投稿日:2014-08-29 Fri
いよいよ平坦な区間(と言っても普通の鉄道と比べれば急勾配)が尽きてインクラインが始まります。
この辺で複線になっていた線路が合流してインクラインにつながっていたのでしょう。
秋田から来た内燃機関車はインクラ下のここまでしか入れませんでした。
上部軌道用の機関車はいたのかどうか不明~。

インクラインの下部区間には見事な枕木の列が残ります。
水っぽい区間なので土留めの意味もあるのかな?

外側の犬釘はスパイクされたまま。
枕木は単線分だけなので蹴上のような複線式のインクラではなく中央にのみ交換所がある一般的なケーブルカータイプだったのでしょうか。

中央部には交換所の跡らしい路盤が広がる部分も。

インクラの操作施設があったと思われる付近には特に何も残ってません。
巻き上げ機がないブレーキのみの施設だったのではないかと思われます。

しばらく続く上部軌道。
ここにも時折枕木が見られますが間もな登山道はく軌道と分かれて沢に下って太平山の方へに登っていってしまいます。
登山道から分かれた軌道跡は草に埋もれて判然としません。
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投稿日:2014-08-29 Fri
横手から奥羽本線701系で秋田へ向かいます。幸い一部がクロスシートになった編成で窓一面の田園風景を堪能しながら秋田着~。

秋田と言えば目的は仁別森林博物館~。
スイッチャーファンとしては忘れてならないはずの秋田臨海鉄道のことはすっかり忘れていました。(爆)
午前中は仁別の奥の線路跡を辿りました。森林博物館から2kmほど行くと車道(これも仁別森林鉄道の廃線跡♪)が尽きるところに駐車場があり、旭川を挟んで太平山と馬場目岳方面への道が続いています。
急勾配の登山道でとても鉄道が通っていたような道ではないのですが土留めは全て犬釘付きの枕木の再利用。

そんな道を上ると平坦な別の林道に合流。
左が駐車場方面、奥は平坦な道が続いてますがロープが張ってあります。
どうみても林鉄跡ですね~。恐らく駐車場の場所から馬場目岳方面へ向かいヘアピンカーブで折り返してきたのでしょう。

沢には枕木を積み上げた簡易な橋があります。
登山道にもあちらこちらで土砂の下に枕木が見えており、掘り起こせばそこいら中に残っている様子。

枕木が多いのに橋梁は残っていません。
橋脚・橋桁はおろか両岸に残り易い橋台も一切なし・・・作業軌道のように橋桁も岩に引っかけただけだったとか??

河原にはレールも落ちてます。

ぬかるみの多いところは板が敷かれています。ここらでは路盤が広がり複線分に。
ここはもうインクラ下の停車場(?)構内です。
秋田駅裏の貯木場から到着した空車は片側でインクラにかけられて登るのを待ち、もう片側には入替わりに降りて来た運材車が並んでいたのでしょう。
投稿日:2014-08-27 Wed
東北旅行初日は山形県を通り抜け夕方に新庄着。新庄では待ち時間があるので街中を散策~。
日が暮れた頃に奥羽本線秋田行きに乗車・・・そう言えば1067mmゲージの電車に乗ったのは福島交通以来。
福島~新庄が山形新幹線併設のため1435mmなのは知ってましたが実際乗って見ると標準軌区間の長いこと!
福島~新庄の営業キロは148.6kmとのことです。
林鉄ファン(?)には有名な真室川、釜淵は真っ暗で何も見えず夜も更けた頃に横手で下車。
翌朝宿を出て真っ先に向かったのはこんなところ。

旧・羽後交通横荘線の木造機関庫です。
横荘線の前身となる横荘鉄道は横手~羽後本荘の路線を計画して横手~老方38.2kmの東線と羽後本荘~前郷11.7kmの西線を持っていましたが西線は国鉄により買収(現・由利高原鉄道の一部)、東線だけ私鉄として残り、羽後交通横荘線になっています。
戦後は部分廃止を重ねて1971(昭和46)年7月20日に最後の横手~沼館が廃止になりました。

