投稿日:2016-07-31 Sun
丸瀬布で雨宮と対と言って良いような客車です。上松運輸営林署に転じてからはB型客車のNo.14として使われていました。
岩崎レール工業1956(昭和31)年8月製造の銘板があり、新製当初北見営林局に納入されたそうですがどの営林署で使われてたのかが分かりません。
北見局の林鉄では丸瀬布(丸瀬布)、濁川(滝上)、温根湯(留辺蘂)、津別(津別)、置戸(置戸)が候補として挙げられますがいずれの路線かまでは分かりません。
※()内は営林署名
北見営林局事業統計書からすると各署とも1、2両の客車は持っていたようです。

現在の塗装は茶色とクリームの落ち着いた色。
北見営林局温根湯林鉄の客車ダルマの外板から出てきた塗装を元に塗った塗装だそうです。
木曽ではくすんだ茶のような紫のような微妙な色をしていました。
寸又峡で保存されている千頭森林鉄道の客車や王滝村のスクールトレイン「やまばと」号と似たようなスタイルです。
細い窓がある場所は車掌室に当たる場所でハンドブレーキがあります。

車内はこんな感じ。
千頭と違って車内灯はありません(林鉄客車ではある方が珍しい)。
床板は元の木版の上に滑り止めのチェッカープレートが張られてますがこれは丸瀬布で行った改造でしょうか?

運転時にはこんなサボが入れられてました。
武利意幹線の快速「むりい」だそうで(笑)
そういえば木曽でも「みやま」「おんたけ」「みどり」と言った愛称やサボがありましたね。

鉱車との連結部分。常に連結を組む鉱車はフック・リンク連結器、客車はピンリンク連結器なのでいわゆる朝顔カプラー。
両方式の車両を連結するのに問題はないのですが常時連結してるなら負担が大きい部分は決まってるのでその部分(朝顔カプラーの下)に補強が入ってます。
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投稿日:2016-07-29 Fri
こちらもホハ18、19と同じく1925(大正14)年日本車輌製。見た目もほとんど変わりませんがこちらは井笠鉄道が発注した客車。
井笠ではそれ以前の客車がオープンデッキだったのに対し扉付で登場しましたが、ホハ18、19と同じく西武でオープンデッキに改造されました。
ホハ18、19と同じ経緯で丸瀬布まで来ています。
なお西武山口線時代はホハ13→37、ホハ14→38となっていました。

ホハ13の後ろ姿。
こちらは後部妻板が撤去され展望車となっています。

ホハ14は上回りを解体され、現在どのように改造するか検討中とのこと。
台枠には西武鉄道の文字がそのまま。

丸瀬布林鉄21号+井笠ホハ19+井笠ホハ13の編成。
西武で改造される前はホハ18、19は両端のドア下に大きなステップが垂れ下がっていたのに対し、ホハ13、14はドア下もストレートになっていました。
ホハ18、19のステップが撤去されると区別を付けにくいですね。
投稿日:2016-07-28 Thu
丸瀬布の客車というと元・井笠鉄道の客車がいますが標記が消されてていまいち元の番号がよく分かってませんでしたが一応特定できました。と言うわけでまずは元・井笠鉄道ホハ18、19号から。
ルーツを辿ると両備軽便鉄道(現在のJR福塩線 福山~塩町の前身)が1925(大正14)年に日本車輌で新製したナ19、20号。
両備軽便鉄道は同時にナ16~20の5両を購入してますがナ16~18は1933(昭和8)年に両備鉄道(国有化時には「軽便」の2文字が取れてた)が国有化されたとき路線と一緒に鉄道省に籍が移ったものと見られます。
ナ19、20は国有化からから漏れた支線(高屋~神辺)を別会社化した神高鉄道に引き継ぎ。
ところがこの会社も一支線だけでは経営が立ち行かなくなり、両備時代から神辺で接続、相互乗り入れも行っていた井笠鉄道が1940(昭和15)年1月1日に運営を引き継ぎ同鉄道の高屋線に編入しました。
ナ19、20は井笠鉄道ホハ18、19となり、井笠鉄道線全廃の1971(昭和46)年まで使われたようです。
その後1972(昭和47)年より西武鉄道山口線の蒸機運行用として井笠鉄道1号機とともに西武鉄道へ送られ西武35,36号となっています。
1985(昭和60)年に山口線が新交通システムに改修されてからは西武鉄道が運営していた遊園地ユネスコ村に静態保存されてましたが1993(平成5)年に丸瀬布入りして動態復活したとのことです。

両備ナ20→神高→井笠ホハ19→西武36と移り変わった客車。
丸瀬布では番号標記がないですが展望スペースがない方の車両ということで見分けられます。
井笠時代はオープンデッキではなくドアがあり、ドア下には大きめのステップもあったのですが西武(ということは所沢工場でしょうね)でオープンデッキに改造されたようです。
原形のままと思ってましたが結構大胆にいじられてますね~。

