまで設計も進んでいたようですが専用鉄道開業直前に土壇場でディーゼル機関車2台を新製する方針に変えたようです。

1952(昭和27)年2月には専用鉄道の運行が開始されますが機関車の新製は間に合わず仮に7tガソリン機関車で運用を開始。
このガソリン機関車は兼山水力専用鉄道で余裕ができて借用した物かどうかわかりませんが写真で見るとピンリンク連結器装備の機関車に無理やり仮の自連を取り付けたような機関車でした。

八百津~錦織~丸山ダムの内、八百津~錦織は9月に600Vで電化、関電私有機のデキ250形2台で新広見(現在の新可児)、又は新鵜沼から貨車を継走していました。加藤7t機は非電化の錦織以遠の区間で貨車の牽引、入換を行っていたようです。

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関西電力私有機デキ250から錦織で引き継ぐ貨車は国鉄、名鉄から入る貨車なので自動連結器。
一方で丸山発電所建屋へ搬入する機材は錦織で丸山発電所インクライン直通用貨車に積み替えます。
この貨車(帝国車輌製のフラットカー)はインクラの巻き上げ機につなげるためピンリンク式連結器となっており、どちらの貨車とも連結できるように2つの連結器を備えています。
因みにこの丸山発電所インクラは2016(平成28)年に確認したときもレールが残っていました。最近は見てないけどまだあるかな?
なお1954(昭和29)年5月31日に丸山水力専用鉄道は資材輸送が終了し岡山のユニチカ常盤工場専用線(伯備線総社駅)に転じていました。

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那珂川では上松営林署色・・・と言うよりは長野営林局標準色と言うべき色にされています。
実際には八百津では単色塗り(エンジ色か?)、総社では上回り黄色、台枠黒に塗り分けられておりこの塗装に歴史的根拠は全くありません。

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なおダムサイトのバッチャープラント線(バンカー線とも)にも同タイプの加藤7t機が5両も導入されていましたがそちらは自動連結器が無くピンリンク式連結器のみ装備でした。バッチャープラント線はセメントミルクをつくるバッチャープラントから索道停車場まで容器入りのセメントミルクを運ぶための線路で距離的には100m程度しかありません。

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台枠には関西電力丸山発電所建設時の銘板が残っています。
因みにもう1台導入された専用鉄道時代の相棒とバッチャープラント軌道の5台は行方不明。
次のダム建設に転用されたのかも知れませんが。

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スイッチャー | 21:25:07 | Trackback(0) | Comments(0)
麒麟麦酒栃木工場専用線(烏山線仁井田駅)~その2~
烏山線仁井田駅の専用線続き~

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コンクリート製の橋梁が3か所残りますが何れも橋梁銘板が外されていますが橋台には竣工年月の1979-6の刻印が見られます。

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専用線の烏山線側には工場側を向いた停止目標と何やら機器が取り付けられていたらしい支柱跡。

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「20停止目標」とあるので出荷の貨車20車を推進運転して工場から出て来た烏山通運機がここで停止したか、工場内の貨車入換で出てきたときの停止目標か。いずれにしても烏山通運機はここまで出て来ていた様子。

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「麒麟第八花岡踏切 0K456M 巾員3.0M」の文字が残る専用線の踏切防護柵。
なお専用線に八か所も踏切があったのではなく平行する烏山線の踏切名「第八花岡踏切」に合わせた様子。
なお第八花岡踏切もつい最近廃止されたようで警報機はカバーが掛けられ遮断機は降りっぱなしになって閉鎖してありました。
こんなことして近所の人は不便じゃないのかな?

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麒麟第八花岡踏切から五行川を渡るともう一つ4種踏切があり工場の鉄道門に突き当たります。
五行川橋梁も複線分の桁が架かりますが鉄道門は烏山線寄りの1線分しかありません。

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五行川右岸の鉄道門前にあるもう一つの4種踏切。こちらは道自体も草ぼうぼうで廃道状態。

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鉄道門前から仁井田駅方向。丁度横を下野花岡駅を発車したEV-E301系が走って行きました。
ここまで来ると直線距離では隣の下野花岡駅の方が近いです。

●烏山通運のスイッチャー
仁井田駅~授受線間は宇都宮区のDE10が入換を行っていたようですが、工場内から授受線までは烏山通運の日車35t機が入換を担当していました。
この機関車は1963(昭和38)年日本車輌製35t機の元・新日鐵八幡製鉄所D349、新日鐵35t機はより大型の機関車が増備されると各地の専用線に転じたほか、日車から新車で同一設計機が多数供給されていました。
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麒麟麦酒栃木工場専用線の烏山通運スイッチャーと同型の日車35t機。
紀勢本線多気駅ダイヘン専用線にいたD351


麒麟麦酒の機関車なのでやはりクリーム色でボンネット側面に赤字で"KIRIN BEER"のロゴが入ってたのでしょうかね?
1エンジン車でエンジン側(写真では左側)の方が僅かにボンネットが長いセミセンターキャブ機のようです。
運転席は入換機に多い横向きに配置、停止目標が北側にあったことからすると運転席があったのは烏山線側・・・つまりD349はエンジン側を仁井田駅方に向けていたものと推定されます。

余談ですが麒麟麦酒が使用した同型機では他に近江鉄道多賀駅(現・多賀大社前)分岐の麒麟麦酒滋賀工場専用線に元新日鐵八幡のD340が転入しています。
こちらは近江鉄道の車籍を取ってDD35形D340となり近江鉄道の電気機関車と同じグレーに塗られていました。

参考文献:
機関車表 フル・コンプリート版(沖田 祐作・著/ネコ・パブリッシング)

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専用線跡 | 00:15:19 | Trackback(0) | Comments(0)

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まとめ