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にしみやうしろ

Author:にしみやうしろ
小田急沿線で生まれ、金沢で北陸鉄道にはまり、愛知では名鉄に臨海鉄道さらに森林鉄道、今ではすっかり私鉄・貨物ファンに・・・。
鉄道に由来していろんなものに興味を持つようになってしまいました。

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鳳来寺鉄道三河槙原駅加周組専用線(?)
三河槙原駅は鳳来寺鉄道の駅として1923(大正12)年2月1日に開業しています。元々この地はドウデイという独特のカタカナ地名があったものの人家など無く望月街道が通っていただけだったようです。
この地に人が移り住んだのは1919(大正8)年に足助(現在は豊田市足助)の木材商 加藤周太郎氏が鳳来寺の寺有林の立木処分を落札し製材所や従業員住宅をつくってからのことです。
加藤周太郎の名前は何代にも渡り襲名していたようで1927(昭和2)年の「日本木材界人物伝」によると200年以上木材伐出、製板業を営む老舗だったようです。
名前の頭文字を取った「加周」を屋号としていたようで製材所が名古屋・豊橋に移った後もこの名前を受け継いでいるようです。

doudei.png
三河槙原駅周辺概念図

●鳳来寺有林
鳳来寺は愛知県でも有数の山岳寺院で江戸期には徳川将軍家から鳳来寺山などの寺領を安堵され財政的にも豊かだったのが明治期に寺有林を国有林として召し上げられた上に境内で火災が相次ぐなどすっかり疲弊していました。
元寺有林だった国有林はさらに宮内省御料局(後の帝室林野局)の手に渡り御料林となっていましたが大正初期に鳳来寺再興のため服部 賢成住職を中心として御料林払下げを嘆願、1919(大正8)年に3,112町歩、実測見込面積1,551haの寺有林を667万7,130円で払い下げを受けることに成功します。
帝室林野局としては近隣で面積が広く林相も良い段戸山の施業に集中したかったようで、鳳来寺山の御料林は飛び地となるため所有することに左程意味が無かったのかも知れません。

●加周組の鳳来寺有林伐採事業
鳳来寺では御料林の払い下げ費用を捻出するため立木の売り払いを行うとして愛知県に売払いと売却先の選定を委任、県は競売を行いますが売払い予定価額150万円に応じる業者はありませんでした。
最も入札額の高かった加周組と折衝した結果115万円での売却が決まりました。
加周組は槙原とドウデイに製材所を設置、寺有林から製材所への輸送手段として森林軌道や木馬道を建設して1920(大正9)年より施業を開始。
鳳来寺山施業のための従業員は約1,600人、製材所近辺には従業員住宅300戸や従業員子弟のために私立学校、発電所、交番、食堂までつくり無人の野に突如集落が誕生します。

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「加周」によりつくられた集落内でドウデイの地名を示す公民館。
三河槙原駅の東側の山寄りにあり、この辺にかつて第2製材所があったようだが特に面影はなし


●鳳来寺鉄道三河槙原駅の開業
加周組の鳳来寺山施業では年間で素材40,000本、製材150,000束、木炭150万俵を生産していましたが、施業開始の1921(大正10)年時点で鳳来寺鉄道は免許を受けたばかりで未開業、豊川鉄道が長篠駅(現在の大海駅)まで開業していただけでした。
製品輸送は素材の場合宇連川、豊川を管流し(筏に組まず1本ずつ流すこと)、製材・木炭は荷馬車で大海駅まで輸送して貨車に積み替えていました。
1923(大正12)年2月1日に待望の鳳来寺鉄道長篠~三河川合が開業し、同時に三河槙原駅が置かれます。
駅から槙原トンネルを挟んで豊橋側にあった第1製材所に専用側線も敷かれ製品を直接鉄道輸送できるようになりました。

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前回も載せた三河槙原駅の砂利積み込みホーム。
ここから第2製材所の製品出荷も行っていたのだろうか。