側壁は並板張りになっていますが正面は木造のいい雰囲気のまま残ります。
扉を開けたら機関車や気動車が中で出番を待っているのではないかという錯覚を覚えます。
扉の上には"3"と書かれた円板が最初は1,2,3番線なのかと思ったら3枚とも"3"でした。
何を意味しているんでしょうね??
1957(昭和32年)5月に横手車庫で火災が発生、当時の主力だった汽車製DB1や宇都宮車両製キハ1が焼失してしまったといいますから、この機関庫はその直後に建てられたものでしょうか?
~横荘線で活躍してた車両たち~
この車庫に出入りしていたであろう車両たち。その内ほんの一部ですがイラスト化しました。

焼失したDB1の代わりにつくられた協三工業製25t機。1958(昭和33)年にDC1翌年にDC2が導入されてます。
横荘線廃止後は雄勝線に移り、こちらも廃止になるとDC1は郡山の専用線スイッチャー、DC2は南部縦貫鉄道DC251になりました。DC2改めDC251は南部縦貫廃止後も七戸の車庫で保存されてます。

湘南フェイスの2枚窓に片側バケット付きの新旧スタイルが入り混じったユニークなキハ2形。
川崎車両製でキハ2は1953(昭和28)年、キハ3は1957(昭和32)年製。
チョコレート色に寒色系の淡いブルーという組み合わせは珍しいですね。
すぐ隣の同社雄勝線の電車は緑がかった青にクリーム→オレンジにクリームと標準的な塗装でしたがこの色は一体??

木造客車ホハニ1。元国鉄ナハフ14402で1915(大正4)年川崎造船所製・・・キハ2,3の先輩ですね。
他にも横荘線生え抜きや都電改造客車など個性豊かな仲間でいっぱいでした。
投稿日:2014-08-26 Tue
●ジークライト化学礦業片倉工業撤退後に同工場を引き継いだのはジークライト化学礦業(現・ジークライト)でした。
奥羽本線板谷駅の近くに本社・鉱山があり、カオリン(白土)、ゼオライトの製造を行っていました。
どちらも真っ白な鉱石です。
カオリンは粘土状で、雑誌などカラー印刷を美しく見せるためのすべすべの紙をつくる際などの白い顔料として使われます。
ゼオライトは肥料や畜産用の飼料などに使われます。
火山活動でつくられるもので高畠石に多く含まれているそうです。

高畠石の代表的建築高畠駅。この駅舎の石材にもゼオライトが含まれているのでしょうかね
高畠町はブドウやそれを原料としたワインの生産が盛んな土地ですが、これだけ盛んになったのは高畠石に含まれるゼオライトが天然の肥料となったからといことです。

高畠線竹ノ森~高畠で見えたブドウ園のある小山。右下の方には高畠石の石切り場か砕石場のような削り後も・・・
何気なく撮っていた風景が一本の線でつながりました(^ ^)
●廃線跡
これだけ長々と書いた割に廃線跡はほとんど遺物が残ってません~悪しからず

高畠駅から屋代川までの敷地は建物ができています。

高畠線の屋代川橋梁跡に架かるサイクリングロード橋上から見た様子。
少し下流側に併用橋が架かっていましたが、河川改修で流路自体も少し変っている様子。
1966(昭和41)年の水害で屋代川橋梁が破損したのが高畠線高畠~二井宿廃止の要因となりました。

併用橋の高畠側から工場側を見た様子。
工場も1980年頃には無くなって住宅地化されています。

併用橋の工場側から高畠側を見た様子。
見事に何もないですね(- -)

