投稿日:2017-12-04 Mon
現在は新しい小さな駅舎になってしまった焼石駅。以前の木造駅舎末期に撮影していたものをUPします。
撮影は全て2014(平成26)年5月4日です。

1929(昭和4)年4月14日に飛騨金山~焼石が開業した時からの駅舎。
翌1930(昭和5)年11月2日の下呂開通までは高山線の終着駅で、当時の写真を見ると御嶽山登山客や下呂温泉への客を狙ったタクシーがずらりと並び今の鄙びた雰囲気からは想像できない風景も。

標準的な木造駅舎ですが窓の天地巾が大きく室内も明るい印象でした。

駅前の様子。
飛騨川沿いの狭い土地で道路向かいの家の裏はすぐに飛騨川です。

ワイドビューひだ36号+16号大阪・名古屋行併結編成が通過。
GWだけあって11両もつないだ長大編成でした。
駅舎の向こうには貨物側線が1本。現在も保線用に使ってるようです。

走り去る同列車。
運転台付きキハが3両連続というのもなかなか目にしませんね。
キハ58系時代の急行丹後などではよく見ましたが。
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投稿日:2017-11-13 Mon
飛騨金山駅から富山方へ歩くこと20分ほど。福来信号場の近くまでやって来ました。益田川(飛騨川)で小坂などから木材を流していた流送の遺跡を見に下原中綱跡へ。
名古屋の白鳥貯木場、桑名貯木場へ木材を川で運んでいた頃、下原中綱では川を横断する綱で木材を受け止め検品後再び流していた場所です。

福来踏切を通過するキハ25系1000番台車上り普通美濃太田行。
その右に見えている建物が下原中綱の福来口御番所屋敷。

木造平屋建てで中綱の左岸側管理事務所と言った役割でしょうか。
右岸にも御番所があったようです。

1692(元禄5)年までの金森氏の高山藩配下の時代は大船渡臼が洞(大船渡ダム付近)にあったようですが、同年に徳川幕府直轄の天領となって以降は上流の福来に移り、今に残る中綱の位置へは幕末に移って来たとのこと。
この建物も同時期に建ったようですね。

下原中綱自体は御番所から見て高山本線の向こうにあり踏切が無いので標柱を見ただけ。
綱を固定していた岩が残ってるそうですが・・・。

面白いのはその御番所が民家に転用されてお住まいになった方が国鉄名古屋鉄道管理局の踏切防護協力員をお勤めだったようで、当時の名鉄局の看板が軒下に架かっていること。
昔の踏切にあった三角形の柵が描かれてます。名鉄美濃町線白金付近の踏切や関西本線庄内川橋梁の左岸土手にこのタイプの柵がありましたがいずれも無くなりました。今はどこかで見られるでしょうか。
時代の流れで流送が消え鉄道に置き換わっても「御番所」として輸送を守る使命を担っていたと考えると実に興味深いものがあります。
是非この点もアピールしたいところです。

現在は国鉄も無くなりJR東海になりましたが踏切防護協力員と言う制度はいつまであったのか?
現在はお住まいだった方も新居に移られて御番所屋敷は史跡として余生を送りながら益田川の流れと高山本線を見守っているようです。
投稿日:2017-11-09 Thu
飛騨金山駅構内南半分(岐阜方)。
保線車両用として今も使われている側線が延びています。

2、3番ホーム上から富山方を見た様子。跨線橋が変わった形状ですね。

2、3番ホーム上から岐阜方を見た様子。駅舎よりも大きい美濃太田工務区金山保線支区の建物が目立ちます。
地元の方に伺うとこの辺りには石炭置き場、給水塔、転車台があり奥の保線車庫部分には機関庫があったとのこと。
ここは機関区ではなく駐泊所で美濃太田区や高山区の機関車が入っていたようですね。

岐阜方の駐泊庫跡と思しき付近から見た様子。転車台は全く跡がわかりませんね。
なお保線車庫内は空のようでした。

飛騨金山駅に入る下り普通列車キハ25系1000番台車。
頭に付いているJR西日本やIRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道の521系電車と同タイプのホイッスルカバーが目立ちます。
投稿日:2017-11-07 Tue
広大な飛騨金山駅の構内を見ていきます。まずは北半分の富山方。

飛騨金山駅構内を富山方から見た様子。
右側の草地は側線、専用線跡。

線路沿いに富山方へ行ったっところ。
現在は跡形もありませんがこの背後には1998(平成9)年まで山岸製材所があり構内にはトロッコ(軌間600~609㎜だったらしい)がありました。
1963(昭和38)年頃までは軌道が駅まで延びていたそうで手前の道路を線路が通っていたのでしょうか。
さらに1929(昭和4)年にできた金山ダム(現大船渡ダム)からは上流から飛騨川で流されてきた流送材を駅に出すための東邦電力の軌道があったようです。
草むらの中にある廃屋辺りに大船渡ダムの木材揚陸土場があったと思われますが・・・この建物も関係あるのかな?
高山本線を挟んで両側が木材トロッコの廃線跡と言うことになります。
前述のトロッコがあった山岸製材所金山工場は1934(昭和9)年操業開始と言うことなので高山線が全通して飛騨川の流送が無くなって不要となった東邦電力軌道のレールやトロッコを譲り受けて使っていたのかも?

飛騨金山を発車するワイドビューひだ9号。
広大な側線群は草生してますがレールが残ってます。
手前の道路は製材所軌道が通っていたと思われる道。今でも周辺には製材所が多いです。

同じワイドビューひだ9号を後打ち。
この後ろ家並を挟んで100m先に大船渡ダムがあります。

こうして見てもやはりかなり広い構内。
かつては貨車がひしめいていたのでしょうが何もいないと寂しいですね。
参考文献:
トワイライトゾーン MANUAL Ⅲ 山岸製材所金山工場のトロ(平田邦彦/著 ネコパブリッシング)1994
飛騨川(中部電力株式会社/編)1979
投稿日:2017-09-17 Sun
中央本線第二木曽川橋梁で木曽あずさの神領回送を撮影にお出かけ~。前回までの賤母発電所工事軌道は坂下駅からこの撮影地に移動するための行き帰りの寄り道でした~。
バックには賤母発電所工事軌道の対鶴橋が架かっています。

南松本から四日市への石油貨物返空列車。
JR貨物標準色+広島色のEF64 1000重連。前後が逆ならな~(- -)というお約束のパターン。

6両編成の「しなの」「木曽あずさ」と同じ長さの編成と言うことで目安を図るために撮影。

「木曽あずさ」回送。
個人的には新あずさ色の方が爽やかで好きかな?
この色のあずさは子供の頃写真で見た程度であまり縁が無いです。

なお中央本線この区間の旧線は現在線が第二、第三木曽川橋梁で串刺しにする流れを西から望んでいました。

路盤はこのように残ってます。

新旧線は坂下駅構内で合流、新旧上鐘山トンネルが並んでます。
この上を坂川鉄道がオーバークロスしていました。
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