投稿日:2015-12-30 Wed
毎年恒例の年末旅行、今年は房総、北関東へ行ってきました。見場だった東金線を回って外房線大原駅着。関東非電化私鉄巡り6以来のいすみ鉄道乗車目的ですが列車はまだ入線してません。

ちょっと大原の街中を回ってから大原駅に戻ってくると到着キハ28-2346+キハ52-125が到着していました。

この車両が12年前の夏に氷見線で使われていたところをたまたま高岡駅で撮影しています。
さらに前には電化前の七尾線、小浜線にいたので金沢在住で小浜線利用者だった僕にとっては馴染みの車輌です。
探せば他にも写真が出て来るかも知れません。
というわけでキハ28に乗ろうとしたらこの日は1両貸切で乗れませんでした(T T)
やむなくキハ52に乗車。こちらも越美北線、大糸線で馴染みの車輌です。

国吉で停車時間中に撮影。
観光列車なのですが見たところ観光客だけでなく地元の方の利用も多かったです。
そうなると気になるのは急行料金300円のこと。
好きで乗りに来てる私らのような人間は300円だろうが1000円だろうが上乗せしても構わないのですが普段利用する人にとっては負担なのでは?かといって次の普通を待つと1時間余計に待たなければならないことになるので止む無く乗っているという気がします。
観光客、鉄道ファン向けでは急行料金値上げしても良いので地元いすみ市、大多喜町在住の人であれば優遇措置として急行料金不要とかできないものだろうか?

上総中野まで行っても接続の小湊鉄道は夕方までないので大多喜で下車して上総中野行を見送り。
城下町をぶらりとして津知家のもなかを買いに行くことにします。

以前来た時に乗ったいすみ206。まだ在籍はしてるようですが倒木に衝突して自走不能になったと聞いた後どうなっているのか分かりません。見た感じ損傷箇所は見当たりませんが。
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投稿日:2015-12-25 Fri
線路建設予定地跡はしばらく消えますが東海道本線(稲沢貨物線)合流直前で再び現れます。
愛知県道67号名古屋祖父江線(国道22号旧道)と交差すると清洲文化広場という遊歩道になっています。
左に見えるのは清洲城復元天守閣。

復元天守のすぐ横を未成線・・・あの上から線形がよく見えるのでは?

と言うわけで上から(笑)
まずは五条川を渡り稲沢線と合流する予定だった方向。
この辺は城北線(計画時は瀬戸線)とどのように合流させる気だったのか全く見当がつきません。
丁度左の稲沢線上をEF64-1000牽引のコキが通過中。
前方に見える高架は小田井で城北線と並走してから分かれ東名阪道へと続いている名二環。

そして今歩いて来た方向を見ると鉄道らしい緩くカーブした線形の清洲文化広場が。
遠くには名古屋高速や城北線の高架も見えています。

この辺で合流するつもりだったのでしょうかね?
前方左の木立は実際の清洲城跡(復元天守閣の場所は実際の清洲城跡ではない)です。
その左から瀬戸線の高架が延びて来る計画だったのでしょうが実際にできていたら清洲城跡は鉄道に蹂躙されつくした史跡となっていたところ。
因みに清洲城址は右(西方向)に拡がっており稲沢線、東海道本線、東海道新幹線は清洲城を東西に分断しています。
投稿日:2015-12-22 Tue
城北線より未成線分岐部の続き~
稲沢への線路が城北線小田井方面の線をくぐるはずだった箇所。

同じ個所を稲沢方から見た様子。

水場川の先、高架が見える名古屋高速6号清須線・名岐バイパス(国道22号線)までは工場、倉庫街で痕跡は何も見当たりません。

渡る場所が全然ない名岐バイパスをかなり大回りさせられ(- -;)てようやく渡ると周囲の区画に対して斜めに並ぶ住宅の列が見えます。線路予定地として整地したものの結局宅地として売却されたのでしょうか。