ジークライト礦業進出時に増備されたED2の弟分・遠州鉄道ED28 2。
ED2も国鉄→近江鉄道時代はED28 1を名乗っていました。
1925(大正14)年イングリッシュ・エレクトリック社製・・・もうすぐ90歳ですね。
ED2も山形県内で保存されていますが行く時間がなかったもので・・・。
投稿日:2014-08-24 Sun
山形交通高畠線高畠駅からは専用鉄道が分岐していました。1923(大正12)年開業と専用鉄道としても古い歴史を持っています。
距離は短いものの屋代川には併用軌道橋が架かり独特の雰囲気を持っていたようです。
廃線跡の遺構はほぼ皆無なのですが調べているうちに歴史の深さからテキスト量が膨大に・・・現地再調査に行きたいなあ。
作業キロ:0.4km
作業方法:社機

高畠駅構内の現役末期の記録から見ると配線はこんな感じだった様子。
車庫の辺りがかなり怪しげですが本線や専用線は大体こんな感じということで・・・(^ ^;)
当時の写真でも特にホームの番線表示などは見られないのですが便宜上1、2、3番線の番号を振ってます。
3番線は直接専用鉄道に入ることができ、電気機関車は3番線や駅舎横の貨物ホームで撮影されたものとみられる写真が多いです。工場内の配線は全くもって不明。
●生糸の山形・・・両羽製糸所
地元資本の兩羽製絲株式会社(環境依存文字なので以下は「両羽製糸」と表記)が高畠で創業したのは1889(明治22)年。
山形県の生糸は「羽前エキストラ」としてアメリカなどで人気がありましたが、両羽製糸は業績不振のため20年ほどで解散。
工場は1909(明治42)年2月12日に横浜の茂木商店へ譲渡されますが、長野県を中心に生糸紡績を行っていた片倉組(現・片倉工業…世界遺産・旧官営富岡製糸場を操業・保存していた会社)が全国展開のため同工場を買い取り同年4月21日片倉組両羽製糸所となりました。
片倉組は1920(大正9)年3月に株式会社へ改組して片倉製糸紡績、1943(昭和18)年に現社名の片倉工業へ改称しています。
●専用鉄道の開業
片倉組→片倉製糸紡績では両羽製糸所を大幅に拡張し、専用鉄道もその際につくられたものと思われます。
なお鉄道省から専用鉄道の使用認可が下りたのは1923(大正12)年6月12日とのこと。
専用鉄道で輸送していたのは工場の動力源となる石炭や製品の生糸と思われます。
片倉製糸紡績は生糸を横浜港、神戸港から欧米向けに輸出していたということなので、高畠産の生糸を積んだ貨車の行先は横浜港駅だったのでしょうか?
原料となるカイコのサナギ・・・繭(マユ)は鉄道輸送には難があったこと(後述)や調達先が周辺各地に分散していたこともあって行っていなかったようです。
●鉄道で生繭を運ぶには?
生糸の原料となる生繭は県内各地で調達され天童には両羽製糸所所属の山形繭取扱所があり両羽製糸所へ原料を供給していました。
生き物である生繭を工場へ送るのに有蓋貨車を使うと窓のない車内の暑さでカイコが蒸されて死んでしまいます(蒸損事故)。

