投稿日:2014-02-25 Tue
鉄道駅の前にあるわけでもないのに「○○駅」を名乗るバス停です。水窪の帰りに通りがかったのがこの遠州鉄道バス北遠本線西渡駅。

天竜川の深い谷底では日が陰るのも早かったのですがこの「駅舎」は冷暖房完備のようでなかなか快適そうでした。
ここを通るのは遠鉄電車と天竜浜名湖鉄道の接続駅でお馴染の西鹿島と飯田線沿いの水窪町を結ぶバス路線です。
飯田線が水窪市街から外れた高台にあるのに対しバスは市街地を通っています。
以前飯田線に乗るのに西鹿島から水窪まで行って乗り換えようと思ったら、接続が悪くタッチの差で乗り換えできないという状態で断念したことがあります。
実際には時刻表で省略されていた手前の相月駅前、城西駅前で飯田線と接続していました(^ ^;)

ここは建設中止になった国鉄佐久間線の通過予定ルートでもあり国鉄→JR東海バスが運行していましたが現在は遠州鉄道が運行しています。国鉄になる前も遠州鉄道バスが走っていたそうなので元の形態に戻ったというべきなのでしょうか。
この西渡駅は今もターミナルとしての役割があり、水窪に行く路線と中部天竜へ行くコミュニティバスの路線が分かれています。

西渡駅から中部天竜へ続く国道473号線。
この先に久根鉱山跡などがありアヤシゲ鉄道ファンにとっては多くの伏兵が潜む地域(笑)
この翌日は仕事なのでさっさと帰らなければならなかったのですが・・・(- -;)
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投稿日:2014-02-13 Thu
3月2日(日)に尾鷲市の三重県立熊野古道センターでこのような催しがあるそうです。大杉谷森林鉄道 記録フィルム映写会&座談会
大杉谷森林鉄道は昭和40年代初頭までは運材、その後も暫くはモーターカーは走っていたようで大阪営林局管内では最後まで残った森林鉄道です。
とは言え紀伊山地の奥地中の奥地ともいえる場所だけに訪れたファンの話はあまり聞くことがありません。
そんな大杉谷林鉄の座談会とさらには往時のカラー映像が見られる・・・というのですから既に「林鉄ちゃん」の血が騒いでます(笑)
![チラシ[1]](http://blog-imgs-64.fc2.com/n/i/s/nishimiyaushiro/20140216232030e96s.jpg)
2014年2月15日(土)追記
大杉谷の機関車

加藤製作所製のガソリン機関車の鋳物台枠はそのままに車体を載せ替えたような機関車がいたようです。
エンジンはディーゼルに換装していたのかな?
キャブを大きく改造して前面窓は一枚窓にするのが末期の大杉谷スタイルのようです。
投稿日:2014-02-11 Tue
前回は旧・西尾鉄道側の貨物扱い跡でしたので、今回は旧・三河鉄道の貨物扱い跡です。
現在の吉良吉田駅。旧・西尾鉄道の吉良吉田駅と旧・三河鉄道の三河吉田駅を強引に接続させたため、西尾線ホームは急カーブ上に存在してます。
手前が蒲郡線(旧・三河鉄道)蒲郡方で右に分岐するのが西尾線、奥に直進すると2004(平成16)年4月1日廃止の三河線碧南方面につながってました。
左に分かれていく線路は現在蒲郡線電車の留置線として使われているようですが、終戦直後頃までは貨物側線だった様子。

中央が蒲郡線で両脇に線路。右が旧貨物ホームへ続く線路。

小さな貨物ホームが残ってますが近付けません(^ ^;)

蒲郡側から見るとこんな感じ。
「吉良の塩田 幡豆郡の製塩業に関する調査報告(愛知県幡豆郡吉良町教育委員会)」によればちょっと前までホーム上に建屋があったそうですがこれは貨物ホームとして使われなくなってからもので、1953(昭和28)年の台風13号以後に建てられたものとか・・・。
すぐ近くに専売公社の塩田がありましたが、燃料の石炭や製品の食塩は船舶輸送だったとか。
戦時中の燃料事情が悪い頃は東濃の可児・御嵩方面から亜炭や薪を鉄道輸送していたようです。

