投稿日:2016-04-27 Wed
名鉄尾西線佐屋駅から旧佐屋川跡の砂山へ延びていたという側線。尾西線がまだ尾西鉄道だった大正時代からあった側線のようです。
鉄道省名古屋工場(現在のJR東海名古屋工場)建設時にここから土砂を供給したと何かで読んだ覚えがありますが何で読んだのだったか。
名古屋工場は関西本線の前身である関西鉄道が1890(明治23)年に四日市駅構内に置いていた四日市工場が1924(大正13)年に名古屋に移転したものです。
当初は非電化で尾西鉄道の蒸機(明治村にる12号などか)が使われていたものと思われますが、後に600V電化されたようで尾西鉄道引継ぎの凸型電機デキ1が集電装置をパンタからポールに換装して当側線専用になっていたそうです。
ポールに換装していたということは電化設備も路面電車並みの直吊架線だったのでしょうね。
砂山側線路線図

尾西線佐屋駅の弥富方(南西側)から分岐していました。
この辺にはかつて旧・尾西鉄道のマッチ箱客車の廃車体も置いてあったようですが面影はなし。
1948(昭和23)年12月に直流600V用のデキ1がポール付きで佐屋砂山側線常備という記録があるそうですが、同年5月12日に尾西線弥富~佐屋~津島の架線電圧が直流600Vから1500Vに昇圧されており、砂山側線だけ600V電化で残していたということになります。
側線と本線の架線の間には1500Vを600Vに降圧するための設備やデッドセクションも設けていたのでしょうか。

デキ1牽引の砂輸送列車のイメージ。
デキ1は尾西鉄道EL形。元々本線用ではなく入換機だったようで木曽川橋~木曽川港の貨物線などで使われてたようです。
ドイツのシーメンス製なので同一メーカー製の上信電鉄デキ1のショーティ版という雰囲気。

参考までに上信電鉄デキ1。
製造時期も同じ1924(大正13)年で窓の上部だけRが付いているなど共通点が多く見られます。

側線は正面に見える高圧線に近いルートを通っていたようですが区画整理で跡形もありません。
1959(昭和34)年の伊勢湾台風後の航空写真でも既に跡形もなかったので廃止は昭和20年代半ば~昭和30年頃と思われます。

北側の佐屋駅の通りから側線跡を見た様子。田園の右に草や灌木が茂った土地が見えますがここには19世紀末まで佐屋川が流れていました。

右が佐屋駅方で真ん中辺りを側線が横切ってたはず・・・。
後ろの佐屋川廃川敷は藪に覆われているものの今でも若干砂山がみられます。
佐屋川は木曽川の支流で、中世には舟運を利用した交易も盛んでした。隣の津島の町は港町として大いに栄え、この辺りに地盤を持っていた織田家が富を蓄えました。後の代の織田信長が天下統一へ向ける財力の基礎を築き上げたわけです。
今はただの藪の帯に過ぎないこの地はかつて多くの商船が行き交った航路の跡でもあるのです。

さらに進むとかつての佐屋川の中。
佐屋川は江戸時代に土砂で埋まっていき船が通り辛くなっていきます。
尾張藩は何度か浚渫工事を試みますが成果は得られず、明治に入るとオランダ人技師ヨハネス・デレーケの明治治水により佐屋川は締切工事が行われ、1900(明治33)年の工事完成と共に川としての生命を終えました。
後には江戸時代に尾張藩や住民を悩ませた堆積土砂が残りますが、これを建設資材として利用しようと砂山側線が敷かれたのでしょうね。
砂山側線は長い歴史の中のほんの僅かな期間の存在ですが調べると面白いもの。
国道155号線を渡ると砂積込み場のヤードがあったはずですがこちらは廃川敷の雰囲気さえも無くなっています。
スポンサーサイト
投稿日:2016-04-23 Sat
毎日通る稲沢の愛知機関区をよく観察するとたまにこんなものも現れます。
JR貨物のDE10(国鉄色)がいるだけ・・・ではなくて何かが違うような。

衣浦臨海鉄道のKE65 5でした。
全般検査を大宮工場(埼玉県さいたま市)や後藤工場(鳥取県米子市)で行っていますがこれも入出場途中の様子だったのでしょうかね。
このKE65 5は1970(昭和45)年川崎重工兵庫工場製の国鉄DE10 573で、関東方面で使われた後国鉄時代末期の1987(昭和62)年2月に廃車、国鉄清算事業団経由で衣浦臨海鉄道へ譲渡されたそうです。
民営化時にJRに引き継がれなかったDE10形500番台車(現存する1000,1500番台とはエンジンが違って若干出力が弱いらしい)の生き残りということです。

