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にしみやうしろ

Author:にしみやうしろ
小田急沿線で生まれ、金沢で北陸鉄道にはまり、愛知では名鉄に臨海鉄道さらに森林鉄道、今ではすっかり私鉄・貨物ファンに・・・。
鉄道に由来していろんなものに興味を持つようになってしまいました。

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別府鉄道キハ2修復プロジェクト
クラウドファンディングで別府鉄道キハ2の修復資金募集を行っています。
日本最古の機械式気動車 旧別府鉄道車両キハ2号を永久保存へ!!
元・三岐鉄道のキハということもあり応援の意味を込めて臨時UPします~。
募集期限は2017(平成29)年6月28日23:00までとなるので応援してもいいよと言う方はよろしくお願いします。

代燃車になったり、戦車のエンジンを載せたりと昭和史を体現した貴重な生き証人。残したいものです。

img059.jpg
別府鉄道野口線円長寺駅跡付近に保存のキハ2。
この写真を撮った13年前はまだ大部分の窓枠が原形をとどめていたが・・・
2004(平成16)年8月19日撮影

●三岐鉄道キハ5→別府鉄道キハ2
三岐鉄道が1931(昭和6)年の開業に向けて日本車輌で新製したガソリンカー5両キハ1~5の末っ子キハ5でした。
戦時中の燃料統制下では代燃装置を積んでガソリン代燃併用車となります。
キハ2のチャームポイントともいえる前後の荷物バケットは代燃ガス発生装置を搭載するためのスペースでもあったようです。
1951(昭和26)年には終戦で不要となっていた旧陸軍の戦車用ディーゼルエンジン相模N-80を搭載してディーゼルカーに変わっています。エンジンはさらに日野DA-55へ交換されます。

sangi-dc5.gif
三岐鉄道キハ5

三岐鉄道が直流電化された後も当時非電化の関西本線乗り入れ四日市駅直通列車に使われていましたがこの乗入運転が1964(昭和39)年5月に廃止されると不要になり翌1965(昭和40)年1月廃車、別府鉄道に譲渡されキハ2(二代目)となり1984(昭和59)年2月1日の同鉄道廃止まで野口線で使用されました。

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別府鉄道キハ2



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廃線跡(一般鉄道) | 22:47:37 | Trackback(0) | Comments(0)
東野鉄道箒川橋梁跡
那珂川清流鉄道~番外編 最寄りの鉄道跡~
那珂川清流鉄道保存会の最寄り駅は烏山ですが、それより近い駅がありました。
東野鉄道那須小川駅(現在の那珂川町立小川中学校の位置)です。

東野鉄道は1918(大正7)年に西那須野~黒羽13.1kmが開業、常陸大子を目指し延伸を進め1924(大正13)年黒羽~那須小川11.3kmを延伸しています。
間には那珂川の支流箒川を跨ぐ長大橋梁がありました。
那須小川より先の工事は進まず黒羽~那須小川の区間は存在意義が薄れてしまい、箒川橋梁も1938(昭和13)年夏の水害で破損、何とか復旧させたものの1939(昭和14)年6月1日に廃止されています。

DSC_1565 (37)
那須小川駅から延びる廃線跡の道を北へ進むと国道294号線バイパスができておりそのまま箒川を渡ります。
新箒橋 橋長179.5m、幅14.5m5連桁の橋で今年2月26日に開通したそうな。
廃線跡は一足間に合わず潰されてしまったのか?(・ ・;)

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反対側は箒川の広い河川敷に山科の大カーブのような巨大築堤。

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すぐ横に那須小川方(右岸)橋台が残ってました!
右岸は切り立った崖になっており両岸の高低差が大きいです。
鉄道現役時は那須小川方に掘割区間を設け橋高を抑えていたようですが今は畑になって埋められています。
それにしても橋台の幅が広く2車線道路の橋梁跡かと思えそうなほど。
架かっていたのはトラス桁だったのでしょうか。
ごつい橋梁ですが2軸ガソリンカーか蒸機の貨客混合列車程度しか走ってないはず。

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箒川の流れの中に残る橋脚基部。

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西那須野方(左岸)の橋台・・・ひょっとすると左岸河川敷区間は築堤になっていてこの橋台は架道橋の橋台に過ぎないのかも知れませんが。

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橋台の下まで行って見ました。
こちらは標準的な単線鉄道幅、載せられる桁の厚みを考えるとIビーム桁が架かっていたのか。

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箒川橋梁跡から箒川沿いに那須の山々へ延びる高圧線鉄塔の列が見事だったのでつい一枚。

東野鉄道西那須野~黒羽は1968(昭和43)年12月16日廃止まで残ります。
地味な鉄道ながら蒸機は朴訥な坂東武者と言う感じのボールドウィン1,2号機(元・播但L2→山陽→国鉄200)が昭和30年代まで生き残り、非電化私鉄では有り勝ちな元国鉄キハ04のほかキハ04の側面にキハ07の前面を持つ旧・五日市鉄道のキハ501や津軽鉄道からやって来た箱型ロッド駆動ディーゼル機関車DC20などアヤシゲな車両がいました。
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キハ501 1936(昭和11)年新潟鉄工所製 五日市キハ501→南武→国鉄→東野

