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にしみやうしろ

Author:にしみやうしろ
小田急沿線で生まれ、金沢で北陸鉄道にはまり、愛知では名鉄に臨海鉄道さらに森林鉄道、今ではすっかり私鉄・貨物ファンに・・・。
鉄道に由来していろんなものに興味を持つようになってしまいました。

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名鉄名古屋本線堀田駅貨物側線跡
堀田駅岐阜方の貨物側線跡は高架化のため当然線路はありませんが。何かないかな?
堀田駅は貨物扱いが多く入換のため構内運転士も常駐していたようです。

DSC_1330.jpg
線路の両側に側線がありました。
北側は細長い小公園の緑地に。

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南側は公団住宅になっています。

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北側の側線から旧・貨物ホーム(正面ビルの位置にあった)を見た様子。

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戦中、終戦直後は屎尿輸送の中間貯留槽があり、名古屋市内で集めた屎尿を名鉄東部線(神宮前より豊橋側)の農村部へ運んでいたとのこと。
500石=90,195.3ℓ入りの大きな貯留槽で当時の写真を見るとこの辺りにあったようですが・・・。
15t積み無蓋貨車(トム)に木製タンクを据え付けて運んでいました。
ここからの行き先の一つだったと思われる西尾線福地駅の貯留槽は2017(平成29)年4月現在も残っており、この貯留槽を大型化したものがここ堀田のほか西枇杷島にもありました。

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駐車場の使用者名を書いた枕木が立ってますが裏には上下2列の横木を固定していた跡の釘があります。
地上線時代に本線と側線を仕切っていた鉄道柵の名残でしょうか?

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名鉄 | 00:02:31 | Trackback(0) | Comments(0)
興服産業(興和冷蔵)専用線(名鉄名古屋本線堀田駅)~その2~
前回は専用線の歴史が主体でしたが今回は現地~。


専用線は堀田駅の名古屋本線豊橋方からスイッチバックする形で分岐していましたが引上げ線はありませんでした。
入換時には堀田通(現・名古屋市道空港線)の踏切を塞ぐだけでなく名古屋本線も支障するため交通量、電車の運行本数が増えると入換は困難になっていたことでしょう。

DSC_1334_20170425231137742.jpg
貨物ホーム、専用線跡には堀田駅の駅舎兼公団住宅(現UR都市機構)が建ちました。
専用線は豊橋方(奥)から急カーブでビルが折れている内側辺りにを通っていた様子。

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ビルを抜けてこの道路を横断すると左が旧紡績工場→冷蔵倉庫。

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線路も倉庫も跡形もありませんがこの駐車場に行き止まり式の専用線本線、奥から分岐して右手前方向へ積み降ろし線があったものと思われます。

DSC_1327.jpg
堀田通りの歩道橋から冷蔵倉庫跡を見た様子。
興和冷蔵は現在一宮市へ移転(家のごく近所でした^ ^;)。
関係のあるものは何も残っていないのかと思いきや左に見えるメルセデスの販売店が興和紡績の後身・興和紡(紡績は行っていない)の関連会社とのこと。
堀田通りには名古屋市電が発着していましたが1972(昭和47)年3月1日で廃止され、跡地は名古屋高速大高線の高架に踏みつぶされています。
市電末期にはこの歩道橋から直接電停に降りることができる階段もあったようです。

次回は専用線以外の堀田駅構内の貨物側線跡を探ります。



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専用線跡 | 18:53:58 | Trackback(0) | Comments(0)
興服産業(興和冷蔵)専用線(名鉄名古屋本線堀田駅)~その1~
地上時代の堀田駅から北側に延びていた専用線です。
戦前は紡績、織布工場で原綿や製品の糸、綿布を輸送していたものと思われます。入線していた貨車は有蓋貨車でしょうか。
戦後は冷蔵会社で氷や冷蔵、冷凍食品を扱っていたので白い冷蔵車が入っていたものと思われます。
構内まで電化され愛知電気鉄道→名古屋鉄道の電気機関車が入換を行っていたようです。
作業キロ:0.2km
作業方法:社機