●鳳来寺裏山大火
1924(大正13)年3月16日正午頃・・・しばらく雨も降らず乾燥している中で大津谷9林班付近(鳳来寺山自体ではなく東側の大津谷川沿いか?)で山火事が発生。
県有林職員、加周組従業員、地元消防団の消火活動に当たるも干ばつで水が無いため手の付けられない状態に陥ります。
陸軍(愛知大学の場所にいた第15師団?)も出動したものの相当の面積を焼失してしまいました。
タバコの火の不始末が原因とされていますが、当初15か年としていた施業計画がかなり狂ったそうですがどの程度の影響があったのか正確にはよく分かりません。
なお槙原にあった第1製材所は地元の人が譲り受け2015(平成27)年現在も盛業中です。



前置きが大変長くなりました。
いや、そりゃもう森林軌道まで出て来るので・・・(^ ^;)
段戸山の田峰、田口森林鉄道以外で愛知県に林鉄があった記録を見たのは初めてだったものでついテンションが上がってしまいました(笑)
専用線は1923(大正12)年の三河槙原駅開業の頃から加周組が施業を行っていた昭和初期の間に存在していたようで、その後は不明ですが恐らく鳳来寺鉄道国有化までにはなくなっていたものと思います。

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第2製材所は駅や第1製材所のあったドウデイ地区とは岩山で隔てられた槙原地区にありました。
両地区間をつなぐ望月街道には素掘り(コンクリート吹付済み)の槙原トンネルがあります。
因みにこの真下は飯田線の槙原トンネル。

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槙原トンネル豊橋方坑口傍にあるその名も「加周踏切」。
駅構内から槙原トンネルを隔てたこの辺で専用線が分岐していたものと思われます。

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加周踏切から三河槙原駅を見た様子。
そう言えば駅はドウデイ地区にあるにもかかわらず駅名には槙原が採用されてドウデイ駅や加周駅にはなってませんね。

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加周踏切から豊橋方を見た様子。
専用線はここで分岐後、本線沿いにすぐ積み込みホームがあったのかそれとも右に見える道に沿って・・・

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奥の製材所構内まで入っていたのかそれは今となっては知る由もありません。
このカーブが何だか鉄道っぽく見えて怪しい気がしないでもない。

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加周踏切から宇連川へ向かうと加周橋が架かってます。
名前の通り元々加周組が架けた橋で、今では橋桁や両岸の橋台は新しくなってますが中央の橋脚が石積みで架橋当時のものを使っていると思われます。
巨岩の上に立つ石積みが何とも格好いいです~♪

参考文献
 愛知の林業史(愛知県)
 鳳来町誌 各編(鳳来町)
 南設楽郡誌(南設楽郡教育会)
 日本木材界人物伝 第1巻 (名古屋版) (菊池武徳 著 1927)

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専用線跡 | 22:01:21 | Trackback(0) | Comments(0)
飯田線三河槙原駅砂利側線
城西から飯田線に乗車。
18きっぷシーズンの飯田線で上諏訪から豊橋まで直通運転の数少ない列車とあり3両編成にも拘らず席が空いてません。
大半が観光客か鉄ちゃんでほとんど観光列車の様相(?)

こちらは途中の三河槙原駅で降ります。
聳える岩山が目につく三河槙原駅周辺はかつて駅そばや槙原川沿いに採石場がありました。
「鳳来町史(交通史編)」によると東海道新幹線建設用の砂利も発送していたということです。
「三河槙原駅常備」のホキ800などもいたのでしょうか?

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三河槙原駅で交換する1番線の527M天竜峡行(213系5000番台)と2番線の544M豊橋行(313系1700番台)。
一番手前にある非電化の錆び付いた側線が元の砂利側線。
今も保線トロへの積み込みはやってるかも知れませんが採石場はもうこの辺にはないようです。

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貨物ホーム(現在は駅への送迎のための駐車場と化してる?)上から527Mをお見送り~。

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乗車して来た544Mも発車。すぐに岩山の下に穿たれた槙原トンネルへと吸い込まれていきます。
かつての配線図では右の側線はトンネル方向へまっすぐ突っ込んで行き止まりになっていたようですが撤去されてます。
2番線の向こうにもホームのような石積みが見えますがホーム跡なのかただの擁壁なのか不明。

