投稿日:2013-08-27 Tue
鐘淵紡績松阪工場は1923(大正12)年にできた綿紡績工場でした。当初は専用線はおろか近鉄伊勢線(開業時は伊勢電気鉄道)の線路もありませんでした。
専用線ができたのは戦後になってから。近鉄伊勢線も戦時中に複線のうち片方の線路が剥がされ単線に、新松阪~大神宮前が廃止され落ち目になっていた頃でした。
鐘淵紡績が工場拡張を行い、その際に松阪市が費用などを負担して建設しています。
専用線分岐点付近には1947(昭和22)年までは松坂北口駅があったようですが専用線が開通したと思われる1951(昭和26)~1952(昭和27)年時点では廃止になっており駅間分岐だったということになります。
この専用線ができたことで減る一方だった伊勢線貨物が一時的に増えましたが、1958(昭和33)年に近鉄名古屋線の改軌が決定、1959(昭和34)年上半期中に廃止されたものと見られます。
作業キロ:0.7km
作業方法:相手方機

1955(昭和30)年頃の松阪市街の路線図。
鐘淵紡績松阪工場専用線は本居神社前駅から阪内川を隔てずいぶんと離れ位置で分岐してます。
本居神社前駅も伊勢線単線化後は棒線1本の小駅となっており貨物取扱駅らしからぬ体裁でした。

廃線跡ファンには名高い伊勢電→近鉄伊勢線が通っていた跡の「近鉄道路」この辺に授受線(恐らく複線撤去した跡地を利用した側線)があったものと思われます。
名古屋方面からやってきた貨物列車は閉塞の都合からここに直接止まるわけには行かなかったと思われますが、一旦新松阪まで行ってから戻って来てたのでしょうかね?
<2016.11.30追記>
専用線開設時に信号所を設けていたようです。
それらしい信号場名は停車場一覧には見当たりませんがどうなっていたのか?

新松阪側の本線上から見た分岐跡(?)左が工場、右が名古屋方面、右のシャッターあたりから左へ専用線が横切っていたものと思われます。

専用線跡はマンションへ突っ込みカーブして(マンションのエントランスの道が線路跡そのもの?)阪内川堤防上の住宅の下を通っていたようです。
左の木立が線路跡のはず(?)

マンションを抜けると鐘淵紡績松阪工場跡の公園。
正面のマンションからこちらへ線路が延びていたと見られます。

専用線末端部には赤レンガの綿糸製品倉庫がギャラリーとなって保存されています。
専用線に関係したと思われる原料倉庫の方は残ってないようで。

●スイッチャーについて
近鉄のディーゼル機関車DB102(伊勢線本居神社前駅)でまとめました。
参考文献:近畿日本鉄道100年のあゆみ(近畿日本鉄道)
松阪市史 史料編(松阪市)
専用線一覧表(日本国有鉄道貨物局)
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投稿日:2013-08-24 Sat
長く続いた東北編ですがこれで最終回。弘南鉄道大鰐線津軽大沢駅の続きです。
津軽大沢のモーターカー・・・こちらはラッセルもロータリーも付いてない状態。
除雪用ではなくトロ牽引用?

こちらは元JR東日本機らしく「青森技術センター」の文字も見えます。
青い森鉄道のキャラクター モーリーが描かれているのでJR東日本→青い森→弘南大鰐と転属してきたのでしょう。

日中の上下列車交換はここだけのよう。
以前大鰐線に乗った時は有人駅でしたが、現在は駅務要員は配置なしで車庫の要員だけの様子。

大鰐の街中を行く中央弘前行。
津軽平野を走ってきた大鰐線もこの辺は山間の路線の雰囲気が漂います。
製材所の煙がたなびきいい雰囲気。

暗くなってきたので走行撮影は終わり。
JR大鰐温泉、弘南大鰐駅すぐそばの大鰐町地域交流センター鰐comで一っ風呂浴びてまったり~

大鰐温泉駅に戻ると若い駅員さんが一人で駅務に頑張ってました。
弘南鉄道側は夜間は無人になるようで窓口は閉まってますが電灯に照らし出された「弘南鉄道」の文字が印象に残りました。

今夜は「あけぼの」に乗って翌日は都内国立公文書館で専用線資料調査~。
というわけで今夜の宿が到着。
羽越・奥羽と来たときと同じルートを走るにしても客車列車だとまた雰囲気が違います。
行きの三条・燕までの夜行バスでは全く寝付けませんでしたがこちらだとやはりよく寝られるんですよね~。
投稿日:2013-08-20 Tue
東北旅行の最後は弘南鉄道大鰐線。奥羽本線石川駅近くの奥羽本線をオーバークロスする独特な雰囲気の高架橋から。

あいにくの雨でしたが津軽大沢まで撮影しつつ歩いて向かいます。

ワムの廃車体が3台分。
ワム20形のようですが時期が時期だけに草深くてよくわからん(- -;)
ワム90000と同型で自社発注の他秋田中央交通からの転属車なんてのも弘南線の平賀にいたようですがもう流石にないかな?

