投稿日:2017-02-28 Tue
野町の津田駒工業専用線のすぐ隣から白菊町側へ延びていた専用線です。白菊町駅分岐となっていますが実際には野町駅の白菊町方から分岐してました。
わざわざ隣の駅になってたのは運賃計算の都合でしょうか?
作業キロ:0.1km
作業方法:社機
開業、廃止時期は不明ですが専用線一覧では1953(昭和28)~1970(昭和45)年版に記載されているので、1972(昭和47)年9月20日の野町~白菊町廃止頃まであったようです。
現在は会社名から商店が取れてカタカナ表記でセザワとなっていますが専用線現役器当時から現在まで建材、セメントの販売を行っています。

現在も線路とプラットホームの残る構内。
専用線現役時から棒線1本のみ。野町から機関車が貨車を推進運転で入れてたものと思われます。

プラットホームのある倉庫には「住友セメント」の文字。
現在も住友大阪セメントの販売店になっているようです。
石川県と言う土地柄専用線現役時は七尾の七尾セメント→磐城セメント→住友セメント七尾工場から有蓋貨車で袋詰めセメントが到着していたのでしょうか。
倉庫の向こうに見えるT字路の交差点。左へ延びる道路が白菊町への本線でした。

旧石川線野町~白菊町の本線上で白菊町側を見た様子。
古い家でも玄関を線路側へ向けている家が多くあります。
それらの家々は線路跡の道より1段低い位置にあり、線路との間に少しだけスペースがあったり・・・美濃赤坂の西濃鉄道みたいな路地裏の線路だったのでしょうね。
子供の頃は歩道に木製電柱の切り株が見られ、勝手に架線柱の切り株だと思ってましたが真相は不明。
今回も歩きながら切り株を探して見たのですが見付けられませんでした
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投稿日:2017-02-26 Sun
西泉の石川食糧事務所政府倉庫専用線の追加情報~。追記で済ませようかとも思ったのですがボリュームがあるので分けます。
農林省石川食糧事務所専用線~1~(北陸鉄道石川線西泉駅)
食糧管理月報にこの政府倉庫や専用線のことが書かれていました。
かつての構内図も出ていたので専用線+αを書き加えて見ました。

2017(平成29)年2月現在残っているのは倉庫1~8号棟と事務所だけですがかつては官舎や詰所が建ち並んでいたようです。
●金沢市が建設した倉庫を国有化
この倉庫は金沢市が市有地に建設しており1934(昭和9)年6月7日着工、同年10月31日竣工。
専用線もこの時期に敷かれたのではないかと思われます。当時は金沢電気軌道唯一の電気機関車ED1・・・現在の北陸鉄道ED201もまだ登場していない(1938(昭和13)年木南車輌製)ので電車が貨車の入換を行っていたものと思われます。
この市営倉庫は1938(昭和13)年8月16日に金沢市が政府に寄付、政府倉庫となりました。
太平洋戦争敗戦直後には米軍放出品の缶詰を大量に保管したこともあったそうです。

市営倉庫が政府倉庫となった頃に導入された金沢電軌ED1→北陸鉄道ED201。
当時金沢市は工業化に積極的で「大金沢」建設を標榜し周辺町村を合併、これら新市域となる郊外に工場誘致を進めていました。
石川線はこれら工場進出が進められた金沢市郊外を通っているため市当局の政策に呼応して機関車を導入したのでしょうか。
●名鉄の北陸進出の影響も?
1963(昭和38)年12月には当時北陸進出を狙い近畿日本鉄道と激しく争っていた名古屋鉄道がこの倉庫や周辺の敷地を買い取り交通基地(バス営業所?)を建設しようと目論んだものの実現しなかったという出来事も。
前年の1962(昭和37)年5月には北陸鉄道が名鉄傘下に入っており、その直後から北鉄の車体更新用に中古の名鉄電車が転入、また金沢市内線全廃時には市内線車両が大挙して名鉄岐阜市内線へ転出しました。

北鉄が名鉄傘下となった後に導入された名鉄のセコハン電車の1両クハ1723。
車両の詳細は北陸鉄道の旧型車3で掲載。
●専用線の廃止
専用線は1971(昭和46)年6月に撤去して線路跡を舗装とありました。
1970(昭和45)年に北鉄直営ボウリング場のジャンボボールができてからも1年ばかりは敷地を専用線が横切ってたのでしょうかね?ボウリングに行ったら敷地を専用線が横切ってる・・・って何かすごい光景(笑)