因みに本物の愛知機関区所属機DE10 1726(1500番台機 1975(昭和50)年川崎重工大阪工場製)と並ぶとセミセンターキャブの前後向きが逆になっているのが分かります。
←神戸方 東京方→
参考文献:機関車表フル・コンプリート版DVDブック (沖田祐作/編)
投稿日:2016-04-17 Sun
熊本の地震、最初の地震の後4月15日(金)の時点では新幹線回送車が脱線したもののは市電や熊電、在来線は動いてました。ところがそのあとで本震が来て全部止まってしまい・・・。後から後から被害が広がってどうも性質が悪いですね。早く収束して欲しいものです。
またも田口鉄道です。
田口鉄道は御料林の木材輸送に重きが置かれ宮内省の出資比率が非常に高い半官半民のような鉄道でしたが、戦後1947(昭和22)年4月に御料林を管理していた宮内省帝室林野局が林政統一で農林省林野庁に移管されると宮内省の後ろ盾がなくなります。
宮内省の穴埋めに名古屋鉄道が入りましたが貨物で新たな収入源確保を模索していた田口鉄道は砕石業に乗り出しました。
既に戦時中の1942(昭和17)年8月1日に三河海老付近(正確な場所不明)にて砕石機1台で自家用の線路用砕石生産を行っていましたが営業用に本格的に経営を始めたようです。
1949(昭和24)年11月7日申請で本長篠起点13,235m49地点(滝上駅の400mほど三河田口寄り、稲目トンネル付近)の25‰勾配上の本線から分岐、並行する80mの側線を敷設という記録が国立公文書館にありました。
また1955(昭和30)年8月には2,700坪の原石山を購入、砕石機3台で月1,200㎥を生産ともあります。
稲目トンネル付近の採石場は道路化などで面影がまるで分かりませんでしたが、三河大石~三河海老の双瀬(ならぜ)トンネル付近にあったという採石場と砂利側線分岐部は若干それらしい雰囲気があります。

柱状節理のダイナミックな坑口で廃線ファンには有名な双瀬トンネル三河田口方。
このトンネルを出てすぐの場所に採石場と側線があったそうです。

さっきの写真の位置から振り向く(三河田口方面を向く)とこのような感じ。
線路跡左がどうも土を盛って植林した感じ。よく見ると「保安林」と書かれた札もあります。
採石場跡が崩壊してくるのを防ぐために側線やクラッシャー(石を砕く装置)のあった場所に植林したのでしょう。
双瀬の採石線は三河大石~三河海老間の本線上からの分岐ですが貨物列車の発着は起点の本長篠寄りで最寄の有人駅(停車場)だった玖老勢駅扱いとしていたようです。
1955(昭和30)年度の玖老勢駅貨物発送量を見ると前年度比で実に4,488tの増加が見られます。

参考文献:田口鉄道仮側線敷設に伴う線路勾配特別設計(田口鉄道)
設楽の文化財9 図録.田口線と用具(設楽町教育委員会)
愛知県統計年鑑(愛知県)
おまけ

以前上げた田峯駅の新城営林署竹桑田土場側線貨物ホームが花で溢れてました。
写真を撮りに来たご夫婦もいてその方向でも結構知られた場所なのかな?
投稿日:2016-04-10 Sun

もう1台のク110形ク114。ク111~113は?というと1の位の番号をク160形ク161~ク163の続番としているのでいないようです。
こちらの編成は2両目が元モニ228)のサ122。シル、ヘッダ付き屋根布を張った旅客荷物合造電車が元となっているので1、2両目でスタイルが異なります。

八王子線西日野を発車していくところ。
ク114も三重交通サ360形サ361でサ124と同じく1954(昭和29)年ナニワ工機製。こちらも内部・八王子線生え抜きです

八王子線運用で日永駅に到着するところを俯瞰で撮影。
屋根上を見るとベンチレータが妙な配置に・・・元々3つあったところに増設したか交換されたのでしょうか。

あすなろう四日市を出て近鉄名古屋線の高架下から駆け出してくるク114。
前面スタイルはモ260、ク160形に合わせてますが丸っぽい車体から切り出ししたため細部に違いがあります。
最大の違いは前面窓の大きさが多少狭いことでしょうか。
投稿日:2016-04-07 Thu

日永駅。内部線と八王子線分岐の扇型ホーム真ん中に桜の木があります。
四日市行きはモ265+サ124+ク115の編成。

サ124はサ120形で唯一丸っこい車体にバス窓を持つ車両。
サ121~123は元々モ220形を電装解除した角張った車体です。
サ124は1954(昭和29)年ナニワ工機が製造。
三重交通サ360形サ362→近鉄サ130形132→近鉄サ120形サ124→四日市あすなろうサ120形サ124と会社や車号は移り変わってますが生まれてからずっと内部・八王子線生え抜きです。
手前の窓がない区画は元々車掌スペースで乗務員扉がありました。
貫通編成化される以前は端面もバス窓が2枚並ぶかわいらしい姿でした。

ク115も元々三重交通サ360形サ363でサ124と同年生まれの同形式車でした。
ただしこちらは製造が帝国車輌で一時的に北勢線に移っていた時期もありました。
三重交通サ360形サ363→近鉄サ130形133→近鉄ク110形ク115→四日市あすなろうク110形ク115。
こちらは車掌スペースが運転席となっています。

小古曽付近を行くク115+サ124+モ265。これだけバス窓が並ぶ編成も今では珍しいですね。

晴れた日の四日市付近を行く同編成。
投稿日:2016-04-02 Sat
四日市あすなろう鉄道内部・八王子線は通常3両編成ですが車両検査の都合なのか午前中を中心に2両編成の列車が運転されています。編成はモ262+ク162で車体長や形態が揃っています。

まずは日永駅北方の鹿化川堤防から桜との組み合わせ。
ここは季節ネタであって特に2両編成らしい写真目当てではないです。
因みに線路左のスペースは鹿化川橋梁架け変え前の旧線跡。

続いて日永駅南方の踏切から。

内部線沿線はここ最近編成写真向けの広々とした好撮影地が相次いで姿を消しています。
追分駅西方の築堤をアウトカ-ブから狙えたポイントにはアパートが建ったので小古曽駅寄りの田園地帯へ移動。

南日永~泊の築堤は今まさに宅地分譲中だったのでその一つ南日永寄りの踏切から。
△ PAGE UP