両備ナ19→神高→井笠ホハ18→西武35。
こちらは西武時代のまま。ローズピンクは西武旧型電機のイメージでしょうか。
そう言えばステップだけでなく台車もより小型のダイヤモンドトラックに交換されています。
両備鉄道の本線はナローながら1927(昭和2)年に直流600Vで電化(神高鉄道となる支線は非電化)されておりこれらの客車も日立製凸型電機に牽かれたこともあったはず。

35(井笠ホハ18)の妻面には西武時代の標記もそのまま。
2016(平成28)年8月5日追記
両備鉄道から鉄道省に移った3両内2両の行方が分かりました。
ナ16、18は両備鉄道引継ぎの福塩線(福塩南線)が1935(昭和10)年に改軌完成したことで同線起点の福山から瀬戸内海の鞆の浦へ延びていた鞆鉄道へ払い下げられていました。
鞆鉄道は1954(昭和29)年3月に鉄道営業を廃止しておりこの2両も同時に廃車されたと見られます。
残るはナ17ですがどこかに払い下げられたのか国鉄で廃車になったのか?
両備ナ16→鉄道省ケコハ235→鞆ボハ11
両備ナ17→鉄道省ケコハ236?→?
両備ナ18→鉄道省ケコハ237→鞆ボハ12
両備ナ19→神高ナ19→井笠ホハ18→西武35→ユネスコ村(静態保存)→丸瀬布いこいの森
両備ナ20→神高ナ20→井笠ホハ19→西武36→ユネスコ村(静態保存)→丸瀬布いこいの森
投稿日:2016-07-25 Mon
車庫の下にいるユニークな車両群。武利森林鉄道で使われたという緩急車。
1983(昭和58)年に丸瀬布郷土史研究会が払い下げを受けたとありますが、それまではどこかで放置又は倉庫代用に使われていたのでしょうか

緩急車と言ってもほとんど有蓋貨車という感じです。
蒸気機関車の次位に連結され燃料の薪も積んでいたと言います。
妙に窓が縦長なのは車内から機関車へ薪を受け渡すためでしょうか?

林道などでよく見る看板ですが車両に付けてたというのは珍しいですね。
果たして現役時からの物かは不明ですが営林署、担当区と言う呼び方も既に過去のもの。

逆富士形の台枠に軸受が付いているという何とも古そうな足回り。
何よりブレーキシューが付いてない??これでは緩急車の役目が果たせませんがどうなっていたのでしょうか??
復元時に貨車ダルマ状態だったものに別の台車をあてがったのかも知れません。

横にはもっと新しそうなカブースもいますがこちらは運転用に復元したものでしょうか。
投稿日:2016-07-23 Sat
超が付くほど有名な雨宮21号機。1928(昭和3)年に雨宮製作所で製造された11tサイドボトムタンク蒸機。
丸瀬布起点の武利森林鉄道の敷設工事から使われていたものと思われます。
同林鉄は北海道庁拓殖部林務課が敷設した森林鉄道で雨宮蒸機はNo.18、19、20の3台が新製配置されました。
内No.18は間もなく落合林鉄へ転属。No.19,20が残り、林政統一後にNo.19がNo.21に改番されています。
ディーゼル機導入により廃車されたのは1957(昭和32)年、その後も林鉄全廃を前にした1961(昭和36)年に一度さよなら運転されたようです。

その後も丸瀬布で保存され、1979(昭和54)年にいこいの森で動態復活・・・林鉄現役時代より動態復活してから現在までの期間の方が既に長くなっています。
北海道の文化財、そして有力な観光資源の一つとなっているのは周知の通り。
北海道遺産、経産省近代化産業遺産、準鉄道記念物といった肩書を持っています。

運転開始前の入換。まず石炭車のところへ行って石炭を補給。

同僚の鶴居村営軌道のDL横の線に転線。

井笠鉄道ホハ19+ホハ13を牽きだしてプラットホームへ。

ダム湖畔の線路をのんびりと。
この向きは普段の運転とは逆向きだそうです。

太いボイラに小径車輪と言う組み合わせはどことなく国鉄の9600を小さくして愛嬌のある姿にした印象。

湖畔から駅までは煙が出る区間。

村営軌道DL牽引の列車との交換風景も見せます。
丸瀬布営林署の蒸気機関車は1958(昭和33)年度で全廃。
資料によって廃車時期が違うものの最後まで残った蒸気機関車は以下のようです。
番号 | 製造元 | 製造年 | 軸配置・形式 | 備考 |
20、21 | 雨宮製作所 | 1928(昭和3)年 | Cサイドボトムタンク機 | 21号がいこいの森で動態保存 |
13、14、15 | 鉄道省釧路工場 | 1943(昭和18)年 | B1リアタンク機 | Baldwin機のコピー |
35 | 本江機械 | 1941(昭和16)年 | Cサイドタンク機 |