実際にはレールは一部撤去しただけ。
護輪軌条の敷設状態を見ると専用線現役時から舗装されて併用軌道になっていた感じ。
専用線廃止の理由は
①専用線が交通量の多い県道を横断するため入換作業が交通の支障となること
②北鉄石川線の国鉄側接続駅西金沢駅の貨物が廃止になったこと
とありました。
①は分かりますが②の国鉄西金沢駅貨物取扱い廃止はもっと後のことなので専用線廃止の理由としては当てはまらない気がします。国鉄当局から貨物取扱廃止をほのめかされて早々に鉄道輸送を諦めたのかも知れません。
この倉庫群、建設時は一面の田園地帯に威容を誇っていたと言いますが今では周囲の建物に埋もれてしまっています。
専用線という変わった方面からのアプローチでしたがこの倉庫の歴史的意義は覚えておきたいものです。
参考文献:
食糧管理月報 昭和51年9月号 ~政府倉庫の今昔-5-石川食糧事務所(岡山 貞夫)~
投稿日:2017-02-24 Fri
寝覚ノ床にいるもう1台のDL。酒井工作所1957(昭和32)年製5t機でロータリー兼用機関車No.120。
積雪期はロータリーヘッドを取り付け、他の季節は代わりにデッドウェイトを付けて通常の機関車として使用・・・と国鉄→JRのDD14と同じようなコンセプトの機関車です。
当初は赤沢自然休養林で保存されてましたが後に現在地へ移動しています。
なお移転の際にロータリーヘッドは赤沢へ置いてきてしまいました。

5t機と言う割には大柄な車体。柱や説明板、No.99との位置関係から非常に撮影し辛いです(^ ^;)
屋根上にマフラーがあるのが特徴。

角度を変えても何らかの障害物が掛ってしまいます(爆)

前面窓はHゴムで密閉されているように見えますが、上辺を軸にして車内から押し開ける事ができる構造。
No.120が列車を牽いている写真は見たことがないですがDD14と一緒で除雪装置の着脱が面倒で夏場は使われなくなっていたのか?

台枠はC型機関車と同じ板台枠ですが前位に先従輪が付いた1Bという独特の軸配置になっています。
酒井でのメーカー形式はS型とのこと。
酒井製DLでは後述の北海道のロータリー車や黒部峡谷鉄道DB11がこの軸配置でした。

背面。冬場はロータリーヘッドを装着していた側。
端梁の左右と中央の3つデッドウェイトが取り付けられています。
ロータリーヘッド使用時は出力がそちらに持って行かれて推進力が落ちるため他の機関車と重連、三重連を組む必要があったとか。

赤沢の森林鉄道記念館脇に置かれているNo.120のロータリーヘッド。
展示と言うよりは他の資材などと一緒に置いてあるだけで説明も特にない状態。
これだけポンと置かれているので知らない人には何だかよく分からないものになってます。
酒井工作所製のロータリー車は北海道にNo.120と同じ1B軸配置で、より大型の10t機がいたようです
・北見営林局滝ノ上営林署濁川森林鉄道51号(酒井工作所1957(昭和32)年2月製造or購入)
・札幌営林局上芦別営林署の芦別森林鉄道29号(酒井工作所1957(昭和32)年3月製造or購入)
参考文献:
北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について(小熊 米雄)
投稿日:2017-02-22 Wed
三岳小学校前の上松運輸営林署No.98と同時1953(昭和28)年に酒井工作所から納入された全く同型のB型機関車No.99(旧番No.114)。こちらは上松の寝覚ノ床で保存されており、塗装も上松運輸営林署現役時代のものに復元されています。
1975(昭和50)年に王滝森林鉄道の本線が廃止になった後も1978(昭和53)年まで上松東・西貯木場を連絡するため構内の線路が残されており、このNo.99が入換機として残されていました。

新製当初は緑一色、昭和30年代に試験塗装を経てこの色になったものと思われます。
後ろは同じ酒井工作所製の除雪兼用機No.120。

エンジン側正面。向かって左には後に増設されたエアブレーキ用のコンプレッサカバーが飛び出しています。

No.98では見られないコンプレッサ側。

サイドビュー。No.98は台枠のSAKAIとWORKSの間に楕円の中にSKWが入ったマークがありますがこちらはオリジナルのSAKAIWORKSが一続きになった台枠。キャブから前方に斜めに延びる砂撒き管も残存。