弘南の文字と渋い社紋。
車号の下には国鉄線乗り入れ承認の2本帯も少し見えてますね。

もう1台奥に置かれてます。
ED221やキ106は残念ながら見づらい場所に。

既に廃車になった6000系は展示してあるかのように見やすい場所に置かれてました。
投稿日:2013-08-18 Sun
馬淵川左岸を行く八戸臨海鉄道の対岸にはもう一本線路が通っています。こちらは青森県営側線でJR八戸線から分岐しています。
タイトルが八戸臨海鉄道となっているので紛らわしいですが臨鉄の路線ではないです(^ ^;)
元々八戸臨海鉄道も県営側線を臨海鉄道化したものでルーツは似たようなもののようです。
この路線は現在使われていませんがまだ廃止とはなっていない模様。
この末端には製油所が集まっていますが、その中の米海軍製油所から三沢基地へ2006年まで航空燃料を運んでいました。
ここで末期に使われていた機関車はさっきのDD351でした。

新大橋の上流側に残るヤード跡。
このヤードは末期には使われていなかったようです。

馬淵川堤防と線路。

まだ現役感のある踏切。

本八戸駅貨物扱所。
旅客の本八戸駅は高架駅ですがこちらもまた同じ本八戸駅の設備ということになるようです。
バックには「E2系」が停車中。

八戸線本八戸付近高架化以前は左の線路が本八戸旅客駅へつながっていました。
1977(昭和52)年の高架化以降は馬淵川を渡って右の長苗代駅方面へと付け替えられています。

並行している八戸線の本線の橋梁よりもずっと立派な馬淵川橋梁。使わないのであれば本線のほうに使えないものか・・・(^ ^;)

長苗代駅裏を通過する八戸臨海鉄道のDD56 2北沼行。
一見複線のようですが八戸線との接続は八戸貨物駅以外ではありません。
投稿日:2013-08-05 Mon
本八戸駅からバスで移動するつもりが乗り遅れ・・・時間があるからと駅前で市バス撮ってたらいつの間にか行っちゃいました(^ ^;)
止むなくタクシーで行くことに・・・ところがこれが正解でした。
スイッチャーが思っていたより早く出て来てバスだと間に合わなかったんです。
この日八戸は何やらもやがかかったような天気で遠方は霞んでしまいます。
タクシーで運転士さんから聞いた話ではこれが所謂「やませ」とのこと。
八戸は霧の街なんですね。
八戸臨海鉄道北沼駅の三菱製紙専用線。
タクシーを降りると間もなく工場から推進運転で出て来ました。

後ろに付いているのはDD351。1974(昭和49)年日本車輌製の35t機です。
うちの近所でも春日井や豊川に同型がいるのでお馴染み・・・しかもこの機関車自体も愛知県出身。
愛知環状鉄道北岡崎のユニチカ専用線で使われていました。
中学生の頃愛環線をDD51牽引の貨物が走ってると聞いて一度見ておきたいな~と思ってるうちに廃止されたところ。その貨物の行先である工場内で使われていたのでした。
因みに北岡崎の専用線は元は名鉄挙母線大樹寺駅から延びていた専用線で日車35t機の以前は名鉄籍のDB-76やDB-5なんてのがいました。
DD351は専用線が名鉄から岡多線に付け替え有られた後に入線してるので名鉄に籍を置いていたことはありません。

DD351は日車35t機としては珍しく警音器がタイフォンです。
ホイッスルのつもりで構えているときに「プワ~ン」とやられると何だか妙な気分(^ ^;)
元々なのか八戸で改造されたのかは分かりませんが。

スイッチャーが受渡を終え工場内に戻って行くと丁度いいタイミングでバスが来ました。
それに乗ると今し方受け渡されたコキ車を八戸臨海鉄道本線上で撮ることもできます。
と言うわけで馬淵川堤防沿いのオーバークロス上からDD56 2牽引の列車を。
タクシーの運転士さんから震災の時は馬淵川をだいぶ上まで津波が遡ったと聞きましたが不幸中の幸いにも堤防を越えて市街地に溢れ出すことはなかったそうです。
工場や臨海鉄道の沿岸部は津波被害を受けたそうですが機関車もこの通りで見た目には元通りな様子でした。
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