当時の有蓋貨車の一例 鉄道省ワ1形ワ5490号1906(明治39)年新潟鉄工所製
貨物鉄道博物館 三岐鉄道丹生川駅
片倉製糸では生繭を貨車輸送する方法を鉄道省と共同で研究し、通風車を利用するのが良いという結論を出しました。
ところが通風車は生繭の輸送シーズンに必要数が確保できなかったようで鉄道輸送は挫折します。
両羽製糸所では高畠鉄道が電化した頃の1929(昭和4)年にシボレートラックを1台購入し原料輸送に充てています。
ところがこの虎の子シボレーは翌年に工場近くの踏切で高畠鉄道の電車(恐らくデハニ1)と衝突大破してしまいました。
この踏切ではその後も事故があったようで1940(昭和15)年に当時はまだ珍しい踏切警報器が設置されています。
元々1台では輸送力が足りず、運送会社のトラックを使っていたようですが事故後は全て運送会社任せになっていたと思われます。
●製糸工場としての末期
戦時中は軍需工場への転用があったのかはわかりませんが可能性は高そうです。
戦後も昭和30年代前半は紡績工場として続いていたようですが、1962(昭和37)年にはジークライト化学礦業の工場に変わっているのでそれまでに撤退していたものと思われます。
因みに国鉄が出していた専用線一覧では高畠線廃止前最後の1970(昭和45)年版でも片倉工業の専用鉄道として出ています。
工場だけ貸して名義は変えてなかったのでしょうかな??
参考文献:RM LIBRARY82 山形交通高畠線・尾花沢線(鈴木 洋・若林 宣/ネコパブリッシング)
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
片倉製糸紡績株式会社二十年誌(片倉製糸紡績)
専修大学社会科学年報第40号 片倉製糸の東日本における貨物自動車輸送(高梨健司)
投稿日:2014-08-22 Fri
1929(昭和4)年の高畠鉄道電化時に電車はデハニ1が新造されましたが、一方で電気機関車キ1がつくられています
1929(昭和4)年に川崎車輛兵庫工場で製造されたt凸型電機キ1。
自重23tと電気機関車にしては小柄で出力は55kwモーター×4個と小さいもの。
山形交通になってから西武所沢工場で更新改造を受けED1に改番されています。

ほぼ原形ですが前面窓は北国の車両らしくHゴム支持化されています。(恐らく隙間風対策)
自動連結器の直上に小さな四角い板が付いていますが、かつてはここに車番と思われる「1」が控え目に書かれていました。

「昭和四年 川崎車輌 製造 No.32」の銘板。

ほぼ同型の東急電鉄デキ3021。こちらは製番No.31と高畠より1つ若い番号。
なお東急デキの方が製番が若いですが製造は高畠の方が若干先のよう。
東急の方が採番は早かったものの出荷の順番は逆になったのでしょう。
神戸の工場では並んで作られていたのかも知れませんね。
現在デキ3021は上毛電鉄大胡車庫におり、イベントで展示、運転体験などに使われてます。
この型の電機は1927(昭和2)年に伊勢電鉄501形501、502(後近鉄デ1、2)が最初でしたがこちらは現存してません。
近鉄では軽量機ということで貨車の構内入換に使っていたようですが塩浜や楠、西大垣辺りにいたのかな??
末期は塩浜、西大垣で車両工場に入場する電車入換に使っていたようです。
閑話休題・・・旧・高畠駅に戻ります。

ワム201。国鉄ワム23000形に見えますが、元国鉄車ではなく西武鉄道ワム204を1962(昭和37)年に譲り受けたもの。
高畠駅近くにジークライト鉱業高畠工場ができて製品輸送が増えた年なのでその関連で貨車を増備したのでしょうか?
貨物増大のため近江鉄道のED28 1を譲り受けて山形交通ED2としたのもこの翌年で、貨物輸送量増加が大きかったようです。

西武鉄道では1956(昭和31)年に自社所沢工場でワム201形ワム201~204の4両を製造しており、ワム201,202は1969(昭和44)年に上武鉄道へ譲渡(1978(昭和53)年廃車)、山形交通へは前述の通り1962(昭和37)年にワム203,204が譲渡されています。
現在保存されている車両は元の西武ワム204だったようで、台枠にワム204の標記跡が残っていました。

