投稿日:2018-09-22 Sat
土倉鉱山が新興財閥日窒コンツェルンの日窒鉱業の手に渡ると土倉鉱山~北陸本線中ノ郷駅ルートは狭い杉本隧道(丹生隧道)が輸送のネックとなり一つ米原よりの木ノ本駅への索道がつくられました。
選鉱所から黄色のルートで運ばれていたのが赤のルートに変わります。

木ノ本駅への鉱石索道本線の遺構は見付けられていませんが鉱石を取り出した残土のズリを杉野川対岸のズリ捨て場まで運んでいた索道の支柱が残っていました。

先端の方にあったプーリーなどは既に失われていますが貴重な貨物索道の遺構です。
木之本駅までの本線にもこのような支柱が並んでいたのでしょうね。

索道支柱の下にはコンクリートで囲われた沈殿槽のようなものがありました。既に水は無く土砂で埋まっています。
コンクリートの縁の上は柵で囲ってあった跡が残るだけ。この柵の支柱は手押し軌道の古レールなのか6kgレールが利用されています。

沈殿槽の下には沢の水を通すためのトンネルが開いていました。
手前には水路橋の跡らしき残骸が沢を横断しています。

国土地理院の空中写真でも1947(昭和22)年米軍撮影のものに木ノ本付近の索道のラインが割りと鮮明に写っています。
かつて北国街道の宿場町として栄えた木之本の市街地北側の山林を斜めに通って北国街道、北陸本線を乗り越したところに工場が見えます。
索道停車場には北陸本線木ノ本駅から延びた日窒鉱業専用線が接続しており精錬所まで貨車輸送を行っていた様子。

索道と北陸本線の交差地点から土倉鉱山方面を見た様子。

223系新快速が横切る向こうが日窒鉱業の跡。
1965(昭和40)年に土倉鉱業所が閉山となった2年後の1967(昭和42)年にヤンマー木之本工場が進出しトラクターの製造を行っています。
日窒鉱業時代の索道停車場は"YANMAR"の文字が掲げられた辺りにあったものと思われます。

北陸本線田村~木ノ本~敦賀が交流2万V電化開業したのは土倉鉱山操業中の1957(昭和32)年10月1日。
索道開通以前の積み替え駅中ノ郷が柳ケ瀬線の小駅になり、近江塩津経由の新線には国鉄初の本格的交流電機ED70が走り始めました。
こうなると高圧の架空電車線とさほど高低差のない索道の交差が問題になりそうですがどうだったのでしょうね。
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投稿日:2018-09-20 Thu
下丹生から小さな峠を越え北陸自動車道をくぐると中之郷の街並みに入ります。因みに地名は「中之郷」、駅名は「中ノ郷」です。

旧・北陸本線中ノ郷駅前より峠の方を見た様子。
奥の土蔵の先には北国街道が通り宿場の雰囲気が残っています。

中ノ郷駅構内旧2、3番線ホームがあったと思われる場所から駅前通りを見た様子。
線路は国道365号線に転用されています。

1番線ホームの一部が残って、駅銘板を模した看板が立っているのはその筋では結構有名。
かつては敦賀への柳ケ瀬越えのため補機の解結作業が行われ、機関車が屯していましたが1957(昭和32)年10月1日に深坂トンネル経由の交流電化新線が開通すると柳ケ瀬線という赤字ローカル線に転落。キハ52が単行で走るだけとなり1964(昭和39)年5月2日に廃止。

かつて北陸線に特急が無い時代に急行も止まる駅だったので今でいうとサンダーバードやしらさぎが止まる駅並み。
今では余呉バスの日野ポンチョが通るだけ。
因みに現在線の余呉駅まで見通すことは出来ますが夏場や冬場は遮るもののない田園地帯を横切るので歩くときついかも。

中ノ郷駅米原方に残る側線のものと思しき橋台。
左の石積みはいびつな形の石が積み上げられており明治期以来のものと思われます。
右は整然と四角く切られた石材で後の時代に増設されたものでしょう。
土倉鉱山の鉱石を載せていた側線なのでしょうかね?
投稿日:2018-09-20 Thu
土倉鉱山で採掘された鉱石の輸送ルート~。
荷馬車で中ノ郷駅へ輸送していた頃のルート(黄色矢印)
鉱山から杉本までは現在の国道303号線ルート(所々バイパスでルート変更になっている個所は有りますが)。
杉本から上丹生までは現在の滋賀県道284号杉本余呉線で杉本隧道(丹生隧道)を通りショートカット、さらに小さな峠を越え北国街道を横切って中ノ郷駅へ達していました。

土倉鉱山に程近い金居原集落。国道303号線はバイパスをつくって対岸に移りましたが集落内は昔馬車が通っていた頃以来の道幅と思われます。
奥が土倉鉱山、八草峠経由で揖斐川・岐阜方面です。

杉本から杉野川沿いの峡谷区間を川合へ延びる国道303号から分岐し峠越えに挑む馬車道の県道284号。
峠には狭く長い杉本隧道が待ち受けています。
杉本側は杉本隧道、丹生側は丹生隧道と扁額が架かっています。
トンネル両側で名前が違いますが名古屋と飯田を結ぶ国道153号線を名古屋では「飯田街道」、飯田では「三州街道」と呼んでいるのと同じでしょうね。

以前は蛍光灯が点いていたものの節電で消灯された模様。
一部煉瓦積みの区間も残ります。
丹生側の銘板によると延長310m、高さ4m、幅3.5m。
1948(昭和23)年9月10日起工、1951(昭和26)年3月30日竣工とありますがこれは改修工事の記録と見られます。