昭和30年代の堀田駅周辺の線路配置を現在の地図に上書き。
色別に名鉄線興服産業専用線名古屋市電としてます。

●紡績工場の専用線
1894(明治27)年に綿布問屋服部兼三郎商店が創業。
1917(大正6)年4月にはそれまでの織布に加え紡績に進出するため熱田工場を完成させますが第一次世界大戦の影響でアメリカから紡機1万錐が届かず操業開始は1919(大正8)年にずれ込みました。
その後紡機19,600錘、織機1,212台、従業員3,000人の大型紡績工場として操業しています。
一方で名鉄名古屋本線の前身の愛知電気鉄道有松線は服部商店熱田工場完成と同時期の1917(大正6年)3月に神宮前~本笠寺が開通していましたが当時は工場の横を通過するだけで駅はありませんでした。
1927(昭和2)年4月17日に工場東側の堀田通に名古屋市電が開通、工場の前に終点の堀田(1932(昭和7)年に堀田駅前に変更)電停が置かれました。翌1928(昭和3)年4月16日には愛電の堀田駅が開業しています。
服部商店専用線が敷かれたのはこの頃と思われますが正確な時期は不明です。
堀田駅は貨物駅としての役割が大きく大型の上屋付き貨物ホームや貨物側線も敷かれました。

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堀田駅北側の服部商店→興亜紡績熱田工場跡。現在はホームセンターや市営住宅が建ち並ぶ。

●紡績工場の戦災焼失
1939(昭和14)年には服部商店の商事部門と紡績部門が分社化、短期間に社名が目まぐるしく変わりますが1943(昭和18)年時点で商事部門は興服産業株式会社、紡績部門は興亜紡績となっていました。
既に太平洋戦争の最中で同年に熱田工場は他の工場と共に中島飛行機(現・SUBARU)へ貸与され錘機、織機は金属として供出、航空機部品の工場にされました。米軍戦略爆撃調査団の記録によれば生産額が低くあまり重要でない工場とされており軍需工場としては稼働率が低かったようです。
そんな中1945(昭和20)年に空襲(興和百年社史では6月、米軍戦略爆撃調査団の記録では5月)で熱田工場は焼失、中島飛行機から焼跡を返還され終戦を迎えます。

DSC_1338.jpg
堀田駅に多くの貨車が出入りしたのは既に半世紀前。
現在は高架2面4線の中央に本線があり、名鉄ファンにとっては手頃に編成写真が撮れる撮影スポットとしても知られる。

●冷蔵倉庫として復活
敗戦により紡績部門は社名を興和紡績と変え他の返還された工場は元の工場へと復旧が進められました。
一方で被害が大きかった熱田工場は復旧されず焼け残った冷蔵倉庫を使って興和紡績、興服産業の役員個人名義で1950(昭和25)年2月20日に堀田冷蔵株式会社を設立し冷蔵食品保管や製氷を行います。
1957(昭和32)年2月22日に興和冷蔵株式会社に改組し興和紡績52%、興服産業48%の持ち株比率としました。
専用線の専用者は興服産業の名義でしたがこの冷蔵倉庫に出入りする貨物を扱っていたものと思われます。

mei-freight20.png
デキ401と冷蔵貨車で最もメジャーなレ12000形の編成。
名鉄線内で冷蔵車と言うと朝鮮戦争の頃築港線にいた米軍所有車の写真しか見たことがないが堀田駅でもこんな姿が見られたのだろうか。

●堀田駅の貨物扱いと専用線の廃止
昭和30年代、名古屋本線は運転本数も多く、さらに側線や専用線に出入りする貨車の入換は堀田通の踏切を塞ぎ開かずの踏切化していたことでしょう。堀田駅付近は名鉄全線の内でも早い時期の1968(昭和43)~1969(昭和44)年にかけて高架化されました。
その直前の1965(昭和40)年度には堀田駅での貨物取扱いも廃止されています。
興服産業専用線も専用線一覧表1964(昭和39)年版を最後に姿を消しており、同時期に廃止されたものと思われます。

参考文献:
興和株式会社ホームページ
興和紡株式会社ホームページ
興和百年社史(興和紡績)
写真集興和のあゆみ(興和紡績)
専用線一覧表(日本国有鉄道)
名古屋市爆撃の効果(アメリカ合衆国戦略爆撃調査団/著、名古屋市鶴舞図書館/訳)
名古屋鉄道百年史(名古屋鉄道広報宣伝部/編)
鉄道ピクトリアル2009年3月臨時増刊号【特集】名古屋鉄道(電気車研究会)