稲沢方から見た方が分かり易いでしょうか。正面に見える住宅が手前の道路に対し斜めになっています。
後方に見えるのは名古屋高速6号清須線の清須料金所
投稿日:2015-12-21 Mon
城北線3回目ですがむしろここからが本編でしょうか(笑)城北線が国鉄瀬戸線として計画されたときは稲沢から勝川へ向かうのが本線で、枇杷島からの現路線は支線とされていました。
その後国鉄貨物のシェア低下などで貨物主体の稲沢方面ではなく名古屋方面を向いた枇杷島ルートが本線となっています。
稲沢への線路は小田井~尾張星の宮の新川を渡る付近で上下線が大きく分かれる箇所が分岐する計画の名残と言うことはいくらか耳にしますがその他の区間に何か痕跡が残っているかと言う話はあまり聞いたことがありません。
近所のこととてあの辺は工場や倉庫が多く変遷もめまぐるしいので何もないはず・・・と思っていたのですがgoogleマップの航空写真を見ていたらアヤシゲな区割りが見えてきました。
途切れ途切れながらそのラインをつなぐとこんな具合になります。
地図よりは航空写真にした方が分かり易いかもしれません。
国土地理院の航空写真を見ると1971(昭和46)年辞典では線路建設予定地は存在せず1975(昭和50)年から現れています。
どうやら線路用地として買い上げた土地を売却した後もそのままの区割りが残っているようです。

第1新川橋梁の稲沢→小田井合流部の橋脚が2本。

小田井方を見ても高架橋自体には分岐構造はありません。

さっき乗ったキハ11-301が枇杷島から折り返してきました。
高架が大きく右へ張り出していますがここが小田井→稲沢方面の線路をアンダーパスさせようとしていた箇所です。

現橋梁の橋脚も右側スペース開いており、小田井→稲沢の線路もここで分岐して3線構造の橋桁を載せるつもりだったのでしょうか。
つまり・・・

こんな配線にする気だったのかな?

第一新川橋梁の橋脚(未供用側)に埋め込まれた銘板には設計者:日本鉄道建設公団とあります。

新川の枇杷島方で城北線の複線高架が上下左右に大きく分かれます。この真ん中の空間を稲沢への線路が通る予定でした。
投稿日:2015-12-19 Sat
城北線勝川駅の続きです。
城北線高架橋末端から見た中央本線下り線アンダークロス部。

キハ11-202が入庫して夜のイベント運転準備をしていました。

今年JR東海伊勢運輸区から転属してきたキハ11-301。
ステンレス車体とは言え在来車と同一型式な上に元々オレンジ帯を締めてたことから正面から見ると以前とあまり変わった感じがしませんね。
城北線のロゴが入ったので以前は少し物足りなかった前面にいいアクセントができました。

この城北線は名古屋の外郭環状線となるわけで、小田井駅手前までは道路で同じ役割を持つ国道302号線、名二環と一緒に走ります。どちらの道路も交通量が多いのですが城北線は閑散路線・・・本数が少ないことや途中交差する鉄道が名鉄小牧線、犬山線、名古屋市営地下鉄鶴舞線があるにも関わらず接続していないためいまいち使いづらい印象があります。
上の写真では最上段が城北線、左下に犬山線の高架、右の白いフェンス向こうには地下へもぐって行く鶴舞線の架線柱が見えてます。
城北線小田井駅~名鉄・地下鉄上小田井駅はお互い見える近さですが乗換駅としてあまり一般的に認識されてるとは言い難いところ。
元々貨主客従で構想された路線のため名鉄、名古屋市と共同駅設置などで連携するつもりもなかったのでしょうか。
投稿日:2015-12-17 Thu
稲沢から勝川、高蔵寺を経由して瀬戸で岡多線と接続する瀬戸線として計画された現在の東海交通事業城北線。岡多線が当初計画した多治見へ抜けず瀬戸線の高蔵寺~瀬戸と一体化して愛知環状鉄道として開業。
中央線共用区間を除く部分は城北線となり勝川~小田井~枇杷島が開業してますが小田井から稲沢へ抜けるルートは完成していません。
JR中央本線勝川駅構内には城北線乗入準備工事はなされているものの今はかなり離れた高架ホーム上から気動車が時折出入りしているだけです。