燃料タンク側。こちら側はヘッドライト横に2丁のかたつむり型ホーンも残っています。
このホーン四日市あすなろう鉄道内部・八王子線の電車にも付いてますがどんな音色なのかわかりません。
内部線で警笛鳴らしているのを聞いたことがない~(- -)~
投稿日:2017-02-20 Mon
北陸鉄道石川線始発の野町駅横に津田駒工業の本社工場があります。高速自動織機ジェットルームを開発し織機トップメーカーのツダコマとして知られています。
1909(明治42)年に金沢市街地で創業した津田駒次郎工場が野町に移ってきたのは1933(昭和8)年。
当時の野町は北陸鉄道の前身となる金沢電気軌道の駅で、現在の石川線のほか金沢市内線、西金沢駅へ寄らず松任へショートカットする松金線も接続する鉄軌道の一大ターミナル駅でした。
専用線の開設時期を示す資料は見つかってませんが工場移転時から貨車輸送は行っていたのではないかと思われます。
専用線一覧では1967(昭和42)年版まで記載があります。ここも入換は北鉄の機関車が入って行っていたようです。
作業キロ:0.1km
作業方法:社機

現在の野町駅。松金線は戦時中1944(昭和19)年4月18日に石川線と重複する野町~野々市が廃止、市内線も1967(昭和42)年2月11日に廃止。
その後は自社バスとの接続で利便性を確保し、改札口を出てすぐにバスに乗り換えできる構造としました。
駅舎の背後には隣接する"TSUDAKOMA"のロゴが入った津田駒工業本社工場の建物が聳えます。

因みに野町駅前から金沢市内中心部のメインストリート国道157号線(百万石通り)へアクセスするバス通りは元の市内線の専用軌道跡。犀川左岸の河岸段丘を急勾配で上っていました。

行き止まり式の野町駅ホーム。
2番線(左)はレールがあるものの本線との接続が絶たれています。金沢に住んでた頃よく見てた駅ですが2番線に電車が止まっている光景を見たことがないです。
石川線は1972(昭和47)年9月20日までもう一駅市街寄りの白菊町駅へ延びていました。
しかし旅客は市内線、バスへ乗り換えができる野町駅の利用が多かっためもともと野町止まりの電車が多く、白菊町~野町は貨物が中心の路線になっており1970(昭和45)年には一足早く旅客営業が廃止されています。

津田駒工業への専用線は白菊町寄り(手前)から右へ分岐、貨車は野町駅からスイッチバックで工場内へ入っていた様子。
中央の電柱左が野町~白菊町の石川線本線の跡、奥が野町駅です。
電柱右の塀の向こうが津田駒工業本社工場ですが万年塀が1枚、その右のブロック塀部分が専用線が引き込まれていた跡でしょうか?
野町から届いた自動織機の思い出
うちの母の実家は京都府北部、丹後地方の「丹後ちりめん」を織る家で、帰省すると日中は機を織る音が鳴り響いていました。
工場で動いていたのは勿論ツダコマの自動織機で昭和30年代に一式購入したものとのことでした。
工場内の轟音は相当なもので傍にいる伯父が何か言っても丸で聞こえず轟音が苦手だった自分は這う這うの体で工場を出たのを覚えています(笑)
自動織機を新調したときのことについて今は亡き祖父から国鉄宮津線(現在は京丹後鉄道宮豊線)峰山駅の日通事務所から貨物到着の連絡を受けてトラックで取りに行ったと聞いていました。
野町の工場で製造され専用線で貨車に積まれて発送されたのでしょう。
ルートは野町~(北陸鉄道)~新西金沢・西金沢~(北陸本線)~敦賀~(小浜線・舞鶴線)~西舞鶴~(宮津線)~峰山、あるいは敦賀から米原、山陰線経由かも知れませんが想像力を掻き立てられます。
そんなことを話してたら母が「ツダコマの人がトラックで直接持って来てくれた気がする」と言い出しました。
ここは家業を嫌ってた娘(母)より社長(祖父)の証言を優先ってことで(^ ^;)
投稿日:2017-02-18 Sat
木曽町三岳小学校前の上松運輸営林署No.98の後ろに続くC型客車。塗装が現役時と変わって車体標記も無くなってますが元のC型5号とのこと。
通常のC型客車は側面に開き戸が付いていますがこのC型5号だけは妻面に引き戸が付いています。
元は理髪車だったため車内のスペースを広く取るためでしょうか。
理髪車は後にボギー車でもっと大型のB型客車に変更されています。

反対側は非貫通タイプで通常のC型客車同様の妻面。
林鉄の客車はメーカー名がほとんど出て来ないのですがC型客車は見かけからすると岩崎レール工業製?