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旅客ホーム上から豊橋方を見た様子。右に見えるのが貨物ホーム。
採石場に直接側線が引き込まれていたわけではなくダンプで駅まで運んできて貨車積みしていた様子。
矢筈積みの古めかしいホームはあるいは元々は加周組第2製材所(鳳来寺鉄道三河槙原駅加周組専用線(?)参照)の製品積込み用としてつくられていた既存の貨物ホームを再利用したのかも知れません。

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旅客ホーム上から辰野方を見た様子。
現在側線は行き止まり式になってますがかつては1番線へ繋がる渡り線があったようです。

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三河槙原駅舎。国鉄時代末期に無人化されており、今では駅舎も小さなコンクリート造りの待合室のみ。
隣のトイレの方が立派な建物と言う感じがしなくもないです。

飯田線の起点となる豊橋駅の構内側線で豊橋鉄道渥美線花田操車場連絡線付近にJR東海最後のホキ800が屯していた砂利側線がありましたがここの砂利発送と関係があったのでしょうか。

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専用線跡 | 22:59:40 | Trackback(0) | Comments(0)
飯田線城西駅
遠鉄バス北遠本線のバスは西鹿島駅前を12:11に出発して天竜川沿いの国道152号線を遡り時折旧道へ侵入したりしながら、以前車で通ったバス駅西渡駅で少し休憩。
今度は支流の水窪川に沿って行きます。途中で峰トンネルから出てきた飯田線の鉄橋をくぐると間もなく相月駅。飯田線はトンネル・橋梁でまっすぐ山河を貫いていますがバス道はぐねぐね。
一駅飯田線に沿って行き城西駅前で下車。終点水窪町まで乗車したかったのですが、水窪町バス停から水窪駅は距離がある上に坂道を上らねばなりません。接続時間は2分しかないので水窪接続はかなり無理があります。
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城西駅前。1時間20分ほどバスに乗っていたわけですね。

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バス停標識。因みにこの写真では長閑な山村風景に見えますがこの道路を水窪ダム堆積土砂輸送のダンプがひっきりなしに通るので結構危なっかしいです。水窪ダム方面に続いていた水窪森林鉄道探訪は工事期間中控えておいたた方がいいかな?

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城西駅はと言うと道路の向かい。
島式ホームでかつては列車交換できたようですが現在は棒線化されています。

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城西駅舎。
特急停車駅である水窪駅でさえ無人化されている今日、こちらの駅も当然無人化されています。
この駅や水窪駅を通るルートは佐久間ダム建設により従来の天竜川沿いの線路が水没するため、代替ルートとして1955(昭和30)年11月11日に開通した路線なので飯田線では比較的新しい駅。
なおこの駅より500mほど水窪川を遡った場所(飯田・辰野寄り)に有名な「渡らずの鉄橋」こと第6水窪川橋梁があります。

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JR東海 | 19:23:36 | Trackback(0) | Comments(0)
遠州鉄道最後の吊り掛け電車
遠州鉄道モハ25+クハ85が夏休み期間中に土曜日に運転されていたので乗りに行ってきました。

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定番の自動車学校前駅の駅前で撮影。
この電車は型式名モハ30形+クハ80形となるわけですが同型式者は製造量数が多くてモハ39まで製造されたところで30より下の番号が割り振られるややこしいことになってます。
クハ80形もクハ89の次は空き番にしていたクハ85を製造するなどもはや何だかわからない状態(^ ^;)
モハ30形自体は1961(昭和36)年からつくられ、日本車輌で製造時の試運転では当時架線電圧が600Vだった名鉄各務原線を走ったそうです。当時木造電車や半鋼製電車がせいぜいだった各務原線としては掃き溜めに鶴のような車両だったのでは・・・(失礼)
本編成は1978(昭和53)年製と吊り掛け電車としてはかなり新しい車両で一見しただけではカルダン車にしか見えないスタイル。