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専用線跡 | 18:30:39 | Trackback(0) | Comments(0)
大浜臨港線運送専用線(仮称:玉津浦臨港線 名鉄三河線玉津浦駅)~その2~
大浜港臨港線運送専用線(通称)の続き。

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国道247号線を横断してからも暫くは道路として残っています。
前方に霞みつつも見える大煙突は中部電力碧南火力発電所。
かつてはこの線路で石炭を運んでましたが現在市内で石炭を最も使っているのはあの発電所でしょう。
なお石炭を焼いた後の灰を太平洋セメント藤原工場で再利用するためセメント製造過程で再利用するため今でも衣浦臨海鉄道が碧南市駅から三岐鉄道東藤原駅まで鉄道輸送が行われています。

DSC_1157.jpg
廃線跡の道は区画整理で途切れます。
2013(平成25)年頃には200mほど先までまだ道が続いてたのですが・・・。

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反対側から廃線跡を見た様子。
真っ直ぐ廃線跡の道が続いてましたが見事に消え失せました。
住宅が建ってないラインが一直線になっているのが唯一の名残り。
奥に玉津浦駅付近のトヨタ自動車の寮が見えてますね。

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その先は終点まで1980年代に区画整理済みのため全く跡は残ってません。

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終点の一ツ橋付近。右の辺りが専用線の末端でした。
その1で紹介した大浜臨港線株式会社設立功労者の顕彰碑「故渡邊秀治君之碑」は移設前は一ツ橋袂の碧南市一ツ橋ポンプ場内に置かれていたそうです。


~玉津浦臨港線で運転されたお伽の国電車について~
昭和20年代から30年代初頭にかけて専用線を利用して当時存在した玉津浦海水浴場へ旅客列車が運転されました。
玉津浦~玉津浦海岸の運賃5円だったとか。

碧南市の資料第50回 棚尾の歴史を語る会 次第の最後のページに玉津浦の構外側線で海水浴客を乗せたという「お伽の国電車」が運転されたときの貴重な写真が掲載されています。
この写真を見て気付いたことを以下書き散らします(^ ^;)

写真には2両の名鉄車両が写ってますがどちらも2軸単車。
写真に写ってない先頭(右)側には電車か電気機関車が連結されていたのでしょうか。

写真に写った車両は手前がモ140形(初代)。
窓配置ドアの間に2段窓6枚が並ぶD1Dの窓配置、屋根に見えるベンチレータから特定。
電動車のモを名乗ってますが実際には電装解除されてたようです。
奥はサ20形。
妻面の窓が大きいのに対し側面は幕板が広く小さい窓が並んでおり、2軸車としては近代的なスタイルのモ140と比べると古めかしく鈍重な感じがします。
サ20形は当時築港線で朝夕に電車や電気機関車に挟まれたプッシュプル編成で通勤列車として使われていたようです。

●モ140形140~142
mei-mc140.png
1942(昭和17)年に日本車輌で製造した半鋼製2軸単車。
1912(明治45、大正元)年製の名古屋電気鉄道最初期の電動貨車デワ1の機器を流用して3両が製造されました。
当初はモ90形91~93を名乗り、間もなくモ140形140~142に改番されてます。
戦時中の車両不足を補うため何とか捻出した部品でつくられたものと思われます。
渥美線で使われていたようで1954(昭和29)年10月に渥美線と共に豊橋鉄道へ引き継がれますが当時渥美線は乗客が増え2軸単車では輸送量に見合っておらず果たしてまともに使われたのか・・・
鉄道友の会名古屋支部創立30周年記念誌「躍進30」(鉄道友の会名古屋支部)によれば1956(昭和31)年9月14日に廃車。

●サ20形21,22
mei-t21.png
1908(明治41)年に瀬戸電気鉄道(現・瀬戸線)が自社印場工場で製造した2軸附随車。
瀬戸電時代の形式はレ5,6、れ5,6、VS5,6とあるがどれが正解か不明。
あるいは改番されており全部正解かも?国立公文書館所蔵の鉄道省文書を見れば出てるかな?
瀬戸電時代に車体を載せ替えており初期の車体とはだいぶ違うものなっています。
また台車も当初はブリル21Eだったのが貨車のようなものに代わり製造当初とは全く別の車両になっていた様子。
名鉄合併後も2両とも引き継がれサ20形21、22号に改番されています。
後に築港線へ移り1957(昭和32)年10月に廃車されたようです。