C型5号の座席はロングシートです。
C型客車の座席は転換クロスシート(と書くと豪華そうですがパイプ椅子みたいなもの)が多いので珍しいです。
そう言えばC型客車とよく似た坂川鉄道ハ1形の座席はロングシートでした。

車内にはプリムス製GLのNo.9(1927年製王滝署所属)や浅田鉄工所製DLのNo.24(1932年製王滝署所属)など貴重な写真の展示も。

入口脇のロングシート末端から車掌弁が立ち上がってます。

後ろの運材貨車は塗り替えや滅失のため番号やメーカープレートが見当たりませんが形状からすると岩崎レール工業製の長野営林局型と言われるものでしょう。鋼製のモノコックタイプ台枠を持ちます。

長野局内では最もポピュラーなタイプ。
錆止めで塗られただけなのか赤い車体。
投稿日:2017-02-16 Thu
木曽町旧・三岳村の三岳小中学校前に保存されている機関車+客車+運材貨車編成。機関車は上松運輸営林署のNo.98(旧番No.113)。
1952(昭和27)年購入の酒井工作所製8t機、当初からディーゼル機関車です。
台枠は木曽の林鉄で一般的な鋳物台枠ですがボディがL字型でなく凸型なのが特徴。
酒井工作所のメーカー形式B型というタイプで東京局の千頭、気田署にもいたようですが現存するのは上松運輸署のNo.98,99だけでしょうか。
蒸機の置換え目的で導入されたものの長距離運転には適しておらず、無煙化決定打は湘南フェイスの10tキャブフォワード機C4が増備されるまでお預けとなりました。

セミセンターキャブタイプの機関車が林鉄では珍しいタイプです。

C4が登場するまでは蒸機やボギー式DL、L字型ボディの8t機などと混じって中距離の小川線や区間運転に使われ、その後は上松の入換機となっていたようです。
入換機時代にキャブの上部左右に補助灯を増設していたようですが中央の前照灯を含めいずれも残ってません。

セミセンターキャブのロングノーズ側(エンジン側)前面は4枚窓なのに対しショートノーズ側は3枚窓、国鉄のC5,C6形貨車移動機のような感じです。
エンジンは日野DA57(100ps)を搭載しているとか。ショートノーズ側には燃料タンクが収まっています。

サイドビュー。鋳物台枠の重量感のためか貨車移動機よりは機関車らしい風格が漂います。
ロングノーズ側のボンネット側面下部に見える斜めの開口部はキャブ内の砂箱から車輪への砂撒き管取付跡。

鋳物台枠は中央に楕円に収まったSKWマークが入る新しいタイプ。昭和30年代に製作されたものと思われます。
というのも本線上でNo.98とNo.107(L字型ボディの8t機)が正面衝突事故を起こした際に台枠を割ってしまい新品に交換したためとか。

キャブ内。運転席はやはり片側向きのみ。
L字型機ならボンネット内に収められる砂箱がキャブ内にあるのが特徴。
レバーは一番長いのがブレーキレバーのようですが後の逆転器、変速レバーとがどっちがどっちだか?
3本のレバーと別に中央にはエアブレーキの配管も見られます。
座席に隠れてますが足元にはクラッチも。トルコンはありません。
投稿日:2017-02-15 Wed
農林省石川食糧事務所の専用線。食糧事務所と言うことからすると農林省と言うよりは外局の食糧庁の管轄にあったはずです。
輸送品は政府米だったのでしょう。
加賀百万石の城下町(ただし加賀藩で生産される米のかなりの部分は越中産(つまり今の富山県産)だったとも聞きますが・・・^ ^;)だけに大きな倉庫群が並び、その中にアヤシゲな線路が敷かれたままになってます。
作業キロ:0.3㎞
作業方法:社機