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新浜松から折り返して来た同編成に乗車して終点西鹿島一つ手前の遠州岩水寺で下車。
西鹿島から折り返して来たところを島式ホームの構内踏切から撮影。
終点までほとんど建てこんだ地域を走ってるので撮影はなかなか難しいですね。

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岩水寺の駅構内を観察すると貨物側線とホームらしき跡もあります。
遠鉄は浜松口の貨物が最後まで残ってましたがここはいつ頃までやっていたのか。

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遠鉄電車撮影の日程が終わったので浜松に折り返すか天浜線で戻るのかと思いきや次は遠鉄バス北遠本線に乗車して飯田線へ乗り継ぎ~。
高速バスは苦手なくせに一般路線バスの長距離路線は好きなんです(笑)
バスの車両型式などには特に関心が無く、ただ乗ってるのが好きという鉄道に比べればかなりユルイ好き方です。

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東海私鉄 | 23:16:49 | Trackback(0) | Comments(0)
有田川鉄道公園の15tロッドDL
有田川でより気になることと言えば今となっては貴重なニチユの15tロッド機が動態保存されていることです。
そうそう動くことはない車輌なので止まっている姿を見るだけだろうと高を括っていたのですがスタッフの方が作業をなさっていたのでこれはもしや・・・
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15:00のキハ58003最終便の運行が終わり、入庫する頃に車庫から出てきました~。
旧・有田鉄道DB20の末期の姿を模した国鉄DL色に塗られています。
元は水島臨海鉄道東水島の三菱石油専用線から来たDB107です。

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1967(昭和42)年三菱重工製となってますがOEM生産で製作を行ったのは日本輸送機とのことです。
水島臨海鉄道東水島駅より分岐していた三菱石油専用線で使われていましたが、外からは見えない側線の入換に使われてたようです。
所有者を示す大きなスリーダイヤがキャブ側面に付いていましたが車籍は水島臨海鉄道にあったようでDB107を名乗ってました。
なお水島臨海にはDB101~DB103、DB105、DB106(DB104は欠番)と多くの私有機がいたようですがこれらは全て消えています。

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そのままト+ヨを推進して本線との分岐まで行きます。
自連の解放てこに油圧シリンダーらしきものが付いており、どうやら運転席から解放てこを遠隔操作できるようですね。
流石は元コンビナートの機関車。

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入庫するキハ58003との並び。こうして見るとキハ58が実に大きく見えます。
モデルとなった有田鉄道DB20は1965(昭和40)年日本輸送機製。
当初は青系に塗られていましたが末期は↑のような国鉄DL色になっていました。
和歌山県による有田川総合開発事業で行われた二川ダム建設資材輸送用に2両を日本輸送機へ発注していましたがダム資材輸送はトラック輸送となり1両は注文流れで伏木の十条製紙(後に日本製紙)専用線へ行ったようです。

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キハ58003が入庫した後で有田川鉄道交流館本館前のホームまで入線し、貨車を解放・連結してからまた元の留置場所へ戻りました。
オリジナルDB20は標識灯が2灯、末期には前照灯もボンネット埋め込み2灯式という面白い顔つきになっていたとか。


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スイッチャー | 18:37:12 | Trackback(0) | Comments(0)
有田川鉄道公園のハイモとモーターカー
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ハイモ180-101。樽見鉄道出身で塗装も色使いこそ異なれど塗り分けが樽見時代を踏襲しているので、大垣が職場だった私としては馴染み深いです。ただしこちらが樽見に出かけるようになった頃にはこの車は既に有田に行った後。
車内はクロスシートで樽見に最後までいたハイモ180-201,202の200番台車とは若干異なる印象。
富士重工で製造されたのが1984(昭和59)年で樽見鉄道では1993(平成5)年に廃車、有田に転属したのが1994(平成6)年ですから樽見にいた期間よりこの地に来てからの方が遥かに長いんですね。
ハイモはこの日エンジンは掛らず静態展示されていただけ。

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入庫時にTMC200に牽かれて庫内へと引き上げてました。
このTMC200は近づけないので銘板が読めず詳細はわかりませんでした。
JR西日本の地元路線から有田鉄道に転属したようですが。