ディーゼル機には木曽へ転属し長野営林局No.139になるNo.52や温根湯から転属してきた林鉄最大最強の協三15tボギーDLなどがいました。
参考文献:
日本の森林鉄道 (上巻) 蒸気機関車編(小熊 米雄 著/エリエイ出版部)
北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について(小熊 米雄)
北見営林局事業統計書(北見営林局)
投稿日:2016-07-20 Wed

石北本線をオーバークロスしたところから見える網走川が流れる下段。
河岸段丘上段と似たような農地が拡がり転々と住宅があります。

50mほどで西女満別駅への入口に到着。
ここからは未舗装。路面は砂利でなく土なので雨が降ったら泥んこ道でしょうね。

待合室。入口はちゃんと2重構造になってます。
網走まで行って折り返してきたときには高校生が降りて行ったので日常的な利用者もあるようですね。

キハ40 726の網走行が到着。
キハ40系列は高山、紀勢線でも見なくなったので久し振りの乗車。

北海道のキハ40は2重窓で側窓サイズが小さいため側面から見ると両端を除くと別形式のよう。
網走に停車するや否や駅員さんがサボを交換。
そういえばサボをはめて運用に就いてる姿も北海道以外では見た覚えがないですね。
投稿日:2016-07-19 Tue
北海道行第一回目珍しく航空機ものから始まり??です。
まずは名鉄特急で中空へ。

中部国際空港~女満別ANA327便(B737-800)に乗ります。

曇ってるのでほとんど富士山だけが目印。
手前にちょっと突き出ているのは木曽山脈でしょう。ということは馴染みの大森林鉄道地帯木曽上空・・・空からでも発想は変わりません(笑)
モクモク噴き出してる御嶽山の真上を通過してその内雲間からアルピコ交通新島々駅付近が見えました。

安曇野上空。
その後は雲が多くてなかなかわからず(大糸線上を飛んで糸魚川に出たらしい)次に見えたのは柏崎。
大河津分水が見えさらに越後平野をのたくる中ノ口川・・・去年行った旧・新潟交通月潟駅上空を通過した模様。
また行きたくなってきました。

上沼垂や新潟貨物ターミナルを通り今度は熊手型に切り込んだ新潟東港がくっきり。
この時も頭の中にあったのは旧・新潟臨海鉄道(爆)

その後は雲で下界は全く見えず中空から2時間もしないうちに女満別空港着。

空港から一歩出ればこの長閑さ。
空港から徒歩でこんなところを行くギャップが楽しい田舎道。

15分も歩けば石北本線をオーバークロス。
見た目では山中の秘境路線かと思われそうですが網走川の河岸段丘の上段(空港がある)、下段境目の幅が狭い樹林帯の中を線路が通ってるだけで特に秘境路線と言うわけではありません。
この樹林は冬季の暴風雪に対する鉄道防護林と言う意味合いもありそうです。
投稿日:2016-07-13 Wed
停留場の田口、田峰森林鉄道について「「新城営林署の森林鉄道」で再編集しましたが、次回は長野営林局坂下営林署を準備中。地方私鉄坂川鉄道として営業した坂下森林鉄道1級線や謎の多い同2級線、県境を越える田立森林鉄道1,2級線、湯舟沢森林鉄道(2級線)が対象です。
その中から坂川鉄道の車両について先に一部を載せます。
ハ1形客車
※開業当初の形式はカ15で1938(昭和13)年3月にハ1へ形式変更。
車両数 :2両(ハ1、2)
車種 :四輪車等級無(二等車を訂正)
製造年 :1926(大正15)年
製造 :岩崎レール商会
自重 :1.55t
定員 :座席8人 立席6人 計14人
最大寸法 :L 3251.2mm × W 1955.8mm × H 2825.75mm
固定輪軸距 :1066.8mm
連結器中心高 :381mm
車輪径 :457.2mm

木曽のC型客車とよく似ていますが足回りは運材貨車流用ではなくスプリング入り。
車内の座席はテレンプ張りのロングシートとなっており旅客鉄道らしい体裁を整えてます。
通風器は屋根上にトルペード型ベンチレータが2基。
右の妻面(新坂下側)に飛び出しているのは手ブレーキのカバー。当時の大多数の森林鉄道と同じように坂川鉄道の車両には貫通制動が無く、機関車の汽笛合図で客、貨車に乗務した車掌、ブレーキ手が手ブレーキ操作していました。
1944(昭和19)年12月1日の坂川鉄道営業廃止、帝室林野局へ路線譲渡時に機関車、貨車は引き継がれてますが客車はどうなったのかわかっていません。
戦中の混乱期で代替交通機関(濃飛乗合自動車バス路線)も休止状態だったというので便宜上しばらくは使われていたのではないかとも思いますが・・・。
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