野町方から見た西泉駅。隣は北陸鉄道が経営するボーリング場ジャンボボール。小中学生時代よく遊びに行きました^ ^;
かつてはここにヤードがあり食糧事務所専用線もここから分岐していたようです。
この専用線は専用線一覧では1953(昭和28)年版~1970(昭和45)年版に載ってます。
また1946(昭和21)年の航空写真に倉庫、専用線とも写っているので敷設時期は戦前、戦中。
使用停止時期は1970(昭和45)年にジャンボボールができているので、同年の専用線一覧には載っているものの実際には既に使用停止されていたものと思われます。

食糧事務所側から西泉駅方向を見た様子。
北日本紡績跡(こちらにも1964(昭和39)年版まで作業キロ0.1㎞、作業方法社機の専用線があった)にはど派手なパチンコ店が建ちました。

道路を挟んでそのままレールが残る食糧事務所倉庫。
線路は構内で2本になってます。左は積卸線、右は機回し線でしょう。

古めかしい倉庫群の前に側線。今となっては大変貴重な光景で映画なんかの撮影に使えそうですが。
幼稚園の頃、通園バスがここを通ることがあり子供心に強烈な印象を受けたこの光景・・・最初に見てから四半世紀以上経ちますがこの雰囲気は全く変わっていません。

機回し線は30年前の時点でも分岐部以外は撤去されてました。
側線、も電化されており北陸鉄道の電気機関車(または電車を機関車化した電機モドキ^ ^;)がそのまま乗り入れてました。
北鉄のことなので路面電車のような直吊架線だったのでしょう。

線路と反対側の面。
食糧庁は2003(平成15)年に廃止されており、各地方の食糧事務所も閉鎖されています。
この倉庫の門の看板も外されており現在はどういう状況なのか不明。
続きを読む >>
投稿日:2017-02-10 Fri
やまばと号の客車2両。機関車と同時期の岩崎レール工業製1959(昭和34)年3月頃納入と思われますが実際の製造時期を聞いたことはありません。
登場時は湘南色の緑と橙に塗られていましたが後にこの空色と黄色に変わっています。
子供たちが絵本で見る東海道線を走る80系、153系電車の雰囲気を・・・ということだったのでしょうか。

全2両が保存されています。
丸瀬布にいるB型客車No.14とよく似ていますがNo.14は1段窓なのに対しこちらは2段窓で車体長も短いです。

台車はNo.14と同じくアーチバー式の台車。

2010(平成22)年のやまばと号。
この時は塗装仕立てでした。この時ドアの部分だけ黄色の面積が広いやまばと号オリジナルの塗り分けとなりました。

2003(平成15)年9月23日撮影のやまばと号。
2017(平成29)年2月現在よりも塗装はくたびれてました。扉の塗り分け線が今と違っています。

この頃は車内にも入れました。外板は鋼板で内装は木材の半鋼製客車。
小さなクロスシートが並びます。
冬場の暖房は市販の家庭用石油ストーブを持ち込んでました。
津軽鉄道の石炭ストーブ列車などかつてはストーブ付きの客車がありましたが車体据え付けの専用のストーブでした。
一般の鉄道、消防関係者が聞いたら呆気に取られそうです。
なおやまばと号客車は予備車がないので検査や故障時などの代車には営林署のB型客車が使用されたようです。
投稿日:2017-02-08 Wed
長野県木曽郡王滝村最奥部の集落滝越地区には王滝小中学校滝越分校がありましたが1959(昭和34)年3月に村の中心部田島の本校に統合されます。当時は本村と滝越をつなぐ車道がなくスクールバスは運転できません。というわけで王滝森林鉄道の滝越~田島12.2kmにスクールトレインやまばと号が運転されました。
機関車は酒井工作所で7t機が新製され、営林署の機関車と似たような塗り分けながら鮮やかなオレンジに色に塗られていました。
機関車表 フル・コンプリート版(沖田 祐作・著/ネコ・パブリッシング)によれば1959(昭和34)年4月製造(納入?)、製番6298。

やまばと号客車と編成を組んで滝越水交園内に屋根付きで保存されています。
なおこの場所は滝越分校の跡地でもあるとのこと。

以前はラジエター前に王滝村所有を示す「王」のエンブレムが付いてましたがいつの間にか無くなっています。
末期は割れていたので落ちて紛失してしまったのか?
酒井の機関車と言えばHゴム押さえ3枚窓の前面スタイルと言うイメージが強いですが木曽の場合はこの時代Hゴム押さえ2枚窓が主体でこの辺では意外と少数派。