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旧・金屋口駅ホームは動態保存車乗車時のみ見学可能で、外からは入れません。
駅舎自体は比較的新しいので珍しさはありませんが・・・。

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信号機のリバーが車止めの上に・・・珍しいところに置いてありますね。

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気動車 | 22:48:42 | Trackback(0) | Comments(0)
有田川鉄道公園(旧・有田鉄道金屋口駅)のキハ58003
和歌山のとある御大をお誘いして有田川鉄道公園へ行ってきました。

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最初は和歌山市駅付近で南海7000系旧塗色車のサザンを撮るのを目的として後は未定としていたのですが有田川のニチユ15t機が気になったので有田鉄道金屋口駅へ~。

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金屋口駅跡の有田川鉄道公園は有鉄時代からのキハ58003の動態保存がメインですが特に運転日など全く意識になく(こらこら)到着~。係の方に「もうすぐ出るよ~」ということだったのでまず乗車しました。

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キハ58自体は恐らくこれまで気動車としては乗車回数最多型式なので珍しさはありませんが富士急の国鉄乗入用として製造され、国鉄籍には入ったことがない純粋な私鉄車両なのでやはり雰囲気が少し異なる点も。

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そう言えば前面窓がすべて灰色HゴムなんてのもJR線上のキハ58ではだいぶ前に見なくなったような。

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特徴としてまずはキハ58なのに両運転台と言うことがまず挙げられますが、金沢に住んでた頃は七尾線にキハ53形1000番台と言う両運化されたキハ58を見ていたので違和感はありませんね。

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キハ53-100? 富山機関区 2003.08.17
こんな写真しかなくて申し訳ありませんが城端線から富山まで乗り入れて来た編成に連結されていた様子です。
七尾線から高山本線富山口、氷見・城端線と転属して車体カラーもそのたびに塗り替わっていましたが改造後に急行色を塗られたことはあったのか・・・。


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気動車 | 00:06:50 | Trackback(0) | Comments(0)
五泉市総合会館の旧・蒲原鉄道モハ41
蒲原鉄道は磐越西線五泉駅から分岐していましたが、その五泉駅より北の市街地(むしろ北五泉駅に近い)にある五泉市総合会館にも鉄道線全廃まで活躍していたモハ41が保存されています。

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保存場所の上屋がまたいい感じで木造車庫に納まっているような雰囲気です。
東京電機工業の出張工事により村松車庫で製作された車体とモハ13の電装品を組み合わせて1954(昭和29)年に製造された電車。

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この手の車両はたいてい前面3枚窓ですが珍しく2枚窓になっています。蒲原鉄道と言えばこの顔のイメージですね。
廃止まで活躍し村松駅構内で解体されたというモハ31も同タイプでしたが、モハ41は後に車体延長と中央扉が増設され、より大型になっていました。

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大型車体にしては華奢な感じがする台車。
モハ13のお下がり・・・モハ11と同じ台車です。
モハ13はモハ41製造時にモハ1の台車に交換されており、玉突きでモハ1が廃車になっています。
何ともややこしいですが中小私鉄ではよくあったこと。
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旧・蒲原鉄道冬鳥越駅跡~その1~でモハ1が部品をモハ31に譲ったように書いてましたが間違いでした。
訂正しときました(_ _)
モハ31はデ101→モハ21のボールドウィンタイプの日車製台車を引き継いでいます。
デ101→モハ21がモハ1の台車を引き継いでいますがこちらは1979(昭和54)年に廃車されています。
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車内。半室運転台です。
ワンマンですが料金箱はなし。料金徴収はどういう風にやっていたのでしょう。

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運転室の後ろに五泉~村松の手書き運賃表がありました。

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モハ41の非パンタ側(元の五泉側)。
後ろに名鉄グループ塗装のバスが??

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外を通って行くバスは愛知県知多半島方面ではお馴染みの知多バス?

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保存車 | 21:34:38 | Trackback(0) | Comments(0)

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