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にしみやうしろ

Author:にしみやうしろ
小田急沿線で生まれ、金沢で北陸鉄道にはまり、愛知では名鉄に臨海鉄道さらに森林鉄道、今ではすっかり私鉄・貨物ファンに・・・。
鉄道に由来していろんなものに興味を持つようになってしまいました。

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三重交通専用線(関西本線桑名駅・三岐鉄道北勢線西桑名駅)2
調査から推定した配線の想像図
wkuwana_bl_map.png
国鉄(JR)、近鉄の砂利専用線と関係ない線は現状の配線を描いてます。

ということで当時の北勢線砂利列車の入換手順を考察してみることに~

引上げ線の長さは大体50~60mくらいのようです。
対して列車の長さがどれくらいになるかというと・・・
当時の砂利貨物列車は北勢電鉄20形引継ぎの三重交通デ71形電気機関車がトブ821形ダンプ貨車、トブ891形無蓋貨車を牽いていました。
当時の写真ではトブを11両牽いてる写真が見られました。
デ71の全長は9394mm(後の近鉄時代のデータ)なので大体9.4m、トブの図面は見付けられないのですが側面の写真から見て仮に大体4.2mとします。
そうなると列車長は55.6mと引上げ線に入れるのか微妙なところ・・・(^ ^;)

北勢線側の入換手順としては
●仮説その1 ~1列車を分割して積替え~
①西桑名到着
②機回しして編成を2分割、1編成目を積出し線へ
③機関車だけ西桑名駅へ戻る
④残る2編成目を積出線へ
⑤国鉄貨車へ砂利積込み終了後は②~④の逆の手順で帰りの星川行き列車編成を組成
⑥西桑名発車
この場合引上げ線には余裕で入るでしょうが入換手順に時間がかかり線路を長いこと塞いでしまいます。
砂利列車は員弁川河原~星川~西桑名を多い時で1日10往復したと言いますから、この方法では北勢線を貨物専用にしないと難しそうです。

●仮説その2 ~2列車を積替え~
①西桑名到着
②機回しして全編成を積出し線へ
③隣の積出し線にいる1つ前の列車が置いて行った編成を引取り西桑名駅へ
機回しして西桑名発車
こちらの方が現実的な気がしますが引上げ線の長さ問題が引っ掛かります(笑)

あくまで推定に過ぎないので、情報募集中ですm(_ _)m

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専用線跡 | 18:42:17 | Trackback(0) | Comments(4)
三重交通専用線(関西本線桑名駅・三岐鉄道北勢線西桑名駅)1
三重交通北勢線(現・三岐鉄道北勢線)と国鉄の砂利積替えの側線跡です。
国鉄側専用線のデータ
作業方法:国鉄機、国鉄動車
作業キロ:0.2km

北勢線は当初北勢電気鉄道が1914(大正3)年に開業させて2014年に100周年を迎えます。
その北勢電鉄が1931(昭和6)年に員弁川での砂利採取直営に乗り出します。
日本車輛製12.6t凸型電気機関車20形2両、無蓋車を新製。
翌1932(昭和7)年には星川駅(現・星川駅より阿下喜方200mほどの場所にあった)から分岐の砂利線(非電化)も開業させ員弁川河原と西桑名の積出し線をレールで直結しました。

コンクリート原料の砂利は建設材料として工業、軍需で需要が大きく、1939(昭和14)年には西桑名の砂利積替え施設を増強、無蓋車を10両新製しています。
そんな北勢電鉄も戦時合併のため1944(昭和19)年2月11日に三重交通へ統合されてしまいますが、北勢砂利興業を設立して砂利採取部門は独立させました。

戦争が終わっても復興期やそれに続く高度経済成長期も建設需要から活況を呈していましたが、そんな1959(昭和34)年9月に伊勢湾台風に襲われ員弁川の砂利採取設備が被災。
復旧時に鉄道輸送には見切りを付けトラック輸送に切替え、砂利側線も廃止されました。