西武所沢工場昭和31年の銘板。
ところで気になるのはこの車両は実際現役時に「ワム201」だったのかどうか?
RM LIBRARY82 山形交通高畠線・尾花沢線(鈴木 洋・若林 宣/ネコパブリッシング)掲載の車輌諸元ではワム201形ワム203,204と西武時代のままの社号を使っていたことになってます。
保存後に塗り直されて現役時代とは字体が異なる上回りの標記はワム201になってますが、台枠の塗り潰された「ワム204」の標記の上に「ワム201」と書いたような形跡はありませんでした。
保存の際にワム201形の4番ではなく1番にしたかったのかも知れませんね。
特に4は忌み番ですし・・・。
ワムの話は重箱の隅をつつき倒すような話題なのでこれから旧・高畠駅へお出かけになる貨車ファンの方々のお楽しみということでこれくらいにしましょう(^ ^;)
参考図書
![]() | 山形交通高畠線・尾花沢線 (RM LIBRARY(82)) (2006/05/01) 鈴木 洋、若林 宣 他 商品詳細を見る |
投稿日:2014-08-21 Thu
旧・山形交通高畠線高畠駅のホームに残る保存車両群。
駅舎側の1番線に3両が連結された状態で止まっています。
最近保存車の上に上屋が設けられたようです。
撮影はし辛くなりましたが当地は名だたる豪雪地帯なので屋根があるのは有り難いもの。

糠ノ目方(奥の方)からED1+ワム201+モハ1の編成が組まれています。
現役時にはダイヤが混み合っていたためか実際このような編成の貨客混合列車も走っていました。

まずはモハ1。
高畠線電化時の1929(昭和4)年日本車輛東京支店で製造された。高畠鉄道デハニ1が前身。
1933(昭和8)年にデハニ2が増備されるまでは唯一両の電車でした。検査やトラブル時は電機や蒸機牽引の客車で代走したのでしょうか?
窓が高い位置にあり、かつ窓上部の幕板が狭いというどことなく野暮ったいデザイン。
これは1959(昭和34)年に西武所沢工場で車体更新の結果こうなってしまったもの。同時に荷物室もなくなりモハニ→モハとなったようです。元は昭和初期の日車らしい角張った車体・・・言うなれば一畑電車のデハニ50をショーティ化したような外観でした。

台車は路面電車のものを軸距だけ延ばしたような感じ。
台車だけでなく制御方式も直接式で、連結しても他車と総括制御できないという路面電車並みの構造です。
増備車のモハ2も山形県内で保存されているのですがそちらまで行く時間はありませんでした~。

なので今回はイラストでご勘弁を。
左からモハ1+モハ2です。
元はモハ1と同型で、少し遅れて西武所沢工場で車体更新を受けているのですが、そちらは均整のとれたまともな車体に仕上がっています。窓高さの違いがお分かり頂けるでしょうか。
さらにモハ2は窓枠がアルミサッシ化されていたようで、より近代的な外観でした。
投稿日:2014-08-19 Tue
山形交通高畠線廃線跡の続き。サイクリングロードなので痕跡は左程ありませんが車窓風景を疑似体験できるのはいいですね。

一本柳駅から1.4kmで竹ノ森駅。
当時の石積みホームが残ります。
現役時の写真を見るとここも駅本屋側(左)に側線がありましたが、ホームが低く貨物上屋などがあることから旅客電車同士の交換設備ではなく貨物側線ではないかと思われます。
駅舎は高畠石を積んだ立派なものがあったそうですが道路の拡幅などで跡は残っていません。

高畠へ向かう途中なだらかな小山に果樹園のハウスが・・・見た目はダイオウグソクムシ??

国道399号線を渡ると高畠駅構内に入ります。
構内入換などで電車・電機が姿を映していた線路脇のため池は健在。

高畠駅舎。高畠線最大の遺構というだけでなく高畠石を使った代表的建築です。
高畠鉄道電化後の1934(昭和9)年の建築です。

石積みですが重苦しさはなく、明るいクリーム色が軽快な雰囲気。
鉄道に関心がない人でも一見の価値はあるでしょう。
町のランドマークと言って良いオーラを放つ名建築ですが市街地から若干外れてしまうようで駅としての役割がないと人が集まらない様子。
駅舎内は当時の料金表が窓口に残り、駅務室や待合室に現役時代の写真が展示されているようです。
たまには建物内も公開されているようで管理が行き届いています。