参考文献:
写真が語る名鉄の80年(名古屋鉄道)
鉄道ピクトリアル1971年4月号 私鉄車両めぐり[87] 名古屋鉄道[終] 渡辺 肇、加藤 久爾夫(電気車研究会)
躍進30(鉄道友の会名古屋支部)

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専用線跡 | 00:25:53 | Trackback(0) | Comments(0)
大浜臨港線運送専用線(仮称:玉津浦臨港線 名鉄三河線玉津浦駅)~その1~
三河線海線廃止区間で碧南駅の次の駅、玉津浦駅から分かれていた構外側線です。
困ったことに大浜港(現・碧南)~大浜口駅の支線が大浜臨港線という名前でこの専用線の使用者名も大浜臨港線運送と非常に紛らわしいことになっています。
ここではこの専用線について詳しい棚尾の歴史を語る会の記述に倣って仮称「玉津浦臨港線」とします。

この構外側線は1935(昭和10)年(故渡邊秀治君之碑の碑文によれば8月)に完成し大浜臨港線株式会社が使用しています。
三河鉄道大浜口~神谷(後の松木島)は1926(大正15)年9月1日の開業時から直流1500Vで電化されていましたがこの構外側線まで電化されたかは不明。
蜆川から陸揚げされる石炭の輸送に使われましたが1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風で港が被害を受け同年12月3日に廃止されています。

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大浜口駅跡付近から続く碧南レールパークの一角になってます。

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こちらは三河線碧南~吉良吉田廃止直前の様子(2004(平成16)年3月16日)。

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碧南方から分岐する専用線の線形が模様として表現されて存在が強調されるようになりました。

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その先には専用線末端付近から移設された故渡邊秀治君之碑が建っています。
元三河鉄道の支配人で退職後に大浜臨港線運送設立に携わった人です。

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専用線の説明板も完備。

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現役時代末期の専用線分岐より先。(2004(平成16)年3月16日)

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既に2車線道路化されていました。(2004(平成16)年3月16日)

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今では大きな寮ができて雰囲気が変わりました。


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専用線跡 | 22:26:20 | Trackback(0) | Comments(0)
長野営林局三殿営林署丸山沢作業軌道
中央本線南木曽駅裏の三殿土場から出ていた与川森林鉄道、さらにその先から出ていた作業軌道です。
1956(昭和31)年~1965(昭和40)年度の三殿営林署三殿経営区の経営計画の中に与川森林鉄道から分岐する丸山支線の新設があります。

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三殿経営区第七次編成経営案 昭和三十一年度実施(長野営林局) 国立公文書館つくば分館所蔵

上山沢と丸山沢の合流点312林班で与川森林鉄道と分岐し隣の302林班まで行く2級森林鉄道ですがその後の森林鉄道の路線一覧には名前が出てきません。
道路化計画が早く進展して未成線に終わったか・・・と思いきやそう単純でもないようです。


路線略図はこんな感じ。緑が丸山沢作業軌道(丸山支線)と見られるルートです。
他の記録では1935(昭和10)年度に丸山沢作業軌道を全線撤去、レールなどの資材を上山沢作業軌道へ振り向けるという記述もあり、伐採、造林事業がどこで行われるかによって敷設と撤去・・・を繰り返した様子。
あくまで仮設の線路で正式な森林鉄道とは認められない作業軌道らしい話です。

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圧倒的な迫力で上山沢を堰き止める与川砂防堰堤。与川森林鉄道はこの堰堤の奥へと続いていたのですが廃止後にこの堰堤ができて現在上山沢沿いの林道はありません。
与川森林鉄道はヘアピンで堰堤の左上に上り上山沢を再度横断して白口沢まで行ってました。
白口沢では上山沢線と接続していました。

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堰堤前の車止めゲート。与川林鉄も暫くはこの林道で西進してからヘアピンで折り返し高度を稼いで上山沢へ入っていました。

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与川林鉄と丸山作業軌道分岐と思われる付近。
与川林鉄はここで折り返して斜面を登っていた様子。時折斜面上に線路敷と思われる平場が見えました。
丸山沢にはただの林道が続きますが・・・。

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丸山沢を渡る個所で隣にコンクリート製の橋台と橋脚2本が現れます。
昭和20年代までに建設された林鉄は橋台が石積みで橋脚はコンクリート製という例が多いですがこの橋脚は昭和30年代に作業軌道の2級線昇格に備えて線路強化したもの?