JR中央本線勝川駅の塩尻方。中央本線上下線から分岐して真ん中に城北線が入る構造。
本来は稲沢や名古屋貨物ターミナル発の貨物列車を中央本線へ直通させるために計画された路線。

勝川を出ると城北線はすぐに中央本線下り線をくぐるため中央本線のホームが尽きる前に下りに掛かっています。
そのため中央本線のホームが長い割には城北線は電車4両程度しか止まれそうにありません。

下りに掛かるとすぐ路盤が尽き、その先の現・城北線勝川駅まで、高架桁は準備されていません。

下から見ると橋脚に桁を引っ掛けるための出っ張りは付けてあります。
前方には中央本線下り線をくぐるためのスペースも。

下り線をくぐると城北線の高架が迫ってますが、高低差を考えると現在の高架に接続するにはかなり無理がありそう。
現在城北線の高架末端部は車庫代わりになっていますがこの部分は高架を作り直さねばならないようです。
城北線開通から中央本線高架化の間に計画が変わったのでしょうかね?
投稿日:2015-12-14 Mon
枇杷島のセメント専用線続きです。専用線自体はさほど長くもないただの構内側線と言う感じですが荷降ろし装置が残っているのが特徴的です。

道路を跨ぐガーダー橋。この上のレールは撤去済み。
ガーダー横にはコンベアが取り付けられています。

左で貨車から降ろされて橋を渡ると今度は橋の下へ降りて線路下をくぐります。
専門家ではないのでコンベアの内部構造はわかりませんがスクリューコンベアかベルトコンベアでしょうか。
上り調子になっているのでエアスライドではないと思いますが。

貨車の到着線側。年中モサモサに茂ってるのでわかり辛いです。

専用線と稲沢貨物線、城北線、東海道本線をくぐった先でコンベアは途切れています。

以前は枇杷島駅東側にサービスステーションがありましたが枇杷島駅再開発の一環で東口広場のスーパー(左のピンクの建物)となっています。
そう言えばこの柵内には川も流れていましたが暗渠化されて地上から消えました。
投稿日:2015-12-11 Fri
大阪セメント名古屋SSができたのは1958(昭和33)年。庄内川を隔てて名古屋市街に近い・・・後には一続きの市街地のような場所になりました。高度成長期の只中で建設ラッシュからセメントの貯蔵能力も1800tだったのが4000tへと倍増しています。
専用線は最後まで残っていたセメント線のほかにかつては砕石線もありました。
セメントや砕石は主に伊吹山からで近江長岡の同社伊吹工場専用線から東海道本線経由で到着していたようです。
専用線最期の頃の様子は僕も見ており入換用の半キャブが1台おり、専用線へ貨車を推し込み、牽きだしに使われていました。
貨車はタキ1900、19000、12200がいたと思います。
学生時代に見たということは土日にも運転があったのでしょうか。
専用線は1995(平成7)年11月末に廃止とのことなのでこの記事は廃止20周年記念ということで(^ ^)
セメント線
作業方法:国鉄動車、手押
作業キロ:0.1km
総延長キロ:0.2km
砕石線
作業方法:国鉄機
作業キロ:0.1km
総延長キロ:0.1km

車止めがある側線には入換に使われていたJR貨物の協三10t半キャブが留置されていました。
当時はいつ動くかもわからない貨車移動機までさほど関心が無かったため撮っていません(- -;)
側線は今も保線用で使われています。
橋上駅化前の駅舎はこの車止めすぐ左にありましたが今ではススキに覆われています。
そんなに昔のことではないのに既に面影がありません。