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DC201 1952(昭和27)年新潟鐵工所製20t機 津軽DC201→東野

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廃線跡(一般鉄道) | 22:12:58 | Trackback(0) | Comments(0)
城北線のこと~5~未成区間(小田井~清州)
線路建設予定地跡はしばらく消えますが東海道本線(稲沢貨物線)合流直前で再び現れます。

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愛知県道67号名古屋祖父江線(国道22号旧道)と交差すると清洲文化広場という遊歩道になっています。
左に見えるのは清洲城復元天守閣。

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復元天守のすぐ横を未成線・・・あの上から線形がよく見えるのでは?

DSC_0214.jpg
と言うわけで上から(笑)
まずは五条川を渡り稲沢線と合流する予定だった方向。
この辺は城北線(計画時は瀬戸線)とどのように合流させる気だったのか全く見当がつきません。
丁度左の稲沢線上をEF64-1000牽引のコキが通過中。
前方に見える高架は小田井で城北線と並走してから分かれ東名阪道へと続いている名二環。

DSC_0215_201512212317105da.jpg
そして今歩いて来た方向を見ると鉄道らしい緩くカーブした線形の清洲文化広場が。
遠くには名古屋高速や城北線の高架も見えています。

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この辺で合流するつもりだったのでしょうかね?
前方左の木立は実際の清洲城跡(復元天守閣の場所は実際の清洲城跡ではない)です。
その左から瀬戸線の高架が延びて来る計画だったのでしょうが実際にできていたら清洲城跡は鉄道に蹂躙されつくした史跡となっていたところ。
因みに清洲城址は右(西方向)に拡がっており稲沢線、東海道本線、東海道新幹線は清洲城を東西に分断しています。

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廃線跡(一般鉄道) | 22:33:43 | Trackback(0) | Comments(0)
城北線のこと~4~未成区間(小田井~清州)
城北線より未成線分岐部の続き~

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稲沢への線路が城北線小田井方面の線をくぐるはずだった箇所。

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同じ個所を稲沢方から見た様子。

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水場川の先、高架が見える名古屋高速6号清須線・名岐バイパス(国道22号線)までは工場、倉庫街で痕跡は何も見当たりません。

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渡る場所が全然ない名岐バイパスをかなり大回りさせられ(- -;)てようやく渡ると周囲の区画に対して斜めに並ぶ住宅の列が見えます。線路予定地として整地したものの結局宅地として売却されたのでしょうか。

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稲沢方から見た方が分かり易いでしょうか。正面に見える住宅が手前の道路に対し斜めになっています。
後方に見えるのは名古屋高速6号清須線の清須料金所

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廃線跡(一般鉄道) | 20:11:20 | Trackback(0) | Comments(0)
城北線のこと~3~未成区間(小田井~清州)
城北線3回目ですがむしろここからが本編でしょうか(笑)

城北線が国鉄瀬戸線として計画されたときは稲沢から勝川へ向かうのが本線で、枇杷島からの現路線は支線とされていました。
その後国鉄貨物のシェア低下などで貨物主体の稲沢方面ではなく名古屋方面を向いた枇杷島ルートが本線となっています。
稲沢への線路は小田井~尾張星の宮の新川を渡る付近で上下線が大きく分かれる箇所が分岐する計画の名残と言うことはいくらか耳にしますがその他の区間に何か痕跡が残っているかと言う話はあまり聞いたことがありません。
近所のこととてあの辺は工場や倉庫が多く変遷もめまぐるしいので何もないはず・・・と思っていたのですがgoogleマップの航空写真を見ていたらアヤシゲな区割りが見えてきました。

途切れ途切れながらそのラインをつなぐとこんな具合になります。
地図よりは航空写真にした方が分かり易いかもしれません。
国土地理院の航空写真を見ると1971(昭和46)年辞典では線路建設予定地は存在せず1975(昭和50)年から現れています。
どうやら線路用地として買い上げた土地を売却した後もそのままの区割りが残っているようです。

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第1新川橋梁の稲沢→小田井合流部の橋脚が2本。

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小田井方を見ても高架橋自体には分岐構造はありません。

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さっき乗ったキハ11-301が枇杷島から折り返してきました。
高架が大きく右へ張り出していますがここが小田井→稲沢方面の線路をアンダーパスさせようとしていた箇所です。

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現橋梁の橋脚も右側スペース開いており、小田井→稲沢の線路もここで分岐して3線構造の橋桁を載せるつもりだったのでしょうか。

つまり・・・
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こんな配線にする気だったのかな?

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第一新川橋梁の橋脚(未供用側)に埋め込まれた銘板には設計者:日本鉄道建設公団とあります。

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新川の枇杷島方で城北線の複線高架が上下左右に大きく分かれます。この真ん中の空間を稲沢への線路が通る予定でした。

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廃線跡(一般鉄道) | 22:47:10 | Trackback(0) | Comments(0)
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