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もう1本の橋脚。
作業軌道は根元まで木製の高架線と言うことが多くこれだけ立派な土木構造物を残すことはあまりありません。
計画通り2級森林鉄道としての線路工事は行ったものの作業軌道扱いのまま終始したのか。

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丸山沢と上山沢の分水界から見た丸山沢。
伐採直後のようですっきりしてました。昔ならこういうときに作業軌道を敷いて終わったら撤去という具合だったのでしょう。
ここを越えるとすぐに上山沢線の線路跡ですが、こちらは何も痕跡無し。
上山沢線は常設の2級線ですが木橋高架線ばかりで路盤がない作業軌道並の路線だったのかも。
上山沢線も作業軌道が常設の2級線に昇格したものです。




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森林鉄道(長野営林局) | 23:17:55 | Trackback(0) | Comments(0)
名鉄三河線大浜口駅
1914(大正3)年2月5日に三河鉄道が大浜港駅(現・碧南駅)まで延び、その翌1915(大正4)年11月29日大浜口駅まで0.4㎞の臨港線が開業しています。大浜口駅は碧南駅からすぐの源氏橋付近にあったとのこと。
陶器や鋳物産業の燃料となる石炭や日用品などを輸送する舟と貨車を連絡させていましたが貨物取扱量の減少から1946(昭和21)年8月1日に廃線となっています。
廃線と言うよりは短距離なので合理化のため大浜港駅構内扱いとしたもののようです。
実際三河鉄道時代の1926(大正15)年9月1日に大浜港~神谷(後の松木島)が開業すると臨港線の大部分が本線となり、そこからちょっと分かれるだけになっていたものと思われます。大浜港~大浜口支線分岐点までは本線と臨港線の2重戸籍になっていたのでしょうか。
実際にいつレールが撤去されたかはわかりません(航空写真でも側線の有無が判別できない)が、中小港での貨物取扱いが大規模港湾に統合され消えて行ったものと思われます。

DSC_1181.jpg
本線だった碧南~吉良吉田間さえ廃止されてしまい行き止まりとなっている吉良吉田、大浜口方から碧南駅構内を見た様子。
車止めのある2線がかつての本線。
かつての駅名はこちらが「大浜港」駅で舟と連絡してた臨港線の駅の方が「大浜口」駅であり一般的なイメージと逆のネーミングなため何ともややこしい(^ ^;)

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暫くはレールが撤去されただけの路盤でカーブしながら続き・・・。

DSC_1174.jpg
源氏橋西交差点を越えたところ。奥にはまだ碧南駅が見えてます。

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源氏橋西交差点より南は碧南レールパークという三河線をテーマにした遊歩道となっています。
この場所で西側に分岐し運河に突き当たり行き止まりとなる側線が大浜口駅だったそうで。
ここには大浜口駅をイメージさせるためか分岐の模様や転轍標識なども置かれ、詳細な説明板まであります。

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名鉄 | 19:41:02 | Trackback(0) | Comments(0)
名鉄三河線碧南駅 貨物の面影
現在三河線海線側の終着駅となっている碧南駅。
1954(昭和29)年に現駅名となるまでは大浜港駅と名乗っており三河湾の舟運との連携による貨物扱いも盛んでした。
三河線海線は1977(昭和52)年5月25日に衣浦臨海鉄道碧南線が開業すると貨物はそちらに移されて旅客専業となっています。

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運転扱い以外は無人化されてしまい改札口に駅員さんの姿はありません。
碧南市の中心市街地は一つ刈谷寄りの碧南中央駅の方に移っており駅前はガランとしてます。