駅前のバス車庫も駅舎に合わせています。
マイクロしか入ってませんでしたがここは是非路線バスやタクシーを並べて見たいところ。

駅舎脇のトイレも高畠石!
蔦が絡んでこれまたいい雰囲気です。

さらに構内を挟んで北側の変電所も高畠石!!
次回は高畠駅保存車両群です。
投稿日:2014-08-19 Tue
初めての板谷峠を越えて山形県入り。これまで山形県は縁が薄く、山形市は本州で唯一行ったことがない県庁所在地でした。
まあ今回も山形駅では降りてないのですが(^ ^;)
途中高畠町の山形交通高畠線の保存車を見に行って来たので序でに廃線巡り~。
1900(明治33)年4月21日に奥羽本線の米沢~赤湯が開業。
高畠町の最寄りは糠ノ目駅(現・高畠駅)でしたが市街地からは4kmほど離れていました。
鉄道を市街地まで引き入れたいという希望から高畠鉄道が設立され1922(大正11)年3月14日に糠ノ目~高畠5.2kmが非電化で開業しています。
1924(大正13)年8月31日にはさらに5.4km先の二井宿まで全線開業。1929(昭和4)年には直流600Vで電化されました。
戦時中の交通統制により三山電気鉄道、尾花沢鉄道、山形交通自動車商会、今村自動車の五社が統合されて山形交通が設立され、同社の高畠線となります。
1966(昭和41)年8月15日に水害で高畠~二井宿が不通になり、1968(昭和43)年10月1日に廃止、開業当初の区間のみに戻りますが、残る区間も1974(昭和49)年11月15日に営業運転を終了しています。
今回は時間の都合で二井宿までは行かず、開業当初と末期の営業区間である糠ノ目~高畠5.2kmを巡りました。

山形新幹線・奥羽本線高畠駅。
駅でレンタサイクル(3時間500円)を借りて出発。
高畠線の構内は駅前広場や駐車場になっています。
本線は高畠駅までサイクリングロード「まほろばの道」と化しています。
糠ノ目駅時代はこちらは駅裏で、駅への出入口はなかったとのこと。

糠ノ目(現・高畠)駅を出ると間もなく山形方面へ向かう山形新幹線・奥羽本線と別れ北東方向へ。
高畠の市街地は東の方向ですが高畠線は北の竹ノ森地区へ寄り道するコースを取っています。

米沢南陽道路をくぐり、まほろば・童話の里 浜田広介記念館(浜田広助・・・童話作家、「泣いた赤鬼」の作者)の横を過ぎた辺りで和田川を渡ります。
橋桁は架け替えたもののようですが、橋台・橋脚は鉄道のものを補修して使っている様子。

さらにもう1本支流を渡る橋梁が残りますがこちらも同様。

2本目の橋梁を渡ると道路と交差しますが踏切警報器の機器箱の土台と思しきコンクリート片と突き出たボルトが残ってました。

一本柳駅跡を旧・高畠側から見た様子。
駅施設は残っていないものの広場と農業倉庫が集まっており駅前の雰囲気があります。
プラットホームは島式で上下列車の交換ができたほか貨物側線と貨物ホームもあったとのこと。
恐らく藤棚の左、広場より手前側が貨物ホーム、藤棚の下が貨物側線と上り線、右の休憩所が島式ホームと下り線の跡と見られます。
投稿日:2014-08-17 Sun
お盆中に東北旅行に行って来ました。まずは福島から初めての福島交通飯坂線へ。

現在使われているのは元東急7000系(初代)の中間車を先頭車化改造したもの。
私にとっては北陸鉄道石川線で慣れ親しんだスタイルなので見慣れた顔。
但し他では尾灯が丸形なのに対し飯坂線のは尾灯が角形と少し違っています。
終点の飯坂温泉駅を発車して来るところ。
飯坂温泉~花水坂