丹生側の坑口。
杉野川沿いに木之本へ行く現国道303号ルートだと一度水害が発生すると道路が寸断し当時の土木技術では復旧に時間が掛ったものと思われます。
鉱石出荷が長期間ストップするリスクを避けるためには2か所峠越えはあるものの比較的地勢が穏やかな高時川沿いに出た方が得策と考えたのでしょうね。
土倉~中之郷ルートではこのトンネルの狭さがネックになり木之本への索道が開設されたそうです。

丹生側坑口のすぐそばには木漏れ日に燦然と輝く隧道記念碑。

隧道記念碑の1918(大正7)年6月竣工の文字。
土倉鉱山は1907(明治40)年に発見後開発されているそうですが杉本隧道が掘られるまでは峠を頂上まで登っていたのでしょうか。

裏面にはトンネル両側の杉野村長、丹生村長と並び土倉鉱山長の名前が刻まれています。
左端は「有志」と刻まれているようです。
1954(昭和29)年に昭和の大合併で消えた村の名前で杉野村は木之本町、丹生村は余呉村(後に余呉町)へ合併。
2010(平成22)年には平成の大合併でどちらも長浜市に統合されています。
投稿日:2018-09-18 Tue
日窒鉱業土倉鉱業所にいたバッテリー機関車で分かっているものは以下の通り。・3t機 日本輸送機 1939(昭和14)年5月製造 製番1161
・3t機 日本輸送機 1942(昭和17)年8月製造 製番2120
・4t機 日本輸送機 1955(昭和30)年12月製造 製番25643
・2t機 日立製作所水戸 1956(昭和31)年9月27日製造 製番191635-1
・2t機 日立製作所水戸 1956(昭和31)年9月27日製造 製番191635-2
・4t機 日本輸送機 1957(昭和32)年4月製造 製番28516
・4t機 日本輸送機 1960(昭和35)年12月製造 製番3203001
写真を見る限り末期の機関車は下回りが黄色だったり黒っぽい色だったり、バッテリー箱は黄黒の警戒色。
なお鉱車は黄色一色だったようです。

昭和30年頃の日本輸送機製4tバッテリー機関車。日窒鉱業向けのバッテリー箱警戒色仕様。
日窒鉱業(現在はニッチツ)の標準塗装なのか埼玉県大滝村(現在は秩父市)の秩父鉱業所にも同じ塗装の機関車がいました。
土倉閉山後秩父に移った機関車もいるのでしょうか?
滋賀県が公開している土倉鉱山での災害(白川 雅一/著)に機関車が写ってます。

以前北陸の某所で見たことがある3~4t日本輸送機製バッテリー機関車の残骸とほぼ同型のようです。
以下は坑道入口までの廃線跡探訪。

選鉱所から奥土倉方面へ延びる未舗装林道が線路跡のようです。
かつては508mmゲージの線路が敷かれていたのでしょう。

線路脇の山手に立つ土倉鉱山鉱友顕彰碑。
鉱山で働いた人々が仲間たちとの思い出を記念してに立てたのでしょうか?
草深くて近くで確認できてませんが揮毫は木之本町の1980年頃の町長さんのようです。

通洞までの間は道路脇まで植林されているものの何やら施設の跡がちょいちょい見えます。

ほどなく通洞前に到着。
かつて線路は複線で坑道に入っており、当時の通洞の写真を見ると坑口の部分に渡り線があったようです。

坑口上が窪んでいるように見えるのはかつて神棚があった跡。山の神様がおわしたのでしょう。
通洞前には構内からの水が湧き出して水溜りになっています。
現役時の通洞と比べると地面が埋まったのか穴が小さくなったように見えます。
参考文献:
ニチユ<日本輸送機>機関車図鑑(岡本 憲之/編著 イカロス出版)
機関車表フルコンプリート版(沖田 祐作/編 ネコ・パブリッシング)
投稿日:2018-09-13 Thu
国道303号線八草トンネルで岐阜県から滋賀県に入って旧道に入った長浜市(旧・木ノ本町)金居原にある日窒鉱業土倉鉱業所跡。1965(昭和40)年に閉山になるまで黄銅鉱、黄鉄鉱を採掘しており、鉱石は当初荷馬車で北陸本線旧線の中ノ郷駅まで輸送、後には1つ米原寄りの木ノ本駅まで索道で輸送して貨車で精錬所へ運んでいたそうです。
廃墟ファンには有名な選鉱場の土台が残ります。
当然鉱山に付きものの電車(電気機関車ですが鉱山関係は「電車」と呼ぶこと多い)がありました。
508mm軌間でバッテリー機関車を使っていました。

出口土倉の国道303号線旧道から鉱山への林道が分かれる箇所。
出口土倉の読みは「でぐちつちくら」ではなく「でごうつちくら」だそうで。
前の杉林には社宅や映画館、学校やグラウンドがあり中町、新町、北新町、下町といった鉱山町が形成されていたようですが既に面影なし。

土倉鉱山の奥には奥土倉鉱山もありましたがそこまでは行ってません。

選鉱所跡。以前は車でここまで入ってましたが林道の洗掘が進んで入り辛くなりました。
土台だけで上にあった選鉱所の建物は残っていません。
線路は坑道から延びてきた線路はこの下の道路の辺りまで入っており選鉱所の上へはインクラで鉱石を上げていたようです。
選鉱された鉱石はこの画像を撮った辺りの位置から出ていた索道の搬器に載せられて北陸本線木ノ本駅へ運ばれていました。

夏草に埋もれて見た目は映えるものの構造がよくわかりません。
選鉱場自体は立入禁止なので下から見るだけ。
変に分け入ってシックナー(沈殿池)に落ちたりでもしたら洒落になりません。
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