DSC_1193.jpg
中に入るとかつての駅務室前にリヤカーがそのままになっています。
左にはタブレット扱い所の出っ張りもあります。
到着貨物があると駅員さんがカラカラと戸を開けてリヤカーを押してホームへ向かったのでしょうね。
当時のまま時間が止まっているのかのようなこの情景、そのまま保存したいくらいですね。

rearcar.jpg
リヤカーって引くものでは?と言われそうですが空荷や軽い荷物の場合こんな風に押してるのをよく見かけた気がします。
引っ張ると後ろが死角になってホーム上でお客さんを引っ掛ける危険があるからでしょうか?
実際僕も自転車通学中に曲がって来たリヤカーとすれ違いざまに引っ掛けられたことがあります(^ ^;)

DSC_1196.jpg
貨物側線はそのまま留置線として使われており線路は案外に残っています。
駅裏は鋳物工場。専用線はなかったようですがかつては一般貨物で原料の入荷や製品を出荷していたのでしょうか。

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非電化にされていた碧南~吉良吉田が2004(平成16)年3月31日に廃止される前は側線にディーゼルカーの給油設備がありました。
2004(平成16)年3月16日撮影

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左(東)には倉庫も3棟残っています。駐車場になっているスペースは貨物の積替えで賑わっていたのでしょうか。

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三河線沿線は三州瓦を始め土管など陶器産業が盛ん。陶磁器輸送用の貨車ポム1形などがよく見られたそうです。
奥には倉庫も並び・・・。

IMG_3499.jpg
こんな貨物列車が現れそうな雰囲気。
2006(平成18)年5月3日 瀬戸線喜多山駅で撮影

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ポムは積載した陶磁器が割れないようワムの車内に区分棚を設けただけで外観はあまり変わらないのでここでは似合いそうです。
ポム1形は倉庫として利用されたものが1両だけ東海市内に現存するらしいですが場所を知らないので未見。
2006(平成18)年5月3日 瀬戸線喜多山駅で撮影

DSC_1150.jpg
実際には現在現れる列車は6000系ばかりです。
以前は名鉄支線区も現れる車種にバリエーションがありましたがいつの間にか線区別に使われる車種が固定化されてしまいました。うちの近所の路線も朝ラッシュ時以外6800しか来ないです。

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私鉄貨物 | 22:43:49 | Trackback(0) | Comments(0)
日本鉱業峰之沢鉱山インクライン跡~その3~
その先には杉林に佇むインクラの高架橋が待ち受けます。
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北側から。手前の柱上部には架線柱の台座のようなものが。
ケーブルカーのような架線は張って無かったようなので架線柱とは別目的のものかも知れません。

DSC_0048_20170410235929674.jpg
南側。傾斜地でカメラも広角なしなので全景が撮れてません(_ _)

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ナローゲージに分類してますが実際のところゲージは不明。路盤は薄くて幅広です。

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線路の周りに碍子が散らばっています。
高架橋に取り付けられた状態のものもあります。

DSC_0059_20170410235932631.jpg
林の中に転がる丸太・・・と思ったらクレオソートが付いてるので木製電柱だったようです。
探せばまだ色々ありそうですが斜面上で足場が悪いのでほどほどに。

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ナローゲージ | 00:46:11 | Trackback(0) | Comments(0)
日本鉱業峰之沢鉱山インクライン跡~その2~
船舶用ホッパー(?)から道路を挟んで反対側の斜面上がインクラ下の停車場跡と思われます。
実際の停車場名は分かってません。
DSC_0029_2017040823191208e.jpg
ここだけ擁壁がごつくなっているのも停車場や積み替え施設があったためでしょう。
鉱石を移送するベルコンなどがこの道路上を跨いでいたのでしょうか。

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インクラ乗り場(・・・人を乗せる場合はケーブルカーですが貨客混合の場合は何て言うんでしょう?)へ上がっていた通路跡。

DSC_0028.jpg
見上げると手すりがあちこちにあります。それなりの施設があった証拠。

DSC_0064_201704102359331b5.jpg
インクラ跡を直登することは出来ないので道路でヘアピンカーブを3段登ると製材所がありますが、この製材所の施設は選鉱場をそのまま利用なさっているようです。
その横に古い階段の跡とインクラの掘割があります。

DSC_0039_20170408231913f30.jpg
南からインクラ跡、階段、選鉱場跡の順で並んでいます。
選鉱場の施設を見ると杉の落ち葉に覆われているもののちらりとIビーム桁が見えます。その隙間からは漆黒の闇・・・近付いたら貯鉱場に落ちるのでしょうかこれは。
選鉱所側には絶対近寄らないことです。