飯坂仙一の撮影地、小川(という名前の川です)橋梁。
小川は栗子峠(奥羽本線の通る板谷峠の北方。国道はこちらを通っている)から流れこのすぐ下流で摺上川に合流、さらに阿武隈川へと注いでいます。
花水坂~医王寺前

路線の大部分は県道3号線に沿っているので景色に大きな変化はあまりありません。
医王寺前付近で短い区間ながら県道と少し離れる個所はちょっとした山岳路線風。
果樹園を見下ろしながら台地上から下っていきます。
周囲は桃の甘い香りが漂っていました。さすがフルーツの福島!
医王寺前~花水坂

元々非冷房の東急7000系(初代)でしたが冷房化改造がなされています。
飯坂線では冷房を連結部寄りの室内置きとしています。
窓を潰して取り付けた鎧戸が電気機関車のような雰囲気。

今でこそ東急の電車しかいない飯坂線ですが福島交通オリジナルのサハが桜水車庫の倉庫として健在。
架線電圧750V→1500V昇圧で使用されなくなった1966(昭和41)年日本車輛製サハ3000形サハ3017号。
近代的な外観と大きな番号が大手私鉄の電車のよう(西武鉄道辺りにいてそう・・・)ですが、実際は見た目も大きさもバラバラな小さい旧型電車モハ1200に挟まれて走っていたとか。
番号が大きいのは末尾の2桁が異なる形式でも通し番号としていたため。
~以下は2006年2月にくりはら田園鉄道若柳駅で撮影~
1991(平成2)年の飯坂線昇圧前はサハ3017と同タイプの電車がいましたが、連節・非貫通型前面・片側2扉の5000形、非貫通型前面・3扉の5100形は解体。
貫通型片側3扉の5300形は栗原電鉄に譲渡されM18形M182、M183となっていました。
その栗原電鉄→くりはら田園鉄道も経営不振のため電化設備の更新ができなくなり気動車を導入、非電化となったため廃車されています。

元モハ5318のM182。
1971(昭和46)年日本車輛製のオリジナル車両で地方私鉄としては破格と言って良い存在。
栗原でも塗装は福島交通赤電色(色合いは本家西武の赤電と違う)で、廃車後もくりはら田園鉄道廃止まで残ってました。

元モハ5319のM183。
こちらも製造はモハ5318→M183と同じ。
福島交通時代はモハ5318+モハ5319の編成でしたが栗原では単行運用だったとか。
側面スタイルを見るとサハ3017と同じなのが分かりますね。
架線電圧750V時代の飯坂線の写真はあまり見かけない気がしますね。
既に都市化していた沿線風景や近代化した車両のため個性の強い東北私鉄の中にあってあまりファンの印象に残らなかったのでしょうか?
投稿日:2014-08-10 Sun
湖西線の新快速から敦賀で普通に乗り換え武生へ。直流化されてから京阪神と福井が随分近くなった気がします。
武生からは福井鉄道福武線に乗り換え。

木田四ツ辻で降りてすぐ横の新木田交差点で撮影開始~。
郊外型鉄道線から併用軌道に乗り入れて来るところが見られる名所です。
但し「鉄軌分解点」の標柱が建っているのはS字カーブの先で、法規上はここが鉄道、軌道の境目ではないそうです。
まずはモハ202-1+モハ202-2。

次はモ802。名鉄美濃町線での登場以来見続けている車両。
因みに美濃町線で走っていたのより福井に来てから期間の方が既に長いですね。

同じく美濃町線出身のモ880+モ881。
この付近の線路の雰囲気は美濃町線よりも岐阜市内線忠節の辺りに似てますが。

今度は鯖江市内の鳥羽中駅で。
半逆光でモハ203-1+モハ203-2を撮影。

同じ場所で振りかえって。
福武線内では西山公園に次いで緑が多い駅かな?

神明~鳥羽中のカーブでモハ202-1+モハ202-2を撮って終了。
大半は日陰に入って撮影してましたが大津も福井も暑過ぎました(+ +;)
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