DSC_0475.jpg
北勢線の積出線が木橋で国鉄側専用線の両脇に延びて、高架上の北勢線ダンプ無蓋車から国鉄の無蓋車に砂利を落としていたそうです。
かつて各地にあった砂利採取軌道から国鉄・私鉄線への積替え場では一般的な風景だったのでしょうが、普通砂利採取軌道は土工用の小型ガソリン・ディーゼル機関車がナベトロを牽く程度のごく簡易な軌道です。
北勢線はナローとは言え立派な電化地方鉄道で、ナローとしては大型の凸型電気機関車が木橋に乗り入れてくる風景は異様だったことでしょう。

DSC_0477.jpg
北勢線は関西本線、近鉄を乗り越すため徐々に高度を上げていきますが、その上り坂の途中に引上線への分岐があったようです。
ちょっとしたスイッチバックですね。本線右側に木橋に続いていた橋台の陰が・・・。

DSC_0480.jpg
橋台の拡大、もう一つ右後方にも積み出し線の橋台があります。2,3番積出し線とのことですが、どちらが2番か3番かは不明。
1番積出し線がありませんが、1番は現・西桑名駅付近にあった北勢砂利以外の貨物積替え線のことかと思われます。

DSC_0484.jpg
関西本線、近鉄名古屋線乗り越し築堤の一段低い場所に路盤跡らしき石積みが見られます。
恐らく引上げ線の跡で、ここが末端だったのでしょう。

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専用線跡 | 17:34:38 | Trackback(0) | Comments(0)
小野田セメント伊勢SS専用線(参宮線宮川駅)
前回に引き続き参宮線です。
山田上口駅から宮川を挟んで西側に位置します。
元々肥料の到着、農産物の発送が多い駅で5t貨車移動機も配置されている駅でした。
小野田セメント伊勢SS(サービスステーション)の専用線は比較的新しい専用線で1971(昭和46)年のSS開設時に設置されたようです。

作業方法:私有機、
作業キロ:0.6km、総延長キロ:0.3km

三岐鉄道東藤原駅発送のセメント到着や他SSとの融通のための貯蔵セメント発送が多かったようです。
農業関係の貨物扱いが無くなった後も、参宮線最後の貨物列車発着駅として残り1985(昭和60)年度の発送10,800t、到着48,792tを最後に統計上からは消滅します。

DSC_0043_20131215182001ba9.jpg
安全側線の先に残る側線のレール。

DSC_1024.jpg
上り普通列車が到着。
人口希薄地帯ではないものの停車する列車本数は少なく普通が1時間に1本、因みにライバルの近鉄は市街地の外れに山田線小俣駅がありますがそちらも停車するのは普通のみで30分に1本しかありません。

DSC_1021.jpg
この先はかつての参宮線複線化用地(後述)を使用した専用線が参宮線と並走して汁谷川手前まで続きます。
右にもうSSが見えてますが線路はSSまで行ってませんでした。
積降場とSSの間は圧送かベルコンで運んで汁谷川を渡り参宮線の下をくぐっていたようです。

DSC_1026.jpg
専用線は1971(昭和46)年開業ですが明治時代につくられた参宮線の複線化用地なので立派なレンガ積み橋台があります。
奥の現在桁が載っていない部分が専用線跡。

DSC_0016_20131215181959dee.jpg
積降場があったと思しき付近には上屋の基礎コンクリートと思しきものも見られます。

DSC_0014.jpg
セメントSS側線は汁谷川まで達していなかったのですが参宮線複線遺構は続いて汁谷川にも橋台が残ってます。
参宮線内で実際に複線化されたのは相可口(多気)~宮川、筋向橋(山田上口)~山田(伊勢市)で宮川橋梁を渡る宮川~山田上口間は単線のままだったようです。
となるとこの橋台は未供用のままだったのか、それとも宮川堤防手前までを宮川駅構内としてこの辺まで複線だったのかは分かりません。
因みに反対側の鏡台は上部を欠き取られてしまってます。

ここにいた機関車は1971(昭和46)年日立製25t機のOD25でした。
「日本製機関車製造銘板・番号集成」(渡辺肇/著)によると同じ製番の機関車は紀勢本線朝来駅の住友セメント専用線(納入先推定とのこと)へ行ったことになっているのですが、どうも宮川が実際の新製配置先のようです。
※補記:社長さんより日立のサプライリストでは小野田セメント納入になっていると情報を頂きました!