説明板には「AC40型ディゼル機関車」とあります。酒井工作所のメーカー形式で鋳物台枠の機関車は「A型」と言いましたがその中でさらに細かく分類された形式なのでしょうか。

オリジナルのラジエター前に新しい自動車用っぽいラジエターが入ってます。
配管も剥き出しで後付け感あり。オリジナルのラジエターが水漏れでも起こして交換したのでしょうか。
トルコン付きらしく運転席を覗くとクラッチペダルが見当たりませんでした。
営林署の機関車と同じくエアブレーキも装備しています。

7t機なので上松運輸営林署No.84とは同クラス。5t機と比べれば台枠の厚みがあるためかなり大きく感じます。
投稿日:2017-02-04 Sat
飯田駅にも専用線がありました。飯田駅の貨物取り扱いは59・2ダイヤ改正を目前にした1983(昭和58)年1月16日に廃止されており、専用線もその時に廃止されたものと見られます。①飯田製材工業
専用線一覧1951(昭和26)年版~1983(昭和58)年版まで確認
作業キロが短くなるのは一部区間が輸入石油専用線に編入された為か?
作業キロ:0.4km→1957(昭和32)年頃0.2km
作業方法:国鉄機、手押
②中部電力
専用線一覧1951(昭和26)年版のみに記載
作業キロ:0.3km
作業方法:国鉄機、手押
③輸入石油
専用線一覧1957(昭和32)年版~1983(昭和58)年版まで確認
作業キロ:0.1km
作業方法:国鉄機、手押 専用線一覧1983(昭和58)年版では「手押」が「移動機」に変わる(アントでしょうか?)

飯田駅構内を豊橋方より見た様子。
左の駐車場は貨物ホームを利用しています。
右にも貨物側線が拡がりかつては両側に貨車や電機が並んでいたようです。

①飯田製材工業、③輸入石油の専用線は暫くは本線を走り豊橋方へ延びていたようです。
②の中部電力専用線は調査しても正体が分かりませんでした。
場所柄水力発電の資材輸送かとも思ったのですが当時近くで中部電力の水力発電所工事は見当たらず別の目的だったのでしょうか??

知久町踏切(飯田駅から2つ目の踏切)を越えると西側(左)に側線が分岐していたような敷地があります。

知久町踏切から豊橋方を見た様子。やはり右に分岐してます。
飯田製材工業は右奥の建物(今も工場らしきところ)辺りにあったのでしょうか。

カーブする本線に並行して専用線跡らしき路盤が続いています。この辺から先が輸入石油専用線?

暫く平行する道がなく裏へ回ると輸入石油の油槽所が見えます。側線は線路手前側で油槽所は向こう側・・・。
さらにこの右には専用線第3者使用で入っていた信南交通のバス車庫も。
専用線はこちら側にあって石油は飯田線の下をパイプで越えてタンクへ送っていたとか?
飯田線の本線自体が急勾配で切石駅へ下って行く区間であり、左の一段高い駐車場となっている敷地に側線が続いていたのかも知れません。
投稿日:2017-02-03 Fri
飯田線で飯田へ向かいますが一駅手前で降りて沿線を歩いて見ることに。
切石駅で乗ってきた313系3000番台車を後打ち。
伊那電気鉄道時代以来の鉄製架線柱が残ります。
伊那電区間の特徴は谷に当たれば谷底まで下り川の上流まで迂回し最低限の橋を架けるという線形・・・まるでどこかの林鉄のような線路選定法。

急カーブ、急勾配で谷底へ下って来る天竜峡行。
また313系3000番。飯田線には213系もいるのですが意外となかなか当たりません。

少し先へ進むと
むむ・・・こっちの踏切の方が雰囲気良かった(爆)
左の架線柱は何と木柱。JRに木製架線柱ってまだあったんですね。

上の画像で左に続いていた坂を上り伊那電架線柱を撮影。
四角錐に組まれ下の方だけ交差する斜材が入る形状。
伊那電と言えば木造ダブルルーフの省電・・・リニア鉄道館のモハ1035の車幅を狭くしたようなスタイルの電車。

または凸型電機デキ1・・・現在の近江鉄道ED31の武骨な姿が想像されます。
この架線柱と組み合わせて見てみたいものですが・・・。
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