DSC_0040_201704110013023e1.jpg
一方のインクラ側には地面から突き出た6kgレール。
最も小型のレールで、戦後は労基法で機関車入線禁止になったレールです。
インクラで使われたレールでしょうか?鉱山のレールは重量物輸送のためナローでも重軌条のイメージですがこのレールは林鉄でも最も小型のものです。

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ナローゲージ | 19:49:42 | Trackback(0) | Comments(0)
湯舟沢森林鉄道アップ
西宮後停留場の「坂下営林署の森林鉄道」湯舟沢森林鉄道を追加しました。

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木曽川の落合ダムを望む風光明媚な落合川貯木場から恵那山の方へ向かっていた路線。
以前の取材から10年が経ち状態が変わった個所もありました。
しかし変わった原因は人里が開発されて・・・ではなく人知れず奥地で起きた崩壊や土石流によるものだったことに考えさせられました・・・(- -)
湯舟沢森林鉄道路線図
廃線跡の現状

湯舟沢林鉄の歩みについても分かって来ましたがまだ研究の余地は大きいです。
湯舟沢森林鉄道史

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車両面では帝室林野局時代の記録から1935(昭和10)年当時には湯舟沢にコッペル製の5tディーゼル機関車が在籍していた事が分かりました。
木曽に初めて導入されたディーゼル機ですが上松にいたものと思っていたらこんなところに移ってたようです。
イラストはかつて音水森林鉄道にいた同型機やヨーロッパで保存されてる現存同型機の姿を元に作成したイメージです。
湯舟沢森林鉄道の機関車
湯舟沢森林鉄道の運材貨車


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森林鉄道(長野営林局) | 22:43:59 | Trackback(0) | Comments(0)
日本鉱業峰之沢鉱山インクライン跡~その1~
天竜川ほとりの旧・峰之沢鉱山。
1969(昭和44)年まで日本鉱業(現・JX金属)が銅鉱石を採掘していました。
現在は浜松市に合併して天竜区龍山町ですが以前は静岡県磐田郡龍山村でした。
1907(明治40)年に日鉱の前身・久原鉱業が当鉱区を買い取ってから本格的な開発が始まったと言います。
天竜川から急傾斜で切り立った斜面上にある鉱山からインクラインで川港に降ろされた鉱石は川船に載せられ、東海道本線天竜川橋梁の川下まで運ばれて貨車へ積み替え、天竜川駅から河原まで延びた貨物側線を経由し発送されていました。

河原の天竜川貨物駅の明治、大正期は中部(なかっぺ・・・飯田線中部天竜駅そばの発電所に新聞紙の製紙工場があった)や気田にあった王子製紙からの紙輸送、木材輸送、久根・峰之沢鉱山からの鉱石輸送など水陸連絡で大いに賑わっていたようです。

峰之沢~天竜川駅の鉱石船舶輸送は電源開発(現・J-POWER)秋葉ダム(1954(昭和29)年着工、1958(昭和33)年完成)が建設され天竜川本流が締め切られたため、その後は東海道本線より近くを走る二俣線(現・天竜浜名湖鉄道天浜線)天竜二俣駅までトラック輸送し貨車へ積替えるようになったようです。
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峰之沢鉱山下流の秋葉ダム

山の中腹に鉱山住宅が残っており廃墟ファンに有名なようですがそっちは立入禁止です。
それより下のインクラインは斜面に跡が見られます。
インクラは鉱石輸送だけでなく鉱山町から住民が舟やバスに乗るため川と行き来するのにも使われていたようです。

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国道152号線を秋葉ダムから遡り以前乗った遠州鉄道バス北遠本線龍山青谷バス停の真ん前まで。
バス停併設で青谷ポケットパークと言う休憩施設やトイレもあり2,3台程度止められる小駐車場もあります。
そこから対岸を見ると山林に急斜面を直登するインクラのラインがくっきり。

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峰之沢橋で対岸(左岸)へ。上流側は村の中心だった瀬尻地区。
この辺は山が川に急角度で落ち込むため集落や茶畑が斜面に立体的に存在します。
近くの東京営林局水窪営林署瀬尻森林鉄道も川からインクラで上ったところから機関車運材を行う平坦線が始まっていたようです。