戦後は主に西側の側線に貨物が発着していたとのこと。
吉良吉田駅蒲郡線ホーム(以前の三河線ホーム)向かいに使っていないホームがありますがこのホームのことでしょうか。
吉良で生産された塩は鉄道輸送はしていなかったとのことですが、1971(昭和46)年に塩田が廃止されてからは瀬戸内方面から刈谷経由で専売公社向けの塩の到着があったようです。
今では塩田だけでなく専売公社そのものも無くなり、跡地は住宅地化しています。
投稿日:2014-02-09 Sun
2004(平成16)年3月末で三河線碧南~吉良吉田が廃止となり、西尾線と蒲郡線だけの接続駅となった吉良吉田駅。かつては三河線と蒲郡線が三河鉄道で1本の路線で現・吉良吉田駅は三河吉田駅を名乗っていました。
西尾線の前身となる西尾鉄道の旧・吉良吉田駅は現在地より若干西尾寄りにあり、矢崎川に面した吉田港までの貨物線も存在していました。
岡崎駅前にあった岡崎新駅起点の西尾鉄道が吉良吉田まで延びてきたのは1915(大正4)年8月5日、吉良吉田~吉田港0.4(0.5?)kmが延長されたのは翌1916(大正5)年2月12日でした。
当時は軌間762mmの非電化路線で、イギリスのエーボンサイド(Avonside)製蒸気機関車4両が客貨混合列車を牽くのが主だったようです。
●吉田港駅
西尾市史4 近代編(西尾市)によると大正5年度(年末締めなのか3月締めなのか不明)の西尾鉄道各駅貨物取扱量は以下の通りだったそうで、東海道本線と接続する岡崎新を除けば吉田港が最多となります。
岡崎新 3721.5t
天王門 1564.3t ・・・ 旧線の駅。初代・西尾駅岡崎側の隣駅1928(昭和3)年の新線開業時に廃止。
西尾 1542.0t ・・・ 初代西尾駅、現・西尾駅より西に位置していた。
荻原 1077.1t ・・・ 後の三河荻原、2006(平成18)年12月16日で駅は廃止。
吉良吉田 908.9t
吉田港 2734.5t
吉田港では伊勢湾を使った内航海運と水陸連絡し貨物の積み替えが盛んだったものと見られます。
西尾鉄道は昭和目前の1926(大正15)年12月1日に愛知電気鉄道と合併しますがその時には蒸機が2両(エイボンサイドとコッペル)増え、客車は13両、貨車は49両にもなっており貨物輸送も伸びていたようです。
愛電合併後の1928(昭和3)年3月9日(10月1日となっているものもあり、詳しくはよくわかりません)に西尾線は軌間を762mmから1067mmへ改軌・電化され吉田港駅は吉良吉田駅に統合されています。
改軌時に吉田港までのレールも改軌して吉良吉田構内扱いで残したのか、完全にレールを撤去したのかは不明です。

現・吉良吉田駅西尾線ホームと吉田港方面の分岐点。
流石に遺物はありませんが栃の区割りが線路のあった頃の名残。
左の住宅の塀が貨物線のカーブする線形になっています。

1枚前の画像の位置から振り返り初代・吉良吉田駅があった方向を見ると・・・。
線路の周りは住宅が建てこんで駅があったような面影はありません。

分岐後も住宅地化してよくわかりません。
奥が西尾方向で、路地に沿って右の住宅辺りを線路が通っていたはず。

矢崎川に面した吉田港駅跡。現在はJAの建物が建っています。
ここから河口にかけて港になっていました。今では舟の係留が禁止されて一艘もいませんがかつては舟でいっぱいでした。
当地での鉄道と船は共存関係にあり、武豊港に荷を奪われ寂れていた吉田港は西尾鉄道、三河鉄道の開業により貨物の中継地として再びにぎわったといいます。
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投稿日:2014-02-03 Mon
戦時中から終戦直後にかけて都市部での糞尿輸送を鉄道で行った例はいくつもありました。当時は屎尿を肥料として使うために都市部から農村地域へ輸送していましたが、燃料確保困難から自動車輸送がまともにできなくなり、鉄道にシフト。
西武鉄道での輸送例の研究は進んでいるようですが、他は未解明なところが多いようです。
名鉄も屎尿輸送をしており、名古屋市内で集めた屎尿を堀田駅に集め、無蓋貨車トムにタンクを設置して運んでました。
貨車の写真は残っているのですが不鮮明で形式などはよくわかりません。
堀田から名古屋本線国府宮、今村(現・新安城)、渥美線(現在は豊橋鉄道ですが当時は名鉄)大清水へ運んでいたという記事がありますが、他に西尾線福地駅への輸送もあったようで、しかもその遺構が未だに残っています。

福地駅吉良吉田方には一見扇形プラットホームのような屎尿貯留槽が残ってます。
上面には6か所四角い穴が・・・当時はハッチが付いてたのでしょうかね。

中から木が生えていたのか切り株が2本・・・貯蔵してたものがものだけによく育ったのか??

トム2両ぐらいは横付けできたのでしょうかね?
手前の駐車場部分に側線があったものと思われます。

福地駅1番線(左の線路)から側線が手前方向に延びていた様子。
架線柱も建て変わってはいますが複線分幅を取ってありますね。
2番線の裏にも1本線路を敷けそうな用地がありますが、実際に待避線があったかどうかは不明。
当時の西尾線は架線電圧が600Vで1500Vの名古屋本線とは直通できず機関車も600V用のデキ360・デキ1000形が在籍していました。
屎尿輸送列車もこれらの機関車が牽いていたのでしょう。
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