一番奥の側線が専用線へと続いてましたが分岐部は残ってません。

城北線や稲沢貨物線の奥が1本行き止まり式の積み降ろし線跡。
ススキやセイタカアワダチソウに埋もれてわかり辛いですが分岐部以外のレールや積み降ろし設備はそっくりそのまま残ってます。

今度は駅から出て外から見ることに。
新幹線の高架向こうに見えるガーダー橋は専用線のもの。
橋の右(枇杷島駅方)には荷降ろし装置の操作所か係員詰所なのか小屋があります。
投稿日:2015-12-08 Tue
芦谷支線林道分岐手前で黒河川を渡る箇所。
これまで見た橋で何も林鉄の遺構が残ってなかったのであまり期待せずに橋の下を覗くと・・・
何か楕円形のコンクリートが転がってます。
ひっくり返った橋脚の根元のようです。

橋上から腕を伸ばして撮影。事故の元なのでくれぐれも身は乗り出さないように・・・(^ ^;)
中身はコンクリート、流れに直接当たる外側は布積み。黒河森林軌道の橋脚と見て良さそうですね。
恐らく根元だけコンクリート&石造りにして上部は方杖橋かティンバートレッスルとしていたのではないでしょうか。
旧・帝室林野局系の林鉄は角張った橋脚が多く丸い橋脚はあまり見掛けませんが旧・農林省営林局系では円形、長円形の橋脚を見掛けます。

芦谷林道分岐からは滋賀への県境越えで勾配がかなり急になります。
むしろ左に分かれている芦谷支線の方が平坦なくらいです。

芦谷支線は専用林道なのでゲートがあります。
しかもゲート目の前ですっぽりと路盤の底が抜けてる様子(^ ^;)
左上にもう一本細い平場が続いているのですが時折見える石積みはこれまでと違う谷積み・・・あまり林鉄路盤っぽい積み方ではないですが果たして牛馬道跡か林鉄跡か?
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~1~
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~2~
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~3~
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~4~
投稿日:2015-12-06 Sun
昨年林道工事のため触り程度だった敦賀の森林鉄道続きです。
車両通行止めになっていないので敦賀営林署黒河製品事業所跡を過ぎ、旧・粟野発電所取水口の眼鏡橋へ。
前回は逆光で真っ黒だったのが今回はどん曇りのおかげで綺麗に真正面から撮影できました。
すぐ左上が旧軌道跡と思われる黒河林道です。

その林道上に一直線に並ぶ石の列。軌道敷の石積みが現在の路面に顔を出しているのではないかと思いますが如何に?

昨年工事していた通行止め箇所を過ぎると土留めの石積みが何箇所も姿を現します。

黒河林道菩提谷支線分岐点。
右が黒河林道本線、左が菩提谷支線です。
製板場があったという「瀧谷」と言う場所が現在不明であり、果たして軌道がどちらに延びていたか・・・あるいはどちらにも敷かれていたかはわかりません。
菩提谷支線はさらにワコ谷支線、後谷支線を分岐する結構長めの支線林道です。

菩提谷支線分岐直後にある黒河川屈曲部の「岬」を貫く切通し、よく見ると岬に忠実に沿う軌道敷らしき平場が右へ分岐。

そして切通し先で合流して来るところには石積み路盤も。幅員は自動車道路にしては狭過ぎ、人道としては広過ぎ。
牛馬道か軌道の幅に見えますね。
橋梁銘板によると現・黒河林道は昭和30年台後半から昭和40年頃にかけて自動車道として整備されたようですがそれ以前は軌道敷をそのまま利用していたのかな?
他の廃線跡では橋梁下にはかなりの確率で残っているはずの橋台(ピヤー)が全然見当たらず本当に軌道跡なのかいまいちよく分からないまま先へ~。
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~1~
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~2~
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~3~
大阪営林局敦賀営林署 黒河森林軌道~5~
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