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峰之沢橋で左岸に近付くとインクラ下でまず目に付くのが川舟に鉱石を積み込んでいた施設の跡らしいです。
ホッパーと言うことでしょうか。

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上の道路から見た船舶ホッパー(?)
ダムができる前はこの真下に舟が入っていたのか横付けされていたのか・・・現役時はどんな姿だったのでしょうね。

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ナローゲージ | 23:22:26 | Trackback(0) | Comments(0)
名古屋営林局小坂営林署(?)、小林三之助商店専用線(高山本線飛騨小坂駅)~その2~
飛騨小坂には2つの専用線がありました。
①名古屋営林局専用線
作業方法:国鉄機、国鉄動車
作業キロ:0.3km
総延長キロ:0.5㎞

②小林三之助商店専用線
作業方法:手押
作業キロ:0.1㎞
総延長キロ:0.1㎞

①は言うまでもなく小坂森林鉄道が出ていた大島貯木場への側線。
開業以来帝室林野局名古屋出張所小坂出張所→林野庁名古屋営林局小坂営林署と引き継がれています。
国鉄動車は5t貨車移動機ということなのでC形(参考C6形)だったのでしょう。

②は枕木メーカーとして有名ですね。
木材なので営林局専用線に同居してたとも考えられそうですがよく分かりません。

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立派な石畳を備えた貨物ホームへの道。
高山線開業当時は当然舗装道などほとんどない時代。
貨物ホームで積み降ろしを行うトラックや荷馬車が行き交うのに砂塵を立てないように配慮されたのでしょう。
現在貨物ホームは半分に削られ保線車両への業務用貨物積み卸しに使用されています。
こちらのホームは一般貨物用と思われますが後に小林三之助商店専用線に転用されてたのかも?
また現地で聞いて見ようかと思います。

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貨物ホームの削られた部分から駅本屋方向を見た様子。
石畳がある貨物ホームと言うと県内で現存するものは美濃赤坂で見たくらい?

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貨物ホームを調べてたら現れた普通美濃太田行キハ25 1102+キハ25 1002。
正直こんなところまで来て普段の通勤車両と同じ見かけの車は見たくない(笑)けど折角なので。

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岐阜方で分岐していた営林局専用線。右には貨物ホームと森林鉄道の運輸事業所や整備工場の建物が残ります。

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非常に長大な大島貯木場の貨物ホーム。
ホーム上には762㎜軌間のクレーン車(国鉄風に言うと操縦車)がおり無蓋車への原木積込みを行っていました。
クレーン車はきちっとしたメーカー製(協三工業製K-2型など)ではなく手作り感一杯のアヤシゲなもの。

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踏切脇の事務所(左)と森林鉄道機関庫(右)。
木造のままでは隙間風があるためか外板がだいぶ改装されてしまいました。

なお大島貯木場については以前もこちらでUPしてます。

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専用線跡 | 00:13:52 | Trackback(0) | Comments(0)
名古屋営林局小坂営林署(?)、小林三之助商店専用線(高山本線飛騨小坂駅)~その1~
飛騨小坂と言うと御嶽山の飛騨側の登山口、湯屋温泉を始めとした小坂温泉郷の入り口です。
貨物的には小坂営林署を擁し名古屋営林局内最大規模の森林鉄道小坂森林鉄道の起点だった大島貯木場のある駅です。

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飛騨小坂駅前。1933(昭和8)年8月25日開業以来の駅舎があり、一部の特急も止まりますが現在は無人駅です。

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駅舎は山小屋風で杉材を斜めに配した軽快なデザイン。
中部の駅百選に選ばれています。

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改札を入った側もこのデザインで統一、奥に見えるタブレット扱い所の壁も例外ではありません。

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ホーム上の待合所まで・・・。

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旅客ホームは島式の1,2番ホーム。
向かいには貨物ホームと見られる3番ホームがあるのですがこのホームは周囲に道路がなくトラック荷馬車が乗入できません。
貨物ホームとしてはこれでは使い勝手が悪過ぎるので臨時の旅客ホームだったのかも?
因みに飛騨小坂駅は戦前のローカル駅としては珍しく最初から地下道が備わっていました。が、3番線にはこの地下道つながっていません。かつては2番ホームから構内踏切があったのでしょうかね?

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専用線跡 | 23:22:14 | Trackback(0) | Comments(0)

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まとめ