宮川の貨物廃止後は坂祝へ配転になり、2013年現在は名古屋臨海鉄道の保線車になってます。

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専用線跡 | 23:54:24 | Trackback(0) | Comments(3)
横浜ゴム三重工場専用線(参宮線山田上口駅)
参宮線山田上口駅裏手の横浜ゴム三重工場に延びていた専用線。
元々は地元資本の伊勢紡織が1921(大正10)年3月に操業開始した紡績工場で、1923(大正12)年6月に東洋紡と合併し同社の宮川工場となりました。東洋紡時代の1930(昭和5)年版専用線一覧には専用線の記載は見られません。
戦時中の1943(昭和18)年に軍需工場へと転用させられて翌1944(昭和19)年7月に横浜護謨三重工場として開所しています。海軍航空機の滑走用ゴムタイヤや可撓管(燃料系統のホースでしょうか)を製造しました。
敗戦後は現在まで自動車用ゴムタイヤを製造しています。

作業キロ 1番線0.2km、2番線0.3km 延長0.9km
作業方法 国鉄動車、手押→私有機

専用線一覧によると1953(昭和28)年版までは0.2kmのみ。1957(昭和32)年版で↑のように2番線0.3kmを延長。
入換機は1957(昭和32)年までは国鉄動車、手押となっており、1964(昭和39)年版以降は私有機となっています。
私有機と言っても1両は1949(昭和24)年国鉄京都工機部製の貨車移動機C2形なので、恐らく籍が国鉄から移っただけのことでしょうね。
もう1両は加藤製作所製6.5t機でした。加藤6.5tというと近隣の松阪の紡績工場に近鉄籍の入換機がいました。これら2両が近鉄名古屋線系統改軌による貨物廃止で廃車になってますがこちらに移ってきたのかも??

DSC_0176_2013120323375541a.jpg
山田上口駅ホーム横に残る踏切の跡と路盤。
工場側にあった鉄道門はなくなって塀があるだけ。

DSC_0182_20131203233759b10.jpg
かつては小さな水路があったようで道路と参宮線の間に暗渠の跡が。
駅と工場構内を結ぶ線路は1,2番線の2本がありましたがこれがどちらに当たるかは不明。
コンクリート製暗渠があるので鉄材不足の戦時中につくられた1番線では?と一応推測。

DSC_0196.jpg
これは踏切標識の土台でしょうかね?

DSC_0192.jpg
もうちょっと踏切跡に寄ってみると僅かに枕木も見られます。

DSC_0184.jpg
山田上口駅ホームより少し伊勢市側にも踏切跡が。
こちらはIビーム桁を架けた開渠になっていたようで橋台が残ってます。
鉄桁なのでこちらは戦後できた2番線でしょうか?
鉄道番外録8に掲載されている鉄道門と加藤6.5t機の写真にこの開渠が写ってました。

山田上口駅は当然一般貨物も扱っていましたが末期は専用線扱いのみだったようです。
貨物扱い量は1970(昭和45)年前後がピークで、1971年度は到着18,265t、発送34,980tを記録しています。
到着貨物は1956(昭和31)年度時点では石炭の到着が圧倒的に多い(年間10,827t)のが後に石油に転換、また原料と思われる化学薬品(具体的に何の薬品かは不明)が多いです。
発送貨物は製品のゴムタイヤが主でした。
専用線現役時の航空写真で見ると入線する貨車は化成品タキと有蓋車(タイヤ輸送用?)が多かったようです。
廃止日は不明ですが三重県統計書で車扱い貨物について1979(昭和54)年度が発送2,228t、到着17,086tあったのが1980年度は発送810t、到着6,269tと激減、1981年度は発送無し、到着28tとあるのを最後に記録から消えています。

参考文献:鉄道番外録8 ~伊勢路の小型機関車~ (ないねん出版)
       専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
       伊勢市史 近代編 第4巻(伊勢市)
       写真でつづる御薗村史(御薗村教育委員会)
       三重県統計書(三重県企画部統計課)
2013(平成25)年12月7日、12月9日改訂

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専用線跡 | 00:34:30 | Trackback(0